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車
僕には大した設定がない。
主人公と呼ぶには盛り上がりがなく、悲劇のヒロインにしては平和的。
そんな人生を送るような人間にも、この世界では思考力が与えられる。
平等ではあるが、理不尽だ。
運転中に考えることではないが、きっと運転中以外には思いつかないことだ。
もしくは、この雨音のせいかもしれない。
または、この都会ではないが田舎すぎるわけでもない景色がそうさせたのかもしれない。
どのみち、目の前の信号機が赤に変わった以上、僕は止まるしかない。
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横の窓を見た。
そこには傘を閉じ、控えめに腕を広げて天を仰ぐ人がいた。
その表情には、絶望、諦め、安堵、逡巡、勇気、葛藤が見えた。
もしあの人が主人公だったら、その物語は佳境に差し掛かっているのだろう。
大きな失敗、敗北を経験し、今新たに進み出すところなのだろう。
もしあの人が悲劇のヒロインだったら、きっとまだ序章だろう。
その物語は、当人も予想しなかった方法で、誰も考えられなかった結末に行き着くのだろう。
もしあの人が脇役だったら、主要なキャラにとっての小さな非日常として印象を残すだろう。
何にせよ僕が人生で一度も雨の中で傘を閉じようとしたことがない以上、あの人は背景である自分とは次元が違うのだ。
それでも、信号機が青になった以上、僕は走るしかない。
カーブミラーを覗くと、それは雨に濡れていて何も見えなかった。
何も特別な期待はしていないが、当たり前に後ろが見えると思っていたせいで落胆した。
僕には後ろという概念がないのかもしれない。
これは確実に、運転中にしか思いつかないことだ。