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沫
朝、机の中に紙くずが詰められていた。
開けた瞬間、ぐしゃぐしゃに丸められたノートの切れ端がぼろぼろとこぼれ落ちる。開いてみると、そこには太いペンで書かれた言葉。
《ブス》
《調子に乗ってる》
《気持ち悪い》
心臓がドクンと跳ねた。
教室のどこかで笑い声が聞こえる。
凪のグループの一人がこちらをちらりと見て、口元を押さえて笑っていた。
優月は、その手紙を何も言わずに握りしめ、カバンの奥底に押し込んだ。
先生に言おうとも、家族に見せようとも思わなかった。
誰かに話して、それで何かが変わるとは思えなかったから。
***
昼休み。図書室。
優月は、普段よりも早く席についた。教室にいるのが怖かった。
自分の存在が、空気よりも薄くなっていくようなあの空間が。
「白崎さん、こんにちは」
その声に、胸が少しだけあたたかくなった。
浅川駿だった。
本を両手に持って、静かに立っていた。
「あ……こんにちは」
うまく声が出なかった。
でも、駿は気にした様子もなく、いつものように笑った。
「この間言ってた、詩集……これ、読んだことある?」
そう言って差し出されたのは、銀色の表紙に小さな文字でタイトルが書かれた詩集だった。
『光の泡沫(うたかた)』
手に取った瞬間、表紙の手触りが心を包むように優しかった。
「読んだこと……ない。ありがとう」
ページをめくると、ふと気になる一節が目に入る。
『誰にも見えない声を、君はいつも、心の奥で聴いている』
その言葉が、自分のことを指しているような気がした。
駿が、優月の様子をそっと見ていた。
「白崎さん、なんか……元気ないように見える。……大丈夫?」
優月は、首を振った。
言葉にしてしまえば、すべてが壊れてしまいそうだった。
「……なんでもない。ちょっと、疲れてるだけ」
「……そっか。でも、あんまり無理しないでね」
その優しさが、胸に刺さる。
「大丈夫だよ」と言えない自分が、恥ずかしかった。
自分は浅川くんと話している。
きっとまた、あのグループの誰かが、どこかでそれを見ている。
そう思うと、安心と不安が同時に胸に湧きあがった。
***
放課後、靴箱に向かうと、上履きがなくなっていた。
代わりに突っ込まれていたのは、ぼろぼろのスニーカーだった。
赤いペンで大きく《泥棒女》と書かれている。
——あぁ
悟るしかできなくて。
ひざがガクンと崩れそうになった。
靴箱の周囲には人はいない。
けれど、視線だけは感じる。
背後で凪の声が聞こえた。
「……かわいそう。上履き、どこ行っちゃったんだろうね?」
見えない悪意。
けれど、それは確かに凪の口から放たれていた。
「凪……なんで……」
振り返っても、彼女はもう背を向けていた。
歩きながら、グループの子たちと笑い合っている。
視界がぼやけた。
涙が出る直前で、優月はそれを奥に押し込んだ。
泣いたら負けだと思った。
泣いたら、本当に「いじめられてる」と認めることになる気がして。
***
その夜、机の上に置いた詩集を開く。
あのとき、浅川くんが言っていた。
「白崎さんに合ってる気がする」
自分のどこが? と、思ったけれど——
今は、その意味が少しだけ、わかる気がした。
誰にも見えない声。
誰にも届かない叫び。
それでもページをめくる手は止まらなかった。
紙の匂いと、言葉のぬくもりが、唯一の救いのように思えた。