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じゃあね、お母さん。
「じゃあね、お母さん。」
靴を履きながら、家の中に向かって小さくつぶやいた。それは虚しく地面に落ちていった。リビングからテレビの音が聞こえる。きっとお母さんの好きなドラマでもやっているのだろう。娘が遠い遠い東京という大都会で一人暮らしを始めると聞いても見送りさえしないのだから、本当に私のことなんてどうでもいいんだろうと思う。少しは心配とか、いや、今更お母さんにそんなことを言っても無駄だろう。お母さんの私への興味のなさは昔からだった。
バスに乗り、駅で降りて電車が来るのを待ちながら、今までのことをぼんやりと考えた。
私は望まれて生まれた子じゃなかった。お母さんが当時付き合っていた彼氏との間にできた子だったらしいが、妊娠が発覚してすぐに逃げられたそうだ。お母さんは頻繁にお父さんの悪口を吐き出していた。私がお母さんからの愛を実感したことは一度だってなかった。お母さんの手料理を食べたこともなかった。どうして堕してくれなかったのだと思うくらい、心が苦しい時期もあった。お母さんなりに葛藤したのかもしれないが、産んだなら産んだで幸せにして欲しかったというのは欲張りなのかもしれなかった。
お母さんは美しかった。夜のお店で働いていた。夕方に家を出て、朝方帰ってくる生活をしていた。昼間は大抵寝ていた。お母さんとの間に会話はあまりなかった。私がお母さんと話すのを怖がっていた面もあったのかもしれない。拒絶されたら立ち直れないと思っていたのかもしれない。私はお母さんを愛していた。たった1人の家族だった。お母さんがどれだけ私を嫌っていたとしても、私がお母さんを心の底から嫌うことはなかった。
もしも私が愛される子だったら。そんな考えが頭をよぎって、咄嗟にかばんからイヤホンを取り出し耳にねじ込んだ。スマートフォンを操作して音楽を流すと、頭の中に直接響いてくる。この感覚が私は好きだった。頭の中がそれでいっぱいになって、強制的に他の思考が中断された。