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非日常からの逃亡
馬が|嘶《いなな》く。
ゆっくりとしたリズムで、馬車が動き出した。
次第にそれは速度を上げ、あっという間に道の彼方へ見えなくなった。
これで良い。守るものが少なければ少ないほど戦いやすいから。
モルズは馬車に追いすがろうとする血狼を追いかけ、一匹一匹葬っていく。ダウニとデアは、そんなモルズの隙をつこうとする血狼を殺していた。
繰り返す内に、血狼は馬車を追うよりモルズたちを始末することが先だと理解したのか、馬車の消えていった方角ではなくモルズたちに襲いかかるようになる。
「あとは――――っ、ぁ」
逃げるだけだ、そう言おうとしたモルズは。
いつの間にか道の奥からやってきていた血狼の大群に、引きつった声を漏らした。
避けることは叶わない。群れは道全体に広がっていて、端が見えないから。
迎え撃つことはできない。端が見えないので正確には分からないが、千は下らない大群だから。
あと数秒もすれば、モルズたちは血狼の大群によって死ぬ。その圧倒的な質量により轢き殺されるか、噛み殺されるか。
いずれにせよ、死ぬことには変わりない――と、ここでモルズはあることに気がついた。
「俺たちを、見ていない……?」
血狼たちが減速する気配が一切ないのだ。普通、モルズたちに何か危害を加えようとするなら、速度を落として攻撃を外す可能性を下げるはずだが。
それに、この一糸乱れぬ進行もモルズには不可解だった。血狼なら、ここに漂う血のにおいを前にして興奮しないはずがないのに。
そうして導き出された結論が、先の一言だ。
「もしそうなら、勝算はある――!」
モルズは大きく跳躍し、先程まで自分がいたところに突っ込んできた血狼の上に着地した。
モルズの呟きを聞いていたのか、デアは手に持っていた縄を木の枝に引っ掛けてぶら下がっている。ダウニだけは何も手段がなく、血狼の移動に巻き込まれて見えなくなってしまった。
適宜血狼の上を跳んで移動しながら、群れの端を目指すモルズ。
対するデアは、ここが木の少ない草原地帯であったことが災いし、その場から動けないでいた。
「――見えた!」
モルズの目が捉えたのは、血狼の群れの端。
そこに辿り着くまでに必要な跳躍の回数は、どれだけ多く見積もっても、あと四回。これまで通りにいけば、三回で済む。
一回。踏みつけられた血狼が不満げに唸る。
二回。ふいに群れ全体が加速し、モルズは危うく着地に失敗しそうになる。
三回。最後の跳躍。足元の血狼を力いっぱい踏みつけ、渾身の大跳躍。一瞬だけ重力から解放され、ふわりと浮く感覚。しかし、またすぐに重力に捕われ、地面が近づいてくる。
着地。調子に乗って跳びすぎたのか、普通に着地したのでは衝撃を殺し切れないと判断。手を地面につき、体をぐるりと一回転させる。
それでも衝撃が襲ってきたが、どこも折れていない。
「はぁ、はぁ……」
モルズは、肩で大きく息をする。
助かった。この疲労感と達成感が、モルズに生を実感させる。
依頼を受けていた商隊には申し訳なかった。デスペラティオまで護衛するという話だったのに、途中で放棄してしまった。
依頼が失敗扱いになっていなければ良いが。九死に一生を得たのだから、少しくらいは大目に見てもらいたい。
ダウニとデアは残念だった。あの危機的状況下で自分以外に気を配ることはできようはずもなかったが、それでも目の前で失われていく命を見るのは辛かった。
同じ依頼を受けた同業者の死に立ち会うのはこれで何度目かだが、いくらやっても慣れるものではない。
無駄な思考を巡らせる余裕が出てくると、疲れがどっと押し寄せてきた。血狼の相手をしていたことよりも、生きるか死ぬかの大博打を打ったことの方が疲労の要因としては大きい。
とはいえ、魔獣が現れる可能性のある場所で意識を手放すのは危険だ。眠るにしても、せめて街に戻ってからでなければならない。
そう決心すると、モルズは己の重たい体を引きずり、街――ポエニテッツの方へ引き返した。
◆
「すみません、一晩だけ寝床と食料を恵んでいただけませんか。一応これでも腕に覚えがあって、血狼の十匹ぐらいなら相手できるんですけど。護衛にいかがです?」
日はすっかり落ち、夜。
モルズが血狼から逃げおおせた場所から街に戻るには、どれだけ早く移動したとしても一度野営しなければならなかった。
今、その交渉を商人相手にしているところである。
「不要だ。食料だけでなく、金までむしり取ろうというのか? 護衛は足りている。すまないが、ほかを当たってくれ」
拒否されるのは目に見えていた。それでもこの話を持ちかけたのは、勝算があったからだ。
「食料と寝床を恵んでいただけるなら、料金はタダで良いです」
なおも話を続けようとするモルズに、商人は険しい顔をする。
「さっさと出ていけ。さもなくば――」
護衛が各々自身の武器に手をかける。
実力行使も辞さないという商人の姿勢。
だが、モルズは引かなかった。
「それに、その程度の戦力じゃ足りない」
商人の護衛を見ながら、モルズはそう言ってのける。
モルズの口調と共に、空気も変わった。
「――――ッ」
一人、顔を赤くして剣を抜こうとした護衛がいた。自分たちに戦力不足だと言われたのだ、仕方ない。
「やめろ」
そんな護衛を手で制したのは、他でもない商人だった。
「ふむ。話を聞かせてもらいましょう」
自分の腕と彼我の戦力差を測る目には絶対の自信を持つ傭兵にとって、相手の戦力が足りないなどとは軽々しく口に出せない重い言葉だ。
それを言ってみせたモルズに、商人の態度が変わる。
「血狼の大群が現れた」
「血狼の群れなら、そこにいる三人で十分対処可能ですが」
「群れじゃない、大群だ。……ざっと千は下らない」
そこで、商人は思案を始める。モルズは、それを固唾をのんで見守った。ここが、モルズが野営できるか、それとも夜通しで進み続けるかの分水嶺になるのだから。
やがて、彼の中で結論が出たのか、商人はおもむろに口を開いた。
「群れは、どちらから来たのですか?」
どちらだったか。無我夢中だったから、良く分からないが――確か、後ろから襲われたと思う。
進行方向は、デスペラティオ。後ろは、ポエニテッツ。
当然、後ろから襲われたのだから――
「ポエニテッツの方、からだ」
そこで、モルズは自身の言い分の致命的な欠陥に気がつく。
――大群が来たのはポエニテッツ側から。この商人は、自身がいた商隊より後ろ――ポエニテッツ側にいた。なのに、この様子を見る限り、ただの一匹たりとも血狼に遭遇していない。あれだけの規模の群れだ。一匹も見つからずに集まったとは考えづらい。
「そうですか。残念ながら、私があなたの主張を信じるだけの根拠がありません。真偽のほどは分かりかねますが、情報提供のお礼にせめて食料だけは分けてあげましょう。――お引き取りください」
門前払いとは違う、話を聞いた上での拒絶。もう取り付く島もないことを、モルズは正しく理解していた。
故に、モルズは悔しさを顔に滲ませながら、
「あぁ……」
商人が差し出した食料の入った革袋を持って潔く立ち去る判断をしたのだった。
◆
動物が活動を始め、盗賊が活発になる深夜。
普段は誰も歩かない街道を歩く人影が一つ。
モルズだ。
「疲れた……帰りたい……このまま倒れて寝たい……」
口では泣き言を言いながらも、足は決して止まらない。
革袋から水筒を取り出し、口に運ぶ。喉を冷たい水が通り抜け、一瞬だけだが目が覚めた。
「ぁ……」
今、微かな光が見えたのは、モルズの気のせいだったのか。
手で目をこすり、もう一度道の先を見てみる。
いいや、気のせいじゃない。
「……着いた」
正確に言えばまだ着いたわけではないが、それは|些末《さまつ》な問題だろう。何せ、モルズは激しい戦闘の後一切休まず半日間歩き続けたのだから。
暗いモルズの瞳に光が戻る。気がつけば、肉体の疲労など無視してモルズは駆け出していた。
今までの状況を鑑みれば、いつ倒れて眠りについてもおかしくない体。そんな体のどこに、ポエニテッツまで走る余裕があったのか。
街と外とを隔てる門の前に辿り着いたモルズは、門番の顔を覗き見る。暗くて良く見えないが、モルズの顔なじみのにーちゃんだろう。
運が良い。彼なら、身分証の確認云々なしですぐ門を通してくれる。
それは、今にも眠りに落ちてしまいそうなモルズにとって、もっとも重要なことだった。
「俺だ……モルズだ」
「あ、モルズさんですね」
意識が飛びそうになるのを必死に堪えながらモルズが言った言葉を、彼はいつも通り受け止める。
「おかえりなさい」
「あぁ……ただいま」
この街でモルズに「おかえり」と言ってくれる者は、彼以外にいただろうか。
そんなとりとめのないことを考えながら、モルズは自分が泊まっている宿屋に向かっていた。
「えっと……あぁ、あった、鍵」
ポケットの中から鍵を探し、無事取り出す。
鍵を開けて部屋に入り、後ろ手に鍵を閉めた。腰に下げた短剣を置くと、安全に寝られる場所に戻ってきたと体が認識したのか、モルズの意識は抗いがたい眠りへと誘われていった。