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私への旋律
雨が静かに降る午後、町外れの小さな教会の窓から差し込む光は、灰色の空に溶けていた。
その教会の片隅に、古いピアノが一台、埃をかぶりながら置かれている。木目は擦り切れ、鍵盤の白は黄ばんでいたが、どこか凛とした気配を帯びていた。
そのピアノに向かう少女――藤堂奏は、まるで長い間待っていた相手に再会するように、ゆっくりと椅子に座った。
「……久しぶりね」
小さな声でそうつぶやくと、指先を鍵盤に置いた。触れただけで、微かな震えが指に伝わる。
奏は音楽の学校に通うわけでも、特別な才能を褒められたわけでもなかった。だが、幼い頃からピアノは彼女の友達であり、心の居場所だった。
両親は仕事で忙しく、家に帰れば誰もいない。ひとりで過ごす夜に、奏はいつもピアノに向かい、鍵盤を叩きながら心の声を紡いだ。
教会のピアノは、町に住む人々に忘れられ、使われることも少なかった。だが、奏にとっては、手を伸ばせばすぐに届く小さな世界だった。
最初の音――小さな「ミ」の音が、空気を震わせて広がる。次第に、指は覚えている旋律を辿り、音が重なり合う。雨音と混ざり合い、微かに寂しく、そして温かい空間が生まれる。
奏が鍵盤に触れるたび、記憶の断片が呼び覚まされる。
幼い頃、祖母が弾いたピアノの音。昼下がりの居間で、眠そうに奏を見つめて微笑む祖母。手を引かれ、初めて触れた黒と白の鍵盤――その感触を、彼女は決して忘れなかった。
「……私は、まだ弾けるのかしら」
問いかけるように呟くと、指は自然と動き、旋律を紡ぎ出す。音は、まるで彼女の呼吸のように柔らかく、教会の高い天井で響いた。
楽譜はなかった。奏はいつも、音を覚えて、心で感じるままに弾いた。だからこそ、鍵盤に触れるたびに、過去の自分と今の自分が重なる。
音楽は、時間を超えて奏を抱きしめるように、彼女の胸の奥まで届いた。
雨はやがて小止みになり、外の世界は少しずつ明るさを取り戻していた。
奏の手から流れる旋律も、静かに終わりを告げる。最後の音が天井に吸い込まれると、教会には柔らかい余韻だけが残った。
椅子から立ち上がり、奏は深く息を吐く。心が少し軽くなったような気がした。
「ありがとう……」
声には、誰に向けるともなく、静かに感謝が込められていた。
ピアノはただ、そこにあるだけだった。だが、奏にとっては、世界の全てを理解してくれる存在だった。鍵盤を通して過去と現在を結び、失われたものを取り戻す力が、確かにあった。
次の日、奏は再び教会を訪れた。昨日の旋律を胸に、雨上がりの空気を吸い込む。指先は自然に鍵盤に落ち、音が紡がれる。
聴く人はいない。それでも構わなかった。ピアノと奏だけの世界が、ここにはある。
日々は続く。勉強や生活の中で、奏は多くの不安や孤独を抱えることもあるだろう。だが、ピアノの前に座れば、全てが静まり、世界の雑音は音に溶けていく。
指先から流れる音は、彼女自身の記憶であり、希望であり、祈りであった。
奏は気づく。音楽は、誰かに聞かせるためだけのものではない。自分の心に届くために、奏でることもできるのだと。
そして、鍵盤の上で生まれる音のひとつひとつが、彼女を生きる力に変えていく。
教会を出る頃には、雨はすっかり上がり、街には小さな光が反射している。奏は振り返り、ピアノに向かって小さく会釈した。
「また来るわ」
そう呟いた声は、教会の石の壁に溶け込み、そして、確かに響き渡った。
白鍵と黒鍵が作る旋律は、今日も彼女の世界をそっと包む。