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隠隈魚の日常
遠くで、6時のアラームの音が聞こえる。私は、まどろみながらその微かな音を聞く。その音がぴたりと止まったかと思うと、しばらくして隣の部屋からごそごそと成美の起き出す音がする。眠気で頭が思うように回らなくて、私は再び意識を落としてしまう。
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「ひかり。」
誰かが私を呼んだ気がした。ようやく重い体を起こすと、すでに成美は出勤してしまったようだった。誰もいない気配がした。こちこちと進む安物の時計と、布団の上に差し掛かった日の光が、もうすでに七時は回ったことを私に知らせる。もしかしたら、呼ばれたように感じたのは、成美がいつまでも寝こけている私に一言声をかけてから出発したからかもしれない、と思った。
霞む目を瞬かせながら、私は自分の部屋を出て、リビングに向かう。この家ではリビングだけがフローリングで、私と成美の部屋はともに和室となっていた。リビングに足を踏み入れた瞬間、足先にひんやりとした感覚が伝わることで幾らか目が覚めてくる。キッチンには、成美の慌ただしい朝食の痕跡があった。ゴミ箱にひとつだけ、ヨーグルトの空き容器が捨ててあり、スプーンはシンクに転がされていた。私は顔を洗い、ついでにスプーンも洗う。水垢のついた鏡には寝癖だらけの髪の毛の自分が半目で立っていた。
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私は、絵本作家を志している。絵本作家ではない。きっと正確に私の職業を表すとすれば、「フリーター」だろう。なんの因果かきちんと就職もして正社員でもある成美と共に住み、成美に生活費や光熱費、家賃などをほとんど負担してもらう形で──もちろん私もお金は稼げば渡しているが、収入は不安定な上に僅かである──こちらが一方的に寄りかかる、生活をしている。
いつもこの時間帯になると、自己嫌悪に陥ってしまう。朝早くから起きて働く成美と、中途半端な夢を追い、朝もまともに起きられない私。そんな思いを掻き消すように、私は自室の棚や机にうずたかく積もったアイデアノートやデッサンの山を整理する。と、山の下の方から見覚えのある紙の束が出てきて、私は胸の中に苦い思いが湧くのを抑えられなかった。その紙の束はひと月前、ようやく完成した一冊の絵本だった。細部まで描き込みを入れ、見ても読んでも楽しい絵になるようにしたかった。成美に見せたところ、「暗い」と批評されたが、「でも絵はとっても綺麗。私は好き」と、珍しく好評だった作品だ。少年と、ぬいぐるみと、森と、それから孤独のお話だった。
持ち込みに対する返事はいつだって辛いほどに淡白だ。 次回作でのさらなる飛躍を期待しております。その次回は、いったいいつまで、認めていいのだろう。私は、いつまで成美に許されていなければならないのだろう。一年後、二年後、三年後──生活の不安というよりも、『若い』という肩書きが確実に消えつつあることの方が不安に思えてしまい、そこでまた自分本位な心を見つけてしまう。考えれば考えるほど思考は同じ場所ばかりを回り続け、筆は動かなくなる。私は頭を振って、ただ目の前のスケッチブックの山から新しいものを作り出すことに自分を集中させた。
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どのくらい経っただろうか、時計を見れば針は午後三時を指し示していた。私は作業を中断して、買い物に出かけることにした。
就職もしたことがない人間が偉そうに講釈を垂れる話ではないが、成美は少々、いや、かなり働き詰めで、時々深夜にならないと帰ってこない。そういう日の成美は何もする気力がないと言って、ふらふらと自室へ消えてゆくが、その背中がなんだかいつしか重大な病を背負ってしまいそうで、目を離したらいつのまにか折れていそうで、そんな時はいつもデパートで迷子になった子供のような不安を覚えた。
この共同生活を始めて間もない頃、あまりに成美に頼りすぎた生活に居た堪れなくなり、家事は全てやると申し出たことがある。それは成美に却下されてしまったのだが(全部人に任せるのは気が引ける、と言っていた)、成美が居ない時間帯に買い物を済ませ、余裕があれば夕食を用意して帰りを待つのが私の仕事となった。調子のいい日はちょっとおかずの品数が増えたりして、そんな日に成美が早く帰ってきたらその日の食卓は普段よりもずっと明るい。
私はいくつかの食材と、ヨーグルトと、切れかけていた洗剤を買い、西に傾き始めた日の中を歩いて帰る。私とは反対方向に向かう小学生たちと何度もすれ違い、ああ今は下校時刻なのだと、しみじみと感じてしまった。この時間帯に一人で出歩くのは少し寂しかった。
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夕食の準備を始めようと思う時間帯は、大体窓から見えるアパートにオレンジの灯りが灯り始める頃だ。あの灯りひとつひとつのもとに寄り添って暮らす沢山の人を感じて、そう思うと少し自分という存在がひどくありふれて、矮小なものだと思い知らされる。
それでも、そんな矮小な自分に価値がないと切り捨ててしまわないのは、きっと、私が絵本をかきつづけていて、夕食を温めていて、成美の帰りを待っているからだと思う。
成美がこの部屋のドアを開けるのはいつになるだろうか。腕まくりをして、キッチンの蛍光灯をつける。少し不健康そうな、青白い光。キッチンの正面にある窓のすりガラスの表面をきらきらと光らせる人工の光。
灯りの元には人生がある。
築四十年、駅から十五分、二階建アパートの角部屋、205号室。キッチンの窓からちらちらと覗く蛍光灯の下には、私と、成美の生活がある。