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色のない、君を求めて。
初めて“リボン”を見たのは、十五の秋のことであった。
最初は視界の端に何かがちらつく程度であり、生活に支障など出ていなかった。せいぜい、勉強やら部活やらのストレスに起因する何らかの幻覚的症状だろうとでも、この時は思っていたのだ。
だが、その謎現象は次第に生活を侵し始めるようになる。
風が吹けば水色のリボンがどこからともなく舞い始め、教室で誰かが笑えば、橙色のリボンがその周囲を漂う。
「見えすぎる」って、こういうことなんだとすぐに気づいた。
“|感色病《かんしょくびょう》”——感情や現象が色として視覚化される、奇病。
僕は、医者にそう診断された。
その時、横でその話を聞いていた母の周りに漂っていたリボンの色は、灰色。その色は、不安を表す色なのだと、僕はすぐに理解することができた。
それから約半年が経ち、僕は難なく近くの県立高校に進学した。こんな地方の底辺高校にわざわざ転入してくる馬鹿はほとんどおらず、数人の話したすらないような優等生数人が減っただけの変わらない面子での毎日が過ぎていった。
男子同士、女子同士での他愛のない会話、ほのかに香る汗と整髪料の混ざった香り、肌寒さを余計に悪化させる、窓から吹き込むからっ風。全てが、日常の一部として、青春の一部として、消化されていく。
だが、その間にも症状はみるみるうちに悪化していった。
他愛のない会話は雑音になり、汗の匂いはただの刺激臭と化し、吹き込む風は異常なほどに冷たく、鋭い痛みを伴うように感じられる。
その全てに起因する原因が、このリボンだ。
竜巻のようにぐるぐると、集団の周りで回っている橙色のリボン、授業中でも容赦なく辺りを漂う黄色のリボン、窓が粉々に砕け散りそうなほどの圧倒的物量で吹き荒れる水色のリボン。
次第に、僕は日常生活を送ることが困難になっていった。
半透明のリボンは症状が悪化するにつれて枚数を重ね、分厚いものへと変わっていく。それは常に視界を遮り、全てにおいて僕の邪魔をしていった。
目を閉じれば静寂、開ければ地獄。
それが日常になってしまった僕は、いつしか自室に引き篭もるようになってしまった。
今が、昼か夜かすらも分からない。鬱のような状態に陥った過去の自分が、部屋のものを全て捨て去り、窓を潰してドアに鍵をかけてしまったからである。
真っ黒なアイマスクをしたジャージ姿の僕は今現在、というか数ヶ月前からずっと、この冷たい部屋のフローリングの上で丸まったまま過ごしている。
症状のさらなる悪化に伴い、僕は「見る」という行為全てに対して恐怖を抱くようになってしまった。おかげで今は、食事も喉を通らず、水すらも受け付けない日々が続いている。
一番の問題は、この病気が全く流行していない、という点であった。視覚障害者としてすらも扱われず、尚且つその証明になるものが何も無いため、世間一般からは「一種の発達障害」や「ただの思い込み」程度に思われているらしい。もちろん差別の対象になるし、いじめの標的にもなりかねない。理解者は、誰一人として見つからなかった。
「…………」
完全無音の、時計すら存在しないただの箱。常人ならば、数日いただけで発狂しそうな空間であるが、この場所が今の僕にとっては最も心地良いものであった。
ただ、正直言って暇である。もう数ヶ月、このアイマスクを外していない。もう、毎日この部屋に飯をわざわざ運んできてくれる親の顔すらも、脳内から薄れかけていた。
ぐいっ、ぐいっ
右の腕が、引っ張られる感覚がする。そうだ、ノック音すらも苦痛であった僕は、かつて母親に、用事があるならドア下に通した紐を引っ張ってくれ、と伝えたのだった。一回なら飯、二回なら用事、そして三回なら家内全員の外出を意味している。今回は二回、用事だ。そう思った僕は右手に掴んでいる紐を四つん這いで伝い、ドア前に移動した。そこにあったのは、ドアの隙間から差し込まれたであろう一枚の手紙。
手紙なんて、いつぶりだろうか。僕はそう思いながら、できる限り音を立てないように折りたたまれていない手紙を手に取り、数ヶ月ぶりにアイマスクを外す。
『緊急の用事ができたので仕事に行ってきます。今日、多分人が家に来ます。無理しなくてもいいけど、可能であれば対応をお願いね』
そう、大きめの字で書いてあった。
ぐいっ、ぐいっ、ぐいっ
手紙と一緒に握っていた白色の紐が、三回引かれる。
“家内全員の外出”、そういうことか。
この家を何者かが訪ねた時に、僕が、玄関のドアを開けなければならないのだ。微かに、たったったったっ、と階段を駆け降りる音が聞こえる。数十秒後には、潰した窓の僅かな隙間から車の発進音が漏れ込んできた。
……さて、と。
どうしようか。
別に、居留守という選択肢も、今の僕にはあるのだ。手紙にも書いてある通り、無理をするつもりは全くない。だが、何となくそれは人間として抵抗があった。僕はサボっているのではなく、れっきとした理由で休んでいるのだ。別に人と会いたくない訳ではない。こんな病気、もし完治できたならば、喜んで誰とでも話すようになるさ、きっと。
今、僕はチャンスを感じているのだ。外に出て酷い目に遭うことなく、他人との会話ができる、というチャンスだ。
いつ、来るのだろうか。誰が、くるのだろうか。
引きこもってからしばらく味わうことのなかった、緊張、恐怖、興奮、不安……、いろんな感情が入り混じり、このまま死んでしまうのではないかというほど早く、心臓が強く一定のリズムを刻み始める。
……まだか。まだ来ないのか。
時計はない。窓も潰している。時間を測る手段は何一つない。それでも、肌でわかる。こんなに時間が経っているように感じても、まだ数分、いや数秒たりとも時間が経過していない。何もない空間で、何もせずに誰かを待つという行為は、これほどまでに苦痛なのか。そう感じた僕は、改めてここ数ヶ月間の生活の異常さを再確認した。
「……降りるか」
そう呟いた僕は、後頭部にかかったアイマスクのゴムの位置を調整して、恐る恐る部屋のドアにかかった鍵を、紐伝いのまま手探りで探し、紐を持っていない左手を使って半時計方向に回した。
……かちり。
こんな微々たる音でも、まだ身体が無意識のうちに跳ねてしまう。怖い、怖いのだ。アイマスクを外した時、自分の視界に入る情報量がどれほど増大しているのか、全く持って見当が付かなかった。
がちゃり。
だが、少しずつではあるが慣れてきた。数ヶ月のうちに慣れてしまったのか、はたまたそれ以前の恐怖を忘れかけているだけなのかは分からないが、ドアノブを回し、押していくその手は、案外重いわけではなかった。
ぎしり、ぎしり。
一歩、一歩、ゆっくりと壁伝いに進む僕の足元では、まるで自分の存在を拒絶し、部屋に追い戻そうと言わんばかりに床板が悲鳴を上げ続けていた。
引き返すなら、今のうちだぞ。
心の中の悪魔が、僕の耳元でそう囁く。だが、僕は引き返さなかった。自分でも不思議なくらい、音に対して怯えるという感情を抱いていなかった。逆に、今なら行ける、と、そう心のどこかで確信めいたものすらも抱いていた。
ぎしり、ぎし
そこで、床板の悲鳴が止まった。同時に、僕が最後に踏み出した、右足の感覚も。床が、ない。その現状に混乱すらしたものの、僕の現在地が二階であり、今目の前にあるのが一階に向かうための階段であるのだと理解するのに、そこまで時間はかからなかった。
流石に、そのまま駆け降りるほどの勇気は無い。家の間取りすらもあまり記憶に無いんだ、下手をすれば転げ落ちて死んでしまう。そう思った僕は、ゆっくりとその場に座り込み、足を巧みに使って慎重に階段の第一段目を捉えた。
頭より少し上の所にある手すりを両腕で掴みながら、尻をずらして両足が二段目につく位置まで移動する。二段目を捉えたら、そのまま尻を下ろして一段目に座る。同じようにして、両足で三段目を捉える。側から見れば、異様な光景でしか無いだろう。上下灰色のジャージ姿の男子高校生が、真っ黒なアイマスクをつけた状態で座ったまま階段を降りていく様というのは。
一歩進むたびに、僕の中の何かが削れていくようであった。この階段を下り切ってしまえば、僕はもう引き返せない。何段あるかも分からない階段を、ゆっくり、ゆっくりと、一段ずつ踏破していった。
しばらくして、僕は十三段目を足に捉え、十二段目に尻を乗せる。そして、体感数分の格闘の末に慣れた動作で十四段目を探ろうとする。しかし、そこで気付いた。
十四段目が、無い。つまり、一階に到着したということだ。
僕は安堵と同時に、新たな問題に直面した。アイマスクを、外すのか外さないのか、という点である。
誰が来るのかは知らないが、どんな相手であろうとアイマスクをしたままに玄関のドアを開けて対面するという状況は避けたい。だからと言って、これを外した状態で外を直視できるのかという点についても確証が持てない。どうしよう、どうしよう。階段に座り込みながらそう葛藤していた、その時だった。
ピンポーン
短い電子音が、突然耳元を貫いた。
音が、聞こえた。たったそれだけのことなのに、僕の心臓は、胸を突き破りそうになる程暴れ出す。
来た。
来たのだ、本当に。
数ヶ月ぶりに見る、人間が。
ごくり。
息を呑んだ瞬間、自分の喉が焼け付くように乾いていることを知覚する。冷え切った手のひらが、膝の上で震えていた。
行かなきゃ。
僕は立ち上がり、アイマスクを取って左手にぶら下げる。
慎重に、目を開ける。辺りには、数本のリボンが漂っていた。体感ではあるが、音も風も、一切ないように思える。それでも、数色のリボンが目の前でふわふわと揺れていた。それは、より細かい事象でさえもリボンによって知覚させられる、つまり、症状の著しい悪化を顕著に表す証拠でもあった。
現在時刻、十六時四十八分。世間一般的には夕方、高校では放課後という名で呼ばれている時間帯だ。なら、来たのは先生だろうか? 様々な考えを脳内で巡らせながら、僕は玄関に辿り着き、ドアについているノブ式の鍵を開ける。
がちゃん。
開錠、できた。後は、目の前の扉を開けるだけ。
僕は、深く息を吸い、そして吐き出す。
ゆっくりと、扉を押した。
軋む蝶番。隙間から差し込み、増大する陽光。
その中心に、彼女は立っていた。僕は、その姿を見て思わず目を見開いた。
同じ高校の制服姿。膝より少し下まであるスカート、黒の長髪、華奢な体躯、少しぶかついている学校指定の冬用ワイシャツ。身長は、百五十センチメートル前後といったところだ。ぱっと見、中の上くらいの可愛い顔立ちの彼女は僕と同じ……いや、年下なのだろうか。何にせよ見たことのない女子であることに違いはない。
だが、それよりも、それ以上に。
「そっ……それっ……なんッ、なん、で」
彼女の周囲には、リボンが一切漂っていなかったのだ。
目を凝らしても、瞬きをしても、揺れも、色も、視覚の乱れも、ない。何故。いったい、なぜ。
「……こんにちは」
少し低めの声で彼女は、小さく、柔らかく、リボンのない音を口から発した。
喋ら、なきゃ。
だが、声が出ない、震えて、呂律が回らない。喋ろうとするのに、その言葉全てがどこかに消えていく。
「…………あ、き」
ようやく出た第一声は、息のような、掠れたものであった。彼女は小さく首を傾げ、そしてなんとなく理解したようにして、再び僕に話しかける。
「……“亜紀”くん、でいいのかな?」
僕は、ゆっくりと頷いた。彼女は、少しだけ微笑んだように見えた。でも、その確証は一切持てない。その笑みは、あまりにも淡く、儚いものだったから。
これが、「一目惚れ」というものなのだろうか、と、僕はこのとき初めて思った。
僕の目を塞いでいた全ての色を、この少女が、全て受け止めてくれるのではないか。彼女こそが、僕の救世主なのではないだろうか。ここに来た、名前も、目的も、何も分からない少女。けれど、たった今、自分の中にかつて失ったはずの「安心」という名の感情が戻りつつあることは明確であった。
これが、僕と彼女が、初めて出会った瞬間であった。左手にかけていたはずのアイマスクは、いつの間にか足元に落ちていた。彼女の周囲で形作って、視界を完全に遮るほどまでに膨れ上がったリボンの塊が、今だけは僕を祝福しているように思えた。
* * *
「……じゃあ、またどこかで。学校で、また会えるかもね」
がちゃん。
そう言って彼女は、呆気なく僕の前から消えてしまった。再び戻った静寂。本来待ち望んでいたはずのそれは、今回ばかりはとても苦痛に感じた。
拾ったアイマスクを片手に、ぼーっとしたまま普通に階段を昇り、自室に戻って鍵を閉め、硬いフローリングの上で寝転がる。ずっと使われずに生気を失った、天井にぽつんと浮かぶシーリングライト。潰した窓の隙間から差し込む細い光と、殺風景で何もない部屋。何百回、何千回と見たはずの光景なのに、今日は何故か“からっぽ”に見えた。
それを感じている理由は、わかっているはずだ。その、原因も。だが、感情そのものを具体的に表す語彙力を、僕は持ち合わせていなかった。
「私、あかり。灯篭の、灯って書いて、あかり」
そう言いながら、小さな手のひらで空中に“灯”という反転文字を描く彼女の姿を、僕は一人、回想し始める。
“灯”。
名前は正直、どの学校にもいるようなものであったが、その漢字を使っている人を、僕は初めて見た。けれど、すごく、彼女に似合っていた。
静かな、でもどこか芯の通った声。僕に向けて話しているのに、僕が苦痛にならない、唯一の声。
「今日はごめんね。こんな時間に、突然」
先ほどの彼女——灯はそう言いながら、手に下げた小さな紙袋を玄関前でこちらに渡す。
中身は、何か発泡スチロールに包まれたものであった。詳細は分からないが、袋の底がひんやりと冷たいので冷凍品の類いではないかと、個人的に予想する。
「えっと……お隣の家の人に頼まれて。『冷凍の荷物が届くから、そこの家に届けておいて』って言われたの。お母さんに渡せればよかったんだけどね」
ああ、そういうことか。
おそらく、彼女はこの家をたまたま訪れたのだ。僕を目指してきたわけじゃない。ただの、偶然。だが、たったそれだけの偶然が僕の中の全てを変えてしまった、という現実を信じることは、甚だ難しかった。
「……わかった」
それだけ、僕はやっとのことで返事をした。
彼女は静かに頷く。
「ごめんね、突然でびっくりしたでしょ?」
中身は、なんだろうか。アイスか、肉か……いや、魚だろうか。だがそんなことはどうでもいい。
「……びっくり、は、し、たけ、ど……」
でも、ありがとう。
その言葉が、喉から思わず出そうになるが、僕は無理やり飲んで押さえ込む。言ってしまえば、きっとこの場で泣き崩れてしまうだろうから。そんなの、あまりに情けないと思ったから。
灯と名乗った少女は、ドアの前で最後にこう言った。
「……じゃあ、またどこかで。学校で、また会えるかもね」
……ああ、何故だろう。胸の奥がざわつく。目の奥が熱い。
あの顔が、声が、僕の耳から離れようとしない。
この世界に生を受けてからおよそ一六年。その中で一度も感じたことのない、言葉に表し難い謎の感情が、僕の心を締め付けて、呪いのように離そうとしてくれない。
この、感情を、この、感覚を、僕はどうすれば引き剥がせるのだろうか?
その答えは、あの子の、灯の声が、何度も脳内で反響して示してくれていた。
「……学校、行くか」
声は、自然と口から出ていた。
僕にとって、一世一代の、人生を賭けた挑戦の火蓋が、心の中で切って落とされた瞬間であった。
うつ伏せになった僕は、ゆっくりと目を閉じる。
フローリングのひんやりとした心地の良い温度は体全体に伝わり、しばらくすると僕は睡魔に襲われ始めた。
手に握ったままのアイマスクに付いた皺の数が、増えていくのを感じる。その布の感触すらも、今は心地よく感じた。
静寂は、もう僕を守ってはくれない。この軋んだ歯車が外れ、崩れ落ちるその瞬間が来る前に、自分の手で止めて、新しいものと交換しなければならないのだ。
そう覚悟を決めた僕の意識は、段々と微睡の中に溶けていった。
* * *
次に目を覚ました時には、窓の隙間から既に陽光が差していた。
久々に、夢を見たような気がする。内容は思い出せない。
ただ、朝焼けのような美しい橙色が眼窩に強く焼き付いていたような気がする。
変わらない天井、潰された窓、冷たい床。それらはどこか、昨日とは違って見えた。
右腕に体重をかけて身体を起こす。その瞬間、長い眠りから目覚めたように全身の関節が軋んだ。僕は伸びをしてから、一度、両手で頬を強く叩く。
ぱちん。
それは、僕にとっての覚悟でもあり、同時にそれを実現するためのリハビリでもあった。取り敢えず、学校に行く前に音に対して“馴れる”必要があったのだ。
ぎし、ぎし。かちり。ぎし、ぎし。
昨日よりはスムーズに、恐怖心を持たずに部屋の外に出ることが出来た。
とん、とん、とん、とん。
昨日あれだけ怖がり、時間をかけて踏破した階段を、嘘のように楽で、当たり前のように降っていく。降りた先で一番最初に見えたのは、僕の母さんだった。ため息をついたのだろうか。彼女の周りでは灰色のリボンがくるくると弧を描いており、その口元には暗い空色のリボンが漂っていた。
「母さん、おはよう」
母さんが、こちらを見て驚いたような表情を浮かべ、何か言おうとして、やめた。灰色のリボンが、みるみるうちに黄色——驚きの色に変わっていった。
「僕、学校に行くよ」
母さんは、少しの沈黙ののちに、こちらを見て微笑み、頷いた。その頷きは、僕に対してどこか信じられないものを見ているようで、それでも“嬉しい”という気持ちをどうにか形にしようとしているような、不器用で、精一杯の意思表示のように思えた。黄色に染まった彼女のリボンが、次第に橙色に変わっていく。
「制服、出してくるから。……車、出すね」
「うん」
数ヶ月ぶりの、拙く、短い会話。
僕の中で、世界がまた少しだけ、動き始めたような気がした。