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“天使”との接触
「——食料が尽きたな」
空になった食料庫の中を見ながら、ネロは呟いた。
「今度は、私が食料を採りにいこうか?」
「いや…お前が出歩くのは危険だ。また俺が採ってきてやる。お前はここで待っていろ」
「わかった。よろしくね、ネロ」
「お前は料理の練習でもしておけ」
「うっ…一応頑張ってはみる…」
エリスが頷いたのを見届けると、ネロは鼻で笑いながら飛び去った。
---
——ネロが食料の調達に出てから、しばらくが経った。
教会の中は、思った以上に静かだった。風が割れたステンドグラスを鳴らし、遠くで夜鳥が鳴いている。
焚き火の火はすでに小さく、赤い光が石床にゆらゆらと揺れている。エリスはその前に座り、膝を抱えたまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
(……変な感じ)
ここに来てから、もう4日が経った。
最初は、見知らぬ世界に一人で放り出されて、怖かったはずなのに。
今は、少しも不安を感じない。
(……ネロがいるから、かな)
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなる。
…その時だった。
——かすかに、足音がした。
エリスは立ち上がり、無意識にローブの裾を握りしめた。
「……誰?」
返事は、すぐにあった。
「驚かせてしまったかな」
柔らかい声。
振り向いた瞬間、エリスは息を呑んだ。
白いマントが月光を受けて淡く輝いている。目を引いたのは、無駄のない装備、腰に差された剣。そして何より、美しい金色の瞳。
——まるで、天使のような立ち姿だった。
「……君が、『|悪魔の血を引く者《インフェルノ・ブラッド》』だね?」
エリスの心臓が、どきりと跳ね上がる。
男は、エリスの顔をまじまじと見つめた。
「……子ども?」
その声には、隠しきれない動揺が滲んでいた。
「君、いくつなの?」
「……14、です」
絞り出すように答えると、男は一瞬、言葉を失ったように黙り込む。
「……そんな……」
彼の表情に浮かんだのは、嫌悪でも恐怖でもなかった。
——深い、憐れみ。
「……君は、転生者だね?」
男は、ネロと同じように言い当てた。
「悪魔と、契約してしまったんだね……」
彼は、まるで自分の責任であるかのように眉を歪めた。
「……怖かっただろう。知らない世界で、居場所もなくて……追い詰められて」
「……」
「そんな年で、そんな選択をさせられるなんて……」
その声音は、まるで救えなかった何かを悔やむようだった。
そして、続けて。
「——可哀想に」
そう、呟いた。
「っ……!!」
その瞬間。
ざわりと、エリスの心臓が波打つ。
(…違う)
言葉にしようとして、喉が詰まる。胸の奥を、きゅっと掴まれるような感覚がして。
(私は、可哀そうなんかじゃ…)
男は、ゆっくりと距離を縮める。
「僕と来よう。“天使”の庇護下なら、君は——」
——次の瞬間。
男の表情が、はっきりと変わった。
空気が、張り詰める。
「……っ」
彼は、教会の外——闇の奥を鋭く睨む。
(悪魔の気配……近い)
男は、一歩距離を取った。
「……今は、引くことにするよ」
そう呟き、エリスに視線を戻す。その瞳は、強い決意に満ちていた。
「でも、大丈夫」
男は、はっきりと告げる。
--- 「——僕が…“ルシエル・ノヴァ”が必ず、君を救ってみせる」 ---
それだけを残し、|白い影《ルシエル》は夜の森へと溶けていった。
そして、静寂が戻る。まるで、何事もなかったかのように。
エリスは、その場に立ち尽くしていた。
(……救う、か…)
胸の奥が、ざわざわと波打つ。
「……私……」
かわいそう、なのだろうか。
選んだのに。
自分で決めたのに。
——その時。
「……嬢ちゃん、戻ったぞ」
聞き慣れた、少し不機嫌そうな声。羽ばたきの音。
ネロが、何事もなかったかのように教会へ戻ってくる。
「……?」
一瞬、エリスの表情を見て、眉をひそめたが。
「……なんだ、その顔」
「……なんでもない」
エリスは、微笑んだ。
「おかえり、ネロ」
天使のような彼のことは、言わなかった。
——今は、まだ。
小さなこの胸の奥に、静かにしまっておく。
エリスの笑顔の裏には、ルシエルが去り際に放った言葉が渦巻いていた。