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1.篝火の里
山の麓に寄り添うように広がる|篝火《かがりび》の里は、古より怪異の絶えぬ土地であると同時に、灯籠の光に護られた町として知られていた。毎年、盆の時期になると千を越える灯籠が川沿いに並べられ、夜を昼の如く照らし出す。その光景はまるで亡き人々の魂が帰る道を示すかのようであり、里人はそれを「帰り灯」と呼んだ。
|水無瀬《みなせ》|千尋《ちひろ》は、その灯籠の一つを両の手で抱えながら、石段を登っていた。まだ昼下がりの日射しが残るが、山の影は早くも冷え、彼女の頬を撫でていく。
「…重いなぁ」
小柄な体には少し大きすぎる木枠の灯籠を抱えながらも、千尋は息を切らすことなく歩みを進める。背中で揺れる布袋には墨と筆、そして小刀。灯籠に貼るための札を記す道具だ。
やがて辿り着いたのは、篝火神社の境内だった。朱塗りの鳥居をくぐると、澄んだ鈴の音がどこからともなく響いた。
「お戻りですか、千尋殿」
拝殿の前で掃除をしていたのは宮司の|暁真《あきま》だった。三十半ば、黒髪をきちんと束ね、白衣に浅葱の袴をまとったその姿は、どこか厳しさを保っている。
「はい。祖母から預かってきました。新しい灯籠です」
千尋は笑顔で灯籠を差し出す。暁真は受け取ると、しばし彼女を見つめ、静かに頷いた。
「ご苦労だったな。…しかし千尋、左目を隠すのを忘れているぞ」
「あっ」
思わず頬を押さえる千尋。布で隠していたはずの左目が、いつの間にか風にめくれていた。瞳の奥には常人には見えぬ淡い光が宿っている。
千尋の片目は、幼い頃の出来事で「異形を見る力」を宿してしまった。それ以来、彼女は人には見えぬものを度々目撃するようになった。
「…見えてしまうんです、また」
俯いた声に、暁真は少しだけ目を細めた。
「恐れることはない。むしろお前にしかできぬ役目もあるだろう」
その時だった。境内の隅、灯籠の影に黒い影が揺らめいた。千尋の左目にだけ、どろりとした形を持たぬ何かが映る。
「宮司さま…!」
千尋が声を上げた瞬間、影は伸び、灯籠の光を覆い隠そうとした。
暁真は咄嗟に祝詞を唱え、御幣を振りかざす。白い紙垂が空気を裂き、影はじゅっと音を立てて退いた。だが完全には消えない。千尋の胸がざわつき、思わず一歩踏み出した。
「──退きなさい!」
小刀を抜き、携えていた札に墨を走らせる。「鎮」の一字を強く書き、影へと突き出す。札がふわりと光を帯び、影は悲鳴のような音を立てながら霧散した。
境内に再び静けさが戻る。息を荒くした千尋の肩に、暁真が手を置いた。
「よくやった。…だが無茶はするな」
「はい…でも、放っておけなくて」
千尋の左目には、まだ淡い光が残っていた。
その光景を、境内の木々の上から見下ろす影があった。長い尾を揺らす狐の妖──朱雀丸である。
「ふん、面白い娘だ。あれなら…退屈はしなそうだな」
金色の瞳が、静かに笑った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
稚拙ではありますが、「千の灯籠─ちはやぶる夢語り─」、ぜひ最後までお楽しみください。