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【第一章:赤の記憶___血と涎と卵②】
ツバキは、淡い陽光のなか、羽毛をまとって生まれ落ちた。
ハルハの両腕に抱きしめられたその瞬間、彼女は声を震わせる暇もなく、電子端末に指を滑らせた。マディカに教わった「育児安全保証申請書」を提出するのに、一刻の猶予も許されなかったからだ。
数分後。〈承認〉の文字が液晶に浮かび上がる。
息をつく間もなく、三人は避難所であるB区へと身を移した。小さな生まれたての命とともに、静かに、ひそやかに。
そこは、声を潜めた人々と消音設計の壁に守られた居住区だった。四角く区切られた空間の中に、羽毛布団のような静けさが敷き詰められている。
三人の生活は、まるで揺れる羽の上に置かれた水面のようだった。
静かに、穏やかに。けれど確実に、波紋は広がっていた。
マディカはよく料理を作った。スープを煮るたびに部屋中に湯気が舞い、ハルハが苦手な調味料をこっそり避けてくれる優しさに、彼女は何度も「ありがとう」と繰り返した。
ツバキはと言えば、日々成長していた。
翼が大きくなり、声に抑揚が生まれ、夜中にふいに羽ばたいてハルハを起こすことも増えた。
だが。
その微笑みの奥に、ふとした違和感が宿り始めていた。
ツバキの眼差しは、時折、誰にも見えない何かを見ているように遠く曇った。
それは、まるで世界の“外”から流れ着いたものが、この子の中にうごめいているかのようだった。
それに、彼女は痛みを感じないようだった。どこかを打っても、火傷をしても、ただじっと、無言で見つめている。指の先には鋭く尖った小爪が生えていた。ハルハはそれを見て、心の奥で「獣だ」とつぶやいたが、声に出すことはできなかった。
居住区中央の医療機関での検査を受けることに決めたのは、そんな夜の出来事が積もりに積もったあとだった。
診断の結果は、静かに彼女の心臓を凍らせた。
**rgピソウィルス感染。**
それは、かつて数十の種を廃絶に追いやった遺伝的退行ウイルス。母親の胎内で子に伝播し、退化の鎖を引きずるように形質を変質させる。
──ツバキは、ハルハの娘ではあるが、もはや“紅目鴹皇鳥”ではなかった。
その証拠に、ツバキの瞳孔は縦に引き裂かれたように裂け、尻尾の羽毛はふわりと風に泳ぎ、興奮した時にのみ突出する牙と爪は狩りの道具のように進化していた。
医療スタッフは「獣化の兆候」と称したが、ハルハには、それが**始祖鳥**の影であるように思えた。未来の姿ではなく、過去からやってきた何か。種の記憶が呼び覚まされたかのような異形。
マディカは、ツバキを抱き上げながらも何も言わなかった。ただ、その瞳に浮かぶ複雑な影が、彼女を深く理解していた証だった。
ハルハは、ツバキを腕の中で抱きしめたまま、凍てついた沈黙のなかにいた。自分が産み、守ろうとしたこの命が、どこにも属していないことに気づいてしまったからだ。
だがツバキは、ただ無邪気に笑っていた。母の指を握りしめ、意味のない言葉を唄うように呟きながら。
──その眼差しは、幼子のものではなかった。
ツバキは、「最初の者」として、
世界に対して、静かに牙を研ぎ澄ましていた。
ツバキが10歳になった頃だ。それは、ひどく静かな夜だった。マディカは労役のために外へ出ており、ユニットにはハルハとツバキ、ふたりきりだった。
寝静まったはずの布団の中から、ツバキがふらりと立ち上がる。額にはじっとりと汗が滲み、焦点の合わない目が虚空を彷徨っていた。ただ、鼻先だけが鋭敏に震え、空気の中に溶け込んだ甘やかな匂いを辿っていた。
「……お母さんの匂い……」
その声は、祈りのようにも、狩人の吐息のようにも聞こえた。ハルハが気配に気づいて振り返ったとき、ツバキはすでに彼女の目前にいた。小さな腕を伸ばし、胸元に顔をうずめる。何の警戒もなく、その手を撫でようとした母の動きが止まったのは、次の瞬間だった。
牙が喉元に深く突き立ち、温かい液体が溢れ出す。目を見開くハルハの口からは声にならない息が洩れ、目には哀しみとも諦めともつかぬ色が灯っていた。
それでも彼女は、ツバキの背に腕を回した。微かに、愛おしむように。ツバキの口元には、笑みが浮かんでいた。満ち足りた、甘い笑みだった。ハルハの体が崩れ落ちるまで、ツバキはそのまま動かなかった。血を啜り、肉の柔らかさを舌で確かめるたび、喉の奥に満ちていく悦びがあった。内臓の温もり、脂肪の甘さ、皮膚の薄さ――すべてが、彼女の中の何かを歓喜させていた。
胸の奥にひそんでいた渇きが、ようやく潤されたかのようだった。けれど、喜びの余韻が消えるよりも早く、ツバキはふと、我に返った。
「……お母さん……?」
その声は震えていた。幼く、泣き出しそうで、それでも母の返事はなかった。彼女はその場に崩れ落ちた。血に濡れた床に膝をつき、ハルハの体に触れようとして――その手を止める。温もりはまだあった。けれど、それは“もう戻らない命”の名残に過ぎなかった。
自分の手で、命を奪った。
「ぁ…………」
「………ぁ……」
「…………………ぁあ"、っ……」
その事実が、静かに、けれど確かに、ツバキの中に沈み込んでいった。
涙が溢れた。口元にはまだ赤黒い血がこびりついていた。快楽に包まれた笑顔から一転……震える声で、彼女は疑問、または諦めのような笑顔を浮かべて呟いた。
「なんで……っ、なんで、おいしいの………っ、?」
その一言が、自らの胸を深く刺した。後悔と本能が、互いに引き裂こうと殴り合っていた。
あんなにも大切だった母を、愛していた人を、「食べる」ことの快楽のために殺してしまった___その現実が、じわじわと意識を染めていく。
ツバキは、血の海の中で、ひとり、丸くなって泣き続けた。
そしてそのときだった。玄関の向こうから、音がした。開閉音。靴音。「ただいま」マディカが帰ってきた。労役を終え、疲れた足取りでユニットの扉を開けた彼は、すぐに異様な匂いに気づいた。
血の匂い。濃密な、鉄と肉の気配。「……ハルハ? ツバキ……?」返事はなかった。リビングへと足を進める。何かを踏んだ感触に目を落とせば、彼はようやく目を見開いた。赤く染まった羽。濡れた布。そしてその奥に、沈んだように横たわる人影。
その中心で、ツバキがうずくまっていた。血に染まった服。震える肩。己の罪を抱きしめるように、縮こまっていた。
マディカの存在に気づいた彼女は、少し頭を上げ、その獣の目だけをそちらへ見せた。戦慄が走る。
マディカの声も、ツバキの嗚咽も、その夜の|静寂《しじま》に、音もなく吸い込まれていった。
それは祝福ではなく、祝祭だった。血に咲く、孤独な始まり。
椿の花は、やはり赤かった____