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一
最初から、分かってた。
ああいう奴は、必ず身を眩ます。
ちゃんと優しくて、ちゃんと曖昧で、ちゃんと自分を守る。
でも、声をかけたくなった。
バーのカウンターで、終電を失った顔。
あれは、偶然じゃない。
逃げ遅れたふりをして、誰かに見つけられるのを待ってる顔だ。
「終電、もうないだろ」
当たった。
だいたい、そういうもんだ。
彼女は、俺を疑わなかった。
いや、正確には「疑う必要がない距離」に自分を置くのが上手かったんだ。
踏み込まないし、期待もしない。でも、冷たくもしない。
それがちばん厄介だとわかっていた。
俺は、咄嗟に嘘を混ぜた。
仕事の話も、過去の話も、全部は見せなかった。
いや、見せれなかった。
それは彼女のためじゃない。
俺自身が、そうしないと生きられなかっただけだ。
それでも、彼女は聞いた。黙って、逃げ道を残したまま。
三回目の夜、言ってみた。
「人に好かれるの、上手いよね」
気づいてほしかった。
それが武器だってことも、刃だってことも。
彼女は笑った。
その笑顔で、何人かの人生を静かに遠ざけてきたことを、たぶん自覚しないまま。
俺は、少しずつ踏み込んだ。
夜を増やして、距離を詰めて、名前を呼んだ。
呼び返されるたびに、胸の奥が妙に静かになった。
ああ、これは。俺が、逃げられなくなってしまう。
「私たちって、何なんですか」
あの質問が来たとき、終わったと思った。
答えられる言葉は、ひとつしかなかった。
でも、それを言ったら、彼女は壊れる。
壊れた人間は、戻ってこない。
俺は、それを知っている。
「知らないほうが、いい」
最低の逃げ方だ。
それでも、あのときは、それしか選べなかった。
数日後、彼女は距離を置いた。
理由は、完璧だった。
忙しい。今は無理。余裕がない。
「ほらな」そう思った。
負け犬の遠吠えでしかない。
でもそれでいい、とも思った。
俺のほうは、順調に破滅していった。
仕事の線が切れ、過去が追いつき、名前のない事件が起きた。
ニュースにならない程度の、現実的なもの。
彼女は、たぶん噂を聞いただろう。
それでも、連絡は来なかった。
正しい。
賢い。
彼女らしい選択だ。
夜、夢を見た。
俺の部屋の隅で、彼女がこちらを見ている。
あの逃げ道を残す目で。
「遊びだったんですね」
そう言われる。
声は、責めていない。
その言葉の重みが、更に俺を苦しめた。
俺は、彼女に何も与えなかった。
約束も、未来も、名前も。
それでも、彼女は俺の人生に触れた。
触れて、逃げた。
それが、いちばん正しい形だった。
不誠実は、大きな悪として裁かれない。
ただ、「選ばれなかった可能性」として、心の隅に残る。
彼女は今も、あの公園を通っているのだろう。
俺を忘れるために
俺はもう、戻れない場所から、それを想像する。
あのとき、もし逃げなかったら
そんな仮定は、罪よりも重たいものだ。