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雑文その他「喋る猫は鮭の切り身を所望する」
Fランクから始めよう
◆◆出会い◆◆
『我輩は猫である。名前はまだない。』
そんな書き出して始まる小説がある。それは猫の視点で人間の生活を描いた小説だった。まぁ、小説だから実際に猫がそんな事を言った訳ではない。あくまで作者が言いたい事を猫という小説のキャラクターに言わせているだけだ。読んでいる読者もその事は理解しているはずである。
猫が考える?まぁ、少しは考えるだろうな。飯の事とか雌の事とか。
大抵の人々は、物語を離れた現実の猫に対してはそんな風に考えているはずだ。猫の行動から喜んでいるとか怒っているとかは判断しても、実際何を考えているかまでは正確に読み取る事は出来ないであろう。
それは何故か?猫と人間でもコミュニケーションを取る事は出来る。でなければ側にいる事など出来ないからだ。だが、人間同士のような相互コミュニケーションは成り立たない。
もしも、成り立つと思っている人がいたらそれは勘違いだ。一見意思の疎通が成り立っているように見えても、それは人間側が自分に都合の良いように解釈しているだけである。
では何故そんな事になるのか?それはコミュニケーションにおいて一番重要な『言葉』を猫が喋らないからだ。猫とて『音』を発する事は出来る。しかし、その種類は少なくまた微妙すぎる。仮に猫の世界で『にゃー』と『にゃ~』が違う事を言い表しているとしても人間にはその違いが判らないであろう。
そしてもうひとつ、猫と人間のコミュニケーションが成り立たない要因がある。それは猫は悩まないという事だ。状況を判断し対応はするであろうが、人間のようにどうしようかなどと考えたりしないのだ。いや、猫とはいえ葛藤はあるだろう。過去の経験から自分の身に危険が及ぶような事は避けるはずだ。
だから学習はする。しかし、その学習結果をもって他の事案に当てはめる事はない。乗用車に轢かれそうになった猫は車を恐れるはずだが、オートバイや大型トラックにも同じ危険があるとは気付けない。故に道路でぺっしゃんこにされるのである。
しかしそんな猫たちも、個別の生き物の判断もしくは区別は出来るようである。過去に喧嘩で負けた相手には近寄らないか、服従の意を示すのをよく見かけるのだから。
猫同士でもそんな事があるのだから、それは人間に対してもあるはずだ。実際、野良猫に対してよく思っていない人間の周りに猫たちは近付かない。仮に近付いたとしたら、それはそれなりの報酬を見込める時だけであろう。
所詮は猫。喰う、寝る、ヤるしか頭にない獣である。人間様に寄生して生きているしがない生き物だ。
しかし、今俺の目の前にいる猫は違った。何が違うかというと、なんと『喋る』のである!
まぁ、世間は広いので時々喋る猫の話題もテレビなどで見かける事はある。でもそれは、たまたま発せられた鳴き声が言葉のように聞こえただけのはずだ。最もポピュラーな例では『ごはん』であろう。実際に耳にすればそれは『ごはん』ではなく『ぐわーにゃん』だったり『ぐー、ふんっ!』だったりするのだが、信じる者が聞けばそれは『ごはん』と聞こえるらしい。
だが、今俺の目の前にいる猫は違った。単一の単語ではなく、ちゃんと主語、述語を交えた『言葉』を話すのだ。しかも小憎らしい事にネイティブな標準語をである!くそっ、東北の猫なら東北弁で喋らんかいっ!お前は気取った都会暮らしの猫なのかっ!
「あーっ、猫よ。お前どこでそんな言葉遣いを覚えたんだ?」
俺は縁側にて日向ぼっこをしている猫に対して問い掛ける。まぁ、傍から見たら寂しい独り身が猫を相手に寂しさを紛らわせているようにしか見えない構図ではあるが、次の言葉を耳にすれば腰を抜かすはずだ。
「テレビでにぁ~。あれはいいのにぁ~、何だったら関西弁で喋って見せようかにゃん」
猫は俺の質問に、目も開けず喉をごろごろ言わせながら答えた。
うんっ、これは嘘。そのままではあまりにも普通なので世間の一部で認識されている、所謂猫喋りというやつに変換してみた。実際には次のように猫は喋った。
「テレビですよ。あれは言葉を覚えるのに最適ですね。情報の宝庫です。なんだったら大阪芸人風に喋ってみせましょうか?あっ、薩摩弁はまだ学習中なので勘弁して下さい」
因みにこの猫はオスだ。だから口調も男性のそれである。ボリューム的には口が小さい為か小声だが、その気になれば人間の赤ん坊より大音量で叫ぶ事が出来る事を俺は知っている。特に春先はそんな叫びをよく耳にする。
「お前、大阪がどこにあるかなんて知っているのか?」
「実際の距離は知りませんが、ここから南に千キロほどでしょう?」
うんっ、この猫は『言葉』を喋るだけでなく『知識』まで持ち合わせている。因みに数学の計算問題をやらせたら2桁までの四則計算ならそらで答えやがったよ。ムカついたので4桁の計算を問い掛けたら、器用に前足で地面に数字を書いて計算しやがった。しかも文字はちゃんとアラビア数字を使ってた。
「お前、そんなんで他の猫とうまくやれてんのか?もしかして、猫語は喋れないとか?」
「はっ、まさか!私はバイリンガルですよ。いや、猫語だけでなく犬語やカラス語、鼠語だって話せます」
「お前、鼠語まで話せるのか?それって逆に狩りの時に困るんじゃないのか?助けてくださいなんて懇願されたら躊躇するだろう?」
「何を言っているんです!狩りに私情は禁物です。人間だって躊躇ったりしないでしょう?『お願いです、良い子になりますからぶたないで下さい』と懇願する幼子を放置して、遊び呆けているやつは絶対もっといますよ」
「お前、そのネタってニュースから得たよな?」
「嘆かわしい事です。しかもその責任を行政のせいにしようとする報道の姿勢には、危ういものを感じさせられます」
聞き及んだ内容だけでなく、そこから別の事へ思いを巡らせるとはこいつ中学生より賢いのか?
「お前、本当に猫か?実は人間の記憶を持ったまま生まれ変わった元ニートなんじゃないのか?」
「おやおや、今度は無料小説投稿サイトのテンプレですか。例えが安易過ぎますね。ここはプラトンやデカルトなどの哲学的用例を出して頂きたかった」
前件撤回。こいつ絶対中二だ。小難しいことを言って悦に入るタイプだよ。
「お前、某国営放送の教育番組の観過ぎだ」
「あの放送局も最近では学生に擦り寄りがちですね。視聴率など気にならないはずなのに、何を若者ウケを狙ってあのような安易な番組構成にしているのでしょう。特に出演者の大根演技が鼻に付きます」
「猫のお前にそこまで言われては番組制作者も立場がないな」
「ニュース報道もひとつひとつの事案に掛ける時間が少な過ぎます。もっと掘り下げて取材して欲しいものです」
「今やニュースは娯楽と変わらないんだよ。テレビの前でお茶をすすっているやつらにとっては、自分に害が及ばない事件はいい暇潰しなんだ。だから質より量なのさ」
「成程、確かに無料小説投稿サイトのハーレムはそんな感じですね」
「お前、無料小説投稿サイトに何か恨みでもあるのか?」
「別に。ただ例え易いので使っているだけです。なんだったら幾何学的構造の差異で例えて見ましょうか?」
「止めてくれ、どうせ俺には理解できんよ」
いや、こいつだって本当は理解していないのかも知れない。ただ難しい事を言って俺が降参するのを面白がっているだけかも知れなかった。
「ところでご主人」
「俺はお前の飼い主じゃねぇよ。お前が勝手に俺の家に棲み付いているだげだ。お前はノラなの」
「フリーダムこそ、猫の本質。何ものにも束縛されない自由な生き方。でも小腹が少し空きました。ペットフードでいいんで少しください。ミルクが付くなら足元ですりすりして差し上げます」
そういいながらも猫はごろんとひっくり返り、今度は腹を太陽に向けて寝転んだ。
「人間の場合、お願いする時は頭を下げるもんなんだがな」
「私は猫なんでその習慣は持ち合わせていません。でもやって欲しいのなら、やらなくもないですよ」
「腹を仰向けにして、だらしない姿勢で言われても本気とは思えん」
「背中が温まったので今度はお腹を暖めているだけです。私は小さいので日の当たる面積が小さいから大変なんですよ」
「何かアフリカの砂漠にそんな生き物がいたなぁ」
「ミーアキャトですね。猫科でもないのにキャットとは人間の命名も適当ですねぇ」
いや、ミーアキャトは種の名前であって個を指す名称じゃないんだが。あれ?そうゆう疑問じゃないのか?
「そう言えばお前って名前はあるのか?」
「当然あります。ただ人間の言葉に変換するのは難しいんですよね」
「嘘くさ・・。となると人に付けられた名前はないんだな。お前ノラとはいえ、猫種としてはそこそこのブランドっぽいんだけどな」
「種別分類としてはシャム猫の血が濃く入っていますね。でも厳密には多分雑種でしょう」
「猫自身に種の認識があった事にびっくりだ」
「人間だってあるじゃないですか。主に肌の色分けで。遺伝子的には虎とライオンだって交配できますからね。サイズが違い過ぎるので私は遠慮しますが、孕ます事は可能です」
「孕ますって・・、お前もやっぱりオスなんだなぁ」
「種の継続は遺伝子に組み込まれた本能です。性欲に負けて無理やり犯すのとは違います。そこら辺を人間と同じ低レベルな次元で論じないで下さい」
「知恵を付けた畜生風情に諭されてしまった・・」
「まっ、人間も元を辿れば所詮は猿。でもしょげる事はありません。二足歩行にて手を自由に使えるように進化したあなたたちは勝ち組です」
「しかも何か慰められている・・」
「しかし、人間のコミュニケーションとして『言葉』は重要です。そして他人と区別する為の名前はコミュニケーションを円滑にする為には欠かせないものでしょう。そうゆう意味では、あなたにも発せられる名を持つのもやぶさかではありませんね」
「それって俺にお前の名前を考えろって事か?」
「私が考えた名ではあなたが喋れるか不安ですからね」
「ならポチでいいか」
「その名は主に犬につけるのでは?」
「変な事まで知っているな。なら『くろ』はどうだ?」
「その名は某小説投稿サイトで大人気な小説のキャラクターと被りますから止めて下さい」
「大人気なのか?お前なんか貰ったな?」
「去年は秋刀魚が豊漁でしたので骨付きお頭と内臓を少々。でも身は貰えませんでした」
「う~んっ、安かったとは言えさすがに1匹まるごとは躊躇したんだな」
「まぁ、所詮私は野良ですからね」
「そうか、なら名前も『ノラ』でいいか」
「別に気にしませんが安直ですね」
「ならお前が選べ。『アントワネッコ・クレオパトラッシュ』と『ノラ』だ。どっちにする?」
「悪意ある選択としか思えません。まぁ、いいでしょう。『ノラ』にしておきます」
「『アントワネッコ・クレオパトラッシュ』も捨てがたいと思うんだが」
「どこがですか!大体パトラッシュって犬の名前でしょうに!」
「うわっ、知ってるのかよ!」
「アントワネッコも捻り過ぎです。しかも元ネタの方って女性じゃないですか!」
「猫の癖にこだわるなよ」
「そんな長い名前では、明日になったらあなた自身が覚えていないはずです」
「ぐわっ、猫に俺の記憶能力を指摘されてしまった・・。でも確かにそんな気はするな」
「でしょう?ですから私の第二の名は『ノラ』で結構です」
「そうか、それじゃそうするか。よろしくな、ノラ」
「はい、こちらこそ。それでは私の名前が決まったお祝いに、昨日買って来た鮭の切り身で祝いましょう。あっ、焼き加減はレアでお願いします」
「・・何故、お前がそれを知っている」
「運命だからです。この世界は仮初め。2度目の人生は夢の中で、ですよ」
うんっ、やっぱりこいつは転生者かも知れない・・。
◆◆後悔◆◆
ノラの巧みな誘導により、鮭の切り身を焼かされた俺は一緒に昼飯を食べた。まぁ、俺の方は目玉焼きと冷奴付きのデラックス版だが。
そして腹が満ちた俺たちはまた縁側で日向ぼっこに興じる。そこで、俺は3日に1回の楽しみに取っておいた缶ビールを空けぐいっと飲む。ノラには皿に注いだミルクだ。
俺はビールによるほろ酔い気分でノラに話しかける。
「ノラよ、お前って生まれた時から人間の言葉を喋れたのか?」
「そんな訳ないに決まっているじゃないですか。人間の赤ちゃんだって、喋れないでしょう?言葉とは徐々に学習してゆくものです」
「くっ、またしても正論で切り返されてしまった・・」
「私は猫としてはちょっと貴種なんでしょうね。生まれた時から周りに他の猫がいなかったので、かなりの間自分は人間なんだと思っていたくらいですから」
「人間だと勘違いし続けると猫でも言葉を喋れるようになるのか?それが本当なら学会は大騒ぎだな」
「ですから貴種と言ったでしょう?私は稀です。まぁ、持って産まれた才能なのかも知れません」
「益々お前の転生者疑惑が濃くなったな」
「ところでご主人。夢ってありますか?」
「突然だな。でも夢かぁ~。昔は宇宙飛行士や海賊船の船長とか色々あったんだけどなぁ」
「ご主人の読書傾向が丸判りですね。今時の子はユーチューバーですよ。もしくは転生者」
「それは一部の一般世論に染まり過ぎだ。大体転生者は職業じゃねぇよ」
「まっ、夢ですから。望んでも叶えられないのが夢なのです。そうゆう意味ではご主人の夢はがんばりさえすれば手が届くものだけに夢としては低ランクですね。冒険者としてはFランクくらいですか」
「いちいち流行の異世界モノで例えるのは止めてくれ。判り易いけど・・」
「流行とはみんなが望む事とも置き換えられます。だから夢とはちょっと違うかも知れませんね」
「ん~っ、ますます哲学だな。もしくは分析学」
「では言い方を換えましょう。ご主人って、仮に神さまに願い事を叶えて貰えるとしたら何か望みはありますか?」
「それって、チートとか、願い事の回数を増やしてくれとか言わないと駄目なやつか?」
「流行とは関係無しで。あくまでご主人の望みです。因みに相手は神さまですから非現実的なことでも可能としておきましょう。と言うか、折角神さまを出したんですから現実ではどう足掻いたって無理な願いの方が神様としては喜ぶかも知れません」
「喜ぶのか・・、神さまも自己顕示欲が強いんだな」
「まぁ、所詮人間の創り出した願望が具現化した存在ですからね」
「いきなり有り難味がなくなったな。でも俺の願いか・・」
「・・」
「・・」
「・・。やけに長考ですね、そんなに考えないと整理出来ないほどあるんですか?」
「いや、そうじゃないけど。ただ、口にするのがはばかられるだけだよ」
「猫相手に恥ずかしがっても仕方ないのでは?」
「自分で自分に恥じる事だってあるのさ」
「ほうっ、つまり後悔ですね」
「お前、随分察しがいいな。もしかして人の心が読めるのか?」
「さすがにそこまでは。単なる引っ掛けです」
「カマ掛けかよっ!しかも乗っちまったよっ!」
「ではご主人の若かりし頃の恥ずかしいエピソードをお聞かせ下さい。あっ、絶対笑いませんから。しかも他言はしません。今日の晩御飯を賭けてもいいです」
「その程度の確約では信用できないな」
「何を言うんです!野良猫にとって労せず準備されるご飯は何物にも代えがたいものなのですよっ!」
「こんなところで価値観の違いが露見したよ。まぁ、いいか。誰かに話すと楽になるって言うからな」
「げっ、まさか犯罪がらみですか?」
「そんな訳あるかっ!・・、いやある意味、人としては駄目な事かもしれないな」
「大丈夫ですよ、ご主人。現在の法律では猫の証言は証拠として扱って貰えません。それどころか、精神鑑定で正常な状況ではなかったとして無罪判決となるかも知れません」
「それは犯罪を犯したやつが一番やってはいけない行為だ。自分の事しか考えてないぞ」
「冗談ですよ、ご主人。で、どんな事なんです?」
「そうだなぁ、もうあれは結構昔になるんだなぁ」
俺はそこで空を見上げ当時の事を思い返した。そう、あの時から俺の人生は空転し始めたのかも知れない。仕方がなかったと自分に言い聞かせながらも、心のどこかで自分を責めていたのだ。
それは突然やって来た。いや、前兆はあった。ちょっと大き目の地震が短いスパンで頻発していたのだ。学者たちは一応警告していたらしいが、それはその時を生きている人の実体験としての記憶に残っている前回、前々回程度の規模の地震が起こるかもしれないと予測していたもので、まさかあれ程の大地震が発生するとまでは考えていなかったらしい。実際人々も、なんかこの頃地震が多いな程度の認識で日々の暮らしに追われていた。
『災害は忘れた頃にやって来る』
うんっ、まさにその通りだ。ただあれ程の規模の地震は人の人生のスパンからははみ出している。忘れる云々より、体験者が既にこの世にいないのだ。碑文や伝承として戒めは残っていたようだが、そんなものを信じて暮らしていては何も出来なくなってしまう。海岸沿いに住みやすい場所があるのに、なにが嬉しくて山間部の坂道だらけのところに住むやつがいるだろうか。
だが、歴史は繰り返すらしい。それは人の営みだけでなく自然界にも当て嵌まるようだ。大陸プレートの移動は、昔どこか外国の素人学者が思い付いたことらしいが、周りからは笑われたらしい。しかし、その後の調査によりデータの裏づけが取れ、今では誰しもがそれを疑う事はない。いや、その事に興味のある者だけ限定ではあるが。
そんな大陸プレートの移動とかいう大きなチカラが今回の惨事のエネルギー源だった。いや、引き金と言った方がしっくりくるだろうか。地震の揺れは確かに凄まじかったが、この国の建築物はそれに備えるように造られていて殆どの建物がその揺れに耐え切った。激震地では、揺れが収まった後も使い続けられる建物はそう多くはなかったが、しかしそれらは少なくとも住人が避難できるだけの時間は確保した。
だが、そんな人々を別の災害が襲った。そう、津波だ。地震ほどの頻度はないが、この国は津波も経験している。過去には死者もでていて報道もされている。しかし、あれ程の規模の津波が自分に襲い掛かってくるとは夢にも思っていなかったであろう。実際、俺も気にもしていなかった。学校の授業では教わった気もするが、所詮は水の流れ。サーフボードがあればビックウェーブに乗れるな、なんて考えていたくらいである。
しかし、現実は俺の暢気な考えなど簡単に飲み込んでしまった。俺は逃げ遅れて命からがら1本の大木にしがみ付いていた。もう、周りは海水だらけだ。しかも色々なものが流れに押し流されてくる。大きな船が俺の方に向かって来た時は本当にビビった。海岸からかなり離れた場所まであんなのが流されてきたのである。あの時の水深が如何ほどのものだったのかが思い知らされる。
運よく船は俺がしがみ付いていた大木の横を流れていった。しかし、細かい漂流物は容赦なく大木にぶつかって来た。中には軽自動車ではあったが自動車までもが立て続けに何台もぶつかってきた。だが大木はなんとかそれらの衝突に耐えた。
そんな時、1匹の子猫が流されてくるのが見えた。子猫は必死に何かに捉まろうともがいていたが運悪く子猫の周りには掴まれるような漂流物がなかった。そしてそのままでは子猫は俺のしがみ付いている大木にも届きそうもなかった。その時、俺は何故か手を伸ばしてその子猫を捕まえた。理由は判らない。自分が助かるかどうかも判らないときに子猫1匹に手を差し伸べてどうなるものでもないと思うが、その時の俺はその子猫を助けるべきだと感じたのだ。
子猫は俺の腕を駆け上り肩に乗り震えていた。何故か木の上には登ろうとしなかった。もしかしたら飼い猫だったのかも知れない。だから人の側に居たかったのかも知れなかった。
そして漸く津波は流れを止めた。周りの漂流物もその場に留まりゆっくりと回転しながら漂い始める。
「くはっ、助かったのか?」
海水の流れが収まった事により俺は安堵の呟きを漏らす。だが、安心するのはまだ早かった。今度は陸を駆け上がった大量の海水が重力の法則にしたがって海へと流れ出したのだ。所謂引き波である。俺は運よく流されてきたロープを使い大木と体を結び付ける。引き波ならこれ以上水位が上昇する事はないと踏んでの対策だった。ならば次は海へと流されないようにしなければならない。
その時、どこからか助けを呼ぶ声が俺の耳に届く。声のする方を見るとひとりの男がタンスにしがみ付いて流されていた。男は俺の方を見ながら声も枯れよと叫んでいる。
「たっ、助けてくれーっ!」
だが、男が流されているルートは手を伸ばしても届きそうもなかった。俺は一瞬躊躇したが体に結んだロープを信じて流れに飛び込む事にした。その前に肩で震えている子猫を大木にしがみ付かせる。だが、子猫は爪を立てて俺から離れようとしなかった。
「くそっ、離れるんじゃねぇぞっ!」
俺はしがみ付く子猫を肩に、流されてくる男目掛けて黒々と淀む海水へ泳ぎ出した。とは言ってもそこは川のように流れがある場である。流れ全体が広範囲な為、見た目はゆっくり流れているように見えるがとても人間が抗える流速ではなかった。はっきり言って力任せに海水をかいても前になど進めない。だが、男の進路と大木の間隔は精々3メートル程だった。俺は遮二無に腕を回し足をバタつかせて何とか男が捕まっているタンスを掴んだ。
「こっちへ来いっ!この流れじゃタンスは掴んでいられない!」
俺の声に男は腕を伸ばしてくる。だが、捉まったままでは手は届かない。
「違うっ!タンスを回り込んでこっちに来るんだっ!」
だが男は手を伸ばすだけで頑なにタンスから離れようとしなかった。
「ちっ、この腰抜けがっ!」
仕方なく俺は腰に縛ってあるロープを解き片方の手でロープを掴み、もう一方の腕を伸ばした。そして漸く男の手を掴んだその時である。何か大きな物が海水の中を転げてきて俺たちが捕まっているタンスに激突する。その反動でタンスと俺たちは大きく揺さぶられた。
しかし、俺は何とか男の手を離さずに済んだ。タンスが揺さぶられた事により男の体が波に乗り俺の方へ打ち寄せられたからだ。だが、これには代償を伴った。男を打ち寄せた波は俺の体もタンスに打ち付けたのだ。その衝撃により俺の肩にしがみ付いていた子猫が放り出される。
「猫っ!」
俺は叫んだが両手は塞がっている。子猫は必死になって海水からタンスの上に這い上がったが、俺が掴んでいるロープは既に伸びきっていて無常にもタンスとの距離は離れていった。
「にゃ~」
子猫は俺の方を見ながら何度も鳴いていた。だが、俺にはどうすることも出来ない。ロープを放せばタンスまで泳ぎつけたかも知れないが、それでは俺の腕にしがみ付いている男を助けられない。ロープを男に手渡して後を追うという方法もあったが、男は死んでも俺の腕は放さないといった形相で俺にしがみ付いていた。
結局俺は子猫を諦める。人助けをしている時に人間と子猫のどちらを助けるか悩むなど、後から人に話したら馬鹿にされそうだが、俺はこの時の判断を、その後何時までも引きづった。助けた男がロクデナシだったのも俺の心を消沈させたのかも知れない。
救助隊の船に引き上げられ陸に戻った後、男は忽然と姿を消した。後から判った事だが、男は強盗殺人事件の指名手配犯だったそうだ。そんな男の命を優先し、俺は子猫を助けなかった。いや、男の事は言い訳で、実は俺自身が自分の身の安全を優先したのかも知れない。
それ故に俺はこの事を誰にも話した事はない。後に男が再度殺人未遂を犯し警察に捕まったニュースを見た時は、俺があの時男を助けなければ被害者の方は怪我を負わずに済んだのかと後悔の念にかられたが後の祭りである。
まぁ、あんなロクデナシの事はどうでもいい。あれ以降、俺は長い間あの子猫の事を忘れられなかった。いや、最近は殆ど思い出さなかったのだが、それとて漸くといったところだ。あの子猫の鳴き声はそれほど俺の脳裏にこびり付いて剥がれなかったのだ。
だけどノラを見てまた思い出してしまった。俺は話し終えた後、ノラにその事を愚痴る。
「漸く忘れる事が出来たのに、お前のせいで思い出しちまったじゃねぇかっ!」
「そうやって人のせいにするとはご主人もまだまだですね。あっ、人ではなく猫のせいと言わねばなりませんでしたかな」
「言葉を話し、会話が成り立っている時点でお前は猫じゃない気がするんだが?」
「それ言っちゃうと最新のAIは機械じゃないと言わねばなりませんね」
「くっ、一体どこでそんな情報を仕入れたんだか」
「インターネットですよ。あれは情報の宝庫ですね。なんでしたらボーカロイドのように歌って差し上げましょうか?」
俺はどうやってパソコンを操作したんだと突っ込みかけたがぐっと堪えた。こいつは器用に足で計算までするやつだ。パソコンのスイッチを押してキーボードやマウスを操作するくらい朝飯前でやってのけそうである。
「さて、ご主人。ご主人の望みは判りました。鮭の切り身とミルクのお礼として私がそれを叶えてあげましょう。さぁ、みんなが憧れる異世界に出発ですっ!」
そう言うとノラは指をパチンと鳴らした。あれ?でも猫の指でそんな事ができるのか?こいつ、本当に器用だなぁ。
◆◆やり直し◆◆
今俺の前には黒々とした海水が海から陸に流れ込んでいた。そう、ノラは異世界へ出発と言っていたが実際には過去への時間跳躍だった。俺は夢かと自分の頬をつねる。うんっ、痛い。まぁ、体が浸かっている海水の冷たさからこれが夢じゃないのは判っていたけどね。俺の夢はそこまで高性能じゃないからな。
「さて、これが夢じゃないとすると、またあれを経験するのか・・。ノラのやろう、帰ったらとっちめてやる。何が嬉しくてこんな事をまた経験しなくちゃならないんだよ」
俺は過去に俺の命を救ってくれた大木にしがみ付きながらノラを罵る。そんな俺の脇を大きな船が内陸に向かって流れていった。うんっ、この光景は覚えている。まさかまた見る事になるとは思ってもいなかったけどね。
しかし、この再現性の高さから考え得るに次に流れてくるのはあの子猫だ。長年俺の心に突き刺さっていた棘の原因。そしてそれは予想通りにやって来た。
「ほいっ、今回は2度目だからな。挨拶は久しぶりでいいのか?いや、お前にしたら初めての事か」
俺は子猫を海水から拾い上げ懐に入れる。子猫は俺の胸の中で震えながらも小さく「にゃ~」と鳴いた。
「はははっ、お前は喋れないんだな。うんっ、その方が猫らしくていいよ」
前回俺はこの子猫を救えなかった。死ぬところを直接見た訳ではないが、あのまま流されていれば30分足らずで海に出ただろう。そうなったら、もう陸には戻れない。引き波に押し出されて沖合いまで出たはずだ。ロビンソークルーソーは遭難しても無人島に漂着したが、広大な北太平洋に放り出されてそんな島へ打ち寄せられる確率は計算するのも馬鹿らしくなるほど低いはずだ。
多分あの子猫は餓死したであろう。いや、当時の季節から考えると夜の内に凍死したか。野良猫ならそんな目に会うやつはごまんといるのだろうが、飼い猫だったであろうあの子猫がそのような死に方をしたのは、如何に自然の掟とは言えやるせなかった。ましてやあの子猫はあの時まで俺の手の中にいたのだ。つまりあの子猫が死んでしまったのは俺の判断ミスである。いや、俺にふたつの命を救える『チカラ』が無かっただけかも知れない。無力な俺は片方の命しか救えなかった。『チカラ』さえあれば、両方とも・・、いや全ての命を救えたはずなのだ。
だから今回は失敗できない。仮にその為に俺の命が危なくなるとしても絶対にやり遂げてみせる。自分の身が危険に晒されるからと言って怖気付いていては、結局後悔しか残らない事を俺はあの事により知ったのだ。
今の俺にあの時以上の『チカラ』があるなんて思い上がってはいない。だが、決意だけは固かった。俺はやり直せるんだ。あの失敗をなかった事に出来るのだ。ならば挑戦しなくてどうする。
事を成すのに100のチカラが必要で、しかし、半分しか持っていないとすれば諦めるしかないのか?否っ!あらゆる安全マージンをそげ落としてチカラを高めるべきなのだ!それでも足りなかったら前借りすればよいっ!今後の自分の人生を担保にチカラを搾り出すのだ!
一世一代の大勝負っ!傍から見たら何を滑稽なと思うかも知れないが、俺はもうあんな後悔をするのは真っ平なんだっ!
そして俺は、胸元で震える子猫に手をやって次にやって来る事に備えた。既にロープは確保してある。やがて津波の流れは止まり一瞬の静寂が訪れる。しかし、これは一時のまやかしだ。次は引き波が全てを海へ引きずり込み始めるのだ。
その時、どこからか助けを呼ぶ声が俺の耳に届く。声のする方を見るとひとりの男がタンスにしがみ付いて流されていた。男は俺の方を見ながら声も枯れよと叫んでいる。
「たっ、助けてくれーっ!」
俺はその姿を見て複雑な気持ちになった。こいつはとても助けるに値しないような人間ではあったが、俺は人として目の前で危険な状態にある人間をさすがに無視はできなかった。俺の中でも葛藤はあったが、後で後悔するくらいならやはり助けるべきであろう。その後の事は助けた後に対処すればいい。いざとなったら陸に上がる前にぶん殴ってロープでぐるぐる巻きにすればいいだけだ。まぁ、救助してくれるであろう船の人たちはびっくりするだろうけどね。う~んっ、果たして今回も彼らは救助に来てくれるんだろうか?子猫を助ける事で歴史が変わっちゃうから駄目かなぁ。
俺は子猫を懐に入れたまま海水に飛び込む。だってどうやっても子猫が大木に移ろうとしなかったから。全く、動物ってやつは意のままにならない。多分恐怖心から離れたくないんだろうけど、絶対大木にしがみ付いていた方がこれから体験する事に比べたら楽なんだけどなぁ。
そんな俺の気も知らずに、突然俺に水の中に跳び込まれた子猫は暴れだしたが気にしない。ちょっとの間だけの我慢だ。痛てっ!こらっ、引っかくな!ぐわっ、噛むな!あっ、暖かい・・、もしかして漏らした?
俺は子猫を懐に入れたまま、流されてくる男目掛けて黒々と淀む海水の中を進む。とは言ってもそこは川のように流れがある場である。流れ全体が広範囲な為、見た目はゆっくり流れているように見えるがとても人間が抗える流速ではなかった。はっきり言って力任せに海水をかいても前になど進めない。だが、男の進路と大木の間隔は精々3メートル程だった。俺は遮二無に腕を回し足をバタつかせて何とか男が捕まっているタンスを掴んだ。
「おらっ、ロープだ!死にたくなければ絶対に離すんじゃねぇぞっ!」
俺は前回の教訓により男には近付かないようにした。だが男は俺が放ったロープを手にしてもタンスから離れて泳ぎ出そうとしない。
「ちっ、この腰抜けがっ!」
まぁ、自ら行動せず地獄に落ちるならそれは俺のせいではない。蜘蛛の糸は垂らしてやったのだ。後はこいつの判断である。
俺はロープを手繰って大木の方へ戻る事にした。だが男もそんな俺の姿を見て漸く決心が付いたのであろう。タンスから手を離してロープを手に俺の後を追って来る。だがそれがまずかった。タンスという浮力材から離れた途端、男が沈み始めたのだ。
「なんだぁ?なんで沈むんだよっ!お前の体は鉄製かよっ!」
俺は必死になってロープを引っ張るが足場のない水中では踏ん張りも効かない。しかたなく急ぎ大木まで戻ってからロープを手繰り寄せた。
「ぜはっ、ぜいっ、ぜいっ。ぐはっ!」
男はしこたま海水を飲んだようだが、なんとか自分で大木にしがみ付くだけの力は残っていたようだ。海水を吐いた後は呼吸も落ち着いてきた。
「ほいっ、おめっとさん。もう少しすれば救助の船がくるはずだ。それまではがんばれ。あっ、ロープは体に縛り付けておけよ。手に掴んでいるといざと言う時に使えなくなるからな」
俺の言葉に男はジロリと睨み返して来たが素直に従った。うんっ、さすがはロクデナシだ。助けて貰ったにも関わらず、礼を言う気もないんだな。
その後、1時間ほどして水深はかなり減ったがまだ流れはある。そんな流れに乗って何人かの遺体が沖に流されてゆくのを見送ったのは、2度目とは言え辛かった。俺はそんな人たちにそっと手を併せる。そして漸く俺たちの元へ救助の船がやって来た。
子猫は陸に上がると直ぐにどこかへ逃げてしまった。まぁ、所詮は猫だからな。そんなもんだろう。その後、俺は逃げようとした男をぶん殴ってロープでぐるぐる巻きにする。案の定、近くにいた人たちは驚いていたが男の素性を話すといぶかしみながらも納得してくれた。男の懐から結構な量の貴金属が出てきたのも俺の説明に信憑性を持たせたようだ。成程、こんなにクソ重い物を持っていたら沈むわな。やっぱりこいつ馬鹿だわ。
その後、男は警察に引き渡された。警察も如何に職務とは言え、こんな大変な時に厄介もんを押し付けられて迷惑だったであろう。やっぱりあのまま沖に流しちゃうべきだったかな。そうすりゃ、こいつの分の食料も他へ回せるもんな。本当にロクデナシは生きているだけで周りに迷惑を掛けやがる。
その後、支給された毛布に包まりながら俺は目の前の惨事をぼーっと眺めた。俺にはこの災害を防ぐ事は出来なかった。いや、そんな事を考える事自体が不遜なのかも知れない。人ひとりが出来る事など、たかが知れているのだ。だが、そんなちっぽけな人間でも知恵を出し合って協力すれば大きな『チカラ』を発揮できるはずなのである。でもその切っ掛けがこんな自然災害とは些か皮肉めいている。
何故、この思いや行動が平時にとれないのだろう?人を助けるという事は、手を差し伸べるという事だろう。そこには損得などの計算はないはずだ。だが人とは常に全開では走れない。チカラを貯めておかなくては、いざと言う時に行動したくてもその元となるチカラが足りなくなるのだ。
そもそも平時にそんなに緊張していては疲れてしまう。それでなくても人はやる事が沢山あるのだ。ならば何時くるか判らない災害よりも日々の暮らしにチカラをそそくのは当然なんだろう。だけど忘れてはいけない。気持ちの片隅でいいので常に心構えだけはしておくべきだ。そうすれば、いざ、その時が来ても行動できるはずである。
それは人の為でなくていい。まずは自分と家族の身を守るのだ。当然結果が伴わない事もあるだろう。だが、やらずに後悔するよりは全然マシなはずなのだ。俺は今回のやり直しでそれを学んだ。
そんな事を考えながら俺はその場で寝てしまった。多分緊張の糸が切れたのかも知れない。それとも、子猫とロクデナシ。両方を救う事が出来たという思いが俺の心に満足と達成感をもたらしたのだろうか。
そんな俺を見て驚いたのか誰かが大丈夫かと声を掛けてくる。だが、疲れきっていた俺には返事をするチカラも残っていなかった。でも俺は今幸せだった。俺はやり遂げたのだ。全体から見たらちっぽけな事かも知れないが、とにかくふたつの命を助ける事が出来た。うんっ、俺は満足だよ。これでもう思い残す事はない。うんっ、いい人生だったじゃないか。多分、仏様も褒めてくださるよ。
こうして、俺の意識は深い闇に落ちていった。いや、闇じゃないな。光に満ちた暖かいところだ。はははっ、まるで春の晴れた日の縁側にいるようだよ。
そして俺は暖かい春の陽射しの中、自分の家の縁側にて目を覚ます。
「ふぁ~。なんだ寝ちゃったのか。はははっ、俺もノラの事は言えないな。でもなんか素敵な夢を見ていた気がする。まるで今まで心に刺さっていた棘が抜けたような晴れ晴れとした気分だよ」
夢の内容は目が覚めると共に霧散してしまったが清清しい満足感だけは残った。そう言いつつも、何故か俺の目からは涙がこぼれる。
「あれ?なんだ?どうして俺は泣いているんだ?」
この涙は何に対する涙なのだろう?なぜ俺は泣いているんだろう?俺は自問するが答えは見つからなかった。でも何となくではあるが俺は判っていたのかも知れない。
過去の出来事はもうやり直せない。だけどこれからの事は如何様にも変えられる。だからひとしきり泣いたら涙を拭ってみな歩きだすのだ。でも時折思い出し、その事に涙するのを誰が責められようか。この俺の涙はそんな感情が色々と入り混じった熱い涙だったのかも知れない。
「う~んっ、どれ昼飯にするか。なんか気分がいいからノラにもご馳走してやるかな。確か、鮭の切り身がまだ残っていたはずだ」
そう言って俺は廻りを見渡すがノラの姿はなかった。
「おや?確か寝ちまう前はいたんだがな。ノラ~、どこだぁ。飯だぞぉ~」
だが幾ら呼んでもノラは姿を現さなかった。
◆◆別れ◆◆
その後、いなくなったと思ったノラは翌日には戻って来た。でも、その後も二日おきくらいにいなくなるを繰り返すようになった。まぁ、春だからな。どこかで雄猫と縄張り争いでもしているのかも知れない。でもあいつ、あんまり強そうには見えないんだが。大丈夫なのかね。
「ノラ、どこだ?」
今日もまた俺は家の縁側に腰掛けノラを呼ぶ。そんな俺の呼びかけに、鳴き声と共にノラが庭の生垣のしたからやって来た。
「にゃぁ~」
「おっ、そこにいたのか。飯時なのに来ないから心配したぞ」
「にゃあ~」
「なに、にゃあにゃあ鳴いているんだ?」
「プシーっ!」
「いや、猫的な威嚇をされても意味が判らんよ。言いたい事があるならちゃんと喋れ」
俺の言葉にノラは諦め顔でため息をついた。うんっ、最近ノラは益々猫らしくなくなってきたな。ため息をつく猫って、猫としてどうなんだ?
「ふぅ~、これだから空気を読めない人は駄目なんです。私がいくら別れのシチュエーションをお膳立てしてやってもぶち壊しますからね」
「別れ?なんだ、どこかに行くのか?」
「行きません。ただちょっとやってみたかっただけです」
「やってみる?あっ、お前もしかして昨日見た黒猫と魔女のアニメ映画の真似をしたのか?うわっ、中二ぃ~!」
「高倉兄ぃの映画を見た後、鏡に向かって『自分、不器用ですから』と呟いていた誰かと一緒にしないで下さい」
「ぐはっ!なぜそれをお前が知っている!しかも随分前の事を!」
うんっ、これは俺の黒歴史だ。でも、結構みんなやっていたと思うんだけどな。だって、かっこいいじゃんっ!
「そう思っているのはご自分だけだと思いますよ。形だけ真似たって所詮は猿真似。生き方に裏打ちされた重みが全く感じられません」
「なぜお前は俺の心の声を聞けるんだっ!」
「ちょっとカマを掛けただけです。ご主人、チョロ過ぎますね」
「ぐはっ、猫にチョロいと言われてしまった・・」
「まぁ、こう見えても私は猫としては色々な経験を積んでいます。故に某国営放送のCGキャラクターにだって叱られません。ぼーっと生きていませんから」
「お前、本当にテレビが好きだな。でもあの番組も長いよな。今のって何代目になるんだ?」
「確か、5代目かと。後、テレビに関してはそうですね。真田丸が終わった時にはちょっとロスりました」
「何時の話だ。それってもう何十年も前の話だろう?」
「再々放送で観ました。DVDを持っているお宅も知っています。でもあの方、もう何年も見ていないようなので貰ってきて差し上げましょうか?」
「いや、お前が観たいんなら買ってやるから人様に迷惑をかけるな」
「あっ、でしたら101匹猫ちゃんのアニメDVDの方でお願いします。あれってどこのお宅を探しても持っているところがないんです。それにアニメなら、お孫さんからの株も上がりますよ」
「あーっ、未来には、あんまり買ってやると娘がいい顔しないんだよな。物で釣るんじゃないって怒るんだよ」
「中々しつけの行き届いた娘さんじゃないですか。普通はじいさん、ばあさんにたからせるものですよ」
「お前は世間の母親を何だと思っているんだ」
「世間には鬼嫁という言葉もありす。まぁ、この言葉も最近は耳にしませんけどね」
「んーっ、まぁ人にはそれぞれ事情があるんだよ。だからアニメDVDはレンタルで我慢してくれ」
「なら観るのはお孫さんが学校に行っている時にして下さい。あの子、やたらと私を弄繰り回すので困っているんです」
「はははっ、まぁ、あの年頃にとって猫は玩具みたいなもんだからな。俺からも注意しておくよ」
そう言いながら俺は大きなあくびをした。
「ふぅっ、しかしなんだな。なんか最近無性に眠たいんだよな。春だからかなぁ」
「歳なんでしょう」
「猫の基準で話をするな!現代の人間様は長寿命なんだよ!俺はやっと年金を貰えるようになったばかりだっ!」
「はいはい、働き方改革ルネサンスでしたか?精々死ぬまで一生懸命働いて下さい」
「なんで年金を貰える歳になったのに働かなきゃならないんだ!俺はこれから悠々自適なシルバーライフを満喫するんだっうの!」
「ほうっ、例えば?」
「えっ?あーっ、そのなんだ。色んなところへ旅に出たり、美味しいものを食べたり、地域のボランティアに参加したりとかさ。まぁ、まだ具体的になにをするかは決めていないけど・・」
「そう言いながら縁側で昼寝とは、あなたも所詮私と変わりませんね」
「くーっ、居候理猫風情と一緒にされてしまった・・。まぁ、確かにこの頃は気を抜くとすぐに寝ちゃっているな」
「何の心配もなく寝れるのは幸せな事ですよ。というか、それこそ悠々自適なシルバーライフでしょう」
「うっ、そうかなぁ。確かに昔ほど何かをやりたいって気持ちはなくなってきているかも知れない」
「モチベーションの低下ですね。仕事を引退された方が陥りやすいそうです」
「そうかぁ、俺は別に仕事は嫌いじゃなかったが、そんなに好きでもなかったがなぁ」
「生きる為に仕方なくやっていたからじゃないんですか?でも周りの方々に支えられて何とかこなしていたから不満もなかっただけかと」
「お前はどこぞの精神科医かっ!俺の言葉だけで推論すんなっ!こう見えて俺だってがんばったんだぞ!」
「ええっ、それは知ってますよ。だから私はここにいるんです」
「なんのこっちゃ。お前がいるのは俺に擦り寄って飯を貰う為だろう?」
「食こそは生きる為の糧ですからね。あっ、『職』と置き換えた方が、人間社会にはしっくりきますかね?」
「お前は本当に言葉遊びが好きだなぁ」
「頭を使っているとボケないそうですよ。ご主人も気をつけた方がいいです。最近物忘れが多いでしょう?」
「えっ、そうなのか?んーっ、自分では気付かないなぁ」
「娘さんが心配していますよ。この頃よくひとりでぼーっとしているって」
「そうなのか?どうなんだろう。でも確かにこの頃はよく昔の事を思い出すよ」
そう言うと老人は膝の上に猫を乗せ、撫でながら空を見上げた。そこには小さい白い雲が漂っていた。しかし、暫く見ていると雲は次第に薄くなりとうとう消えてしまった。
その時、猫を撫でていた老人の手が止まる。猫が顔を上げると、そこには目を閉じ首を下に垂らした老人の顔があった。遠めには猫を膝に乗せ日向ぼっこをしていて眠ってしまったように見えたであろうが、老人はもはや呼吸をしていない。そんな老人に猫が声を掛けた。
「グッバイ・マイ・マスター。あなたの腕の中は大層居心地が良かったけど時間切れです。だからこの次生まれ変わった時も、そのままのあなたでいて下さい」
そう言うと猫は老人の膝の上で丸くなった。そんな光景を家の奥からやって来た幼い女の子が見つける。
「ママぁ~、おじいちゃん、またお外で寝ちゃってるぅ~」
「あら、そうぉ。でも今日は暖かいからそのままにしておいてあげてね」
女の子の声に奥から母親らしき女性の声が答えた。
「あっ、いつもの猫ちゃんだ!もうっ、おじいちゃんにしか懐かないんだもんっ!私だって触りたいのにっ!」
「猫ちゃんもいるの?でも、引っかかれるから触っちゃ駄目よ」
「はぁ~い!」
そう言うと女の子はまた部屋の奥へと消えていった。この幼い女の子は幸いにも老人が経験したような災害は経験していない。いや、娘も同様だ。しかし、だからと言ってあの後の世界が平穏だった訳ではない。だが老人の懸命な庇護の下、この一家は幸せに暮らしてきた。あの後、老人にとってはその後に出来た家族を守る事が使命であり喜びであった。全てを無くしてゼロからの再出発であったが、それは新たな家族がいたからこそ耐えられたのであろう。そして今、最後の棘も取れた。故に老人にはもう思い残す事もなかったのかも知れない。
春の暖かな日差しの中、猫を膝に抱いて老人は眠りに付く。もう二度と目覚める事はないであろうが、老人の表情は穏やかであった。それは、いつも心の片隅に刺さっていた後悔の念が漸く溶けた為であろうか?いや、それは老人にとってはひとつの鋭い棘であったであろうが、人生とはそれだけではない。様ような出来事が複雑に絡み合って形作られているのだ。失敗も成功もそれらのひとつでしかなく、老人はそれらを自らのチカラでやり直し、または勝ち取ってきた。しかし、どうしてもやり直せない事があった。それが今回、夢とは言えやり直せた。その満足感は老人にとって何物にも代えられないものであったのだろう。
春の暖かな日差しの中、猫を膝に抱いて老人は眠りに付く。猫もそこを動こうとはしない。いつしか、猫はあの子猫の姿になっていた。そんなひとりと一匹を春の日差しは何時までも暖かく照らしていたのであった。
-完-