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プロローグ 明光堂の沈黙と黄金の一滴
「こんにちは」
カラカラと引き戸を開けて入ってきたのは、|お太鼓《おたいこ》をきれいに結った女性だった。
着物の上には、レースの縁取りがついた薄手のチリ除けコートを羽織っている。首元からのぞく|半襟《はんえり》の白が、彼女の丁寧な暮らしぶりを物語っていた。買い物籠を腕にかけ、草履の音を控えめに響かせてカウンターへ進む姿には、どこか凛とした落ち着きがある。
「鈴木さん、こんにちは」
「あらぁ、|朱里《あかり》ちゃんじゃない。高校は?」
「今日は土曜なので、午前授業だったんですよ」
「そうだったわねぇ。うふふ」
店を一歩外に出れば、そこには|喧騒《けんそう》とは無縁の静寂な邸宅街が広がっている。政治家や企業の経営者が居を構える高級住宅街と、ありふれた庶民的な街。その境界線に、薬屋『|明光堂《めいこうどう》』は|佇《たたず》んでいた。
明光堂は、街の人々の心が休まる休憩場所のような存在だ。それは、薬屋という特殊な空間が織りなす魔法なのかもしれない。生薬特有の少し苦いような匂い。文字が|霞《かす》みかけた古い薬看板。それらが、どこか親しみやすく客を迎え入れるのだと朱里は思う。
「そういえば、|鈴音《すずね》ちゃんは?」
「姉さんなら奥に」
朱里が応じると、カウンターの奥で在庫管理をしていた姉の鈴音が姿を現した。鈴木さんの顔を見るなり、鈴音の唇に穏やかな微笑みが浮かぶ。
「こんにちは、鈴木さん」
「こんにちは。鈴音ちゃん、薬大の調子はどう?」
「順調ですよ。父のような薬剤師になるため、日々頑張っています」
鈴音が通う大学には薬学科があり、彼女は将来、父の跡を継ごうと考えていた。
家業は長男が継ぐものという風潮が強かったため、女性の跡取りはあまり良い顔をされないこともあった。
しかし、鈴音の真剣な振る舞いに触れ、最近では応援してくれる人も増えていた。
「でも、姉さんはいいところのお嫁さんにでも行けるでしょ」
朱里が少し茶化すように言うと、鈴音は困ったように「そうかしら」と首を傾けた。
「そうよ、鈴音ちゃんは|別嬪《べっぴん》別嬪さんなんだから」
鈴木さんの言葉に嘘はなかった。鈴音の容姿は街の誰もが認める美女で、背は同年代の女性と比べても頭一つ分ほど高い。|高嶺《たかね》の花のような凛とした美しさと、春の陽だまりのような温かさ。そんな相反する魅力を、彼女は併せ持っていた。
今日の服装は洋服で、柔らかなボウタイブラウスの襟元と、たっぷりとしたフレアスカートが、鈴音の穏やかな表情を引き立てている。彼女が歩くたびにスカートは優雅な弧を描く。
「鈴木さん、お茶を出しますよ。ほうじ茶、淹れたてなんです」
「あら、いいのよ。買い物帰りにちょっと寄っただけなのよ」
「そうだったんですね。重そう……、表まで送っていきますよ」
「大丈夫よぉ。……実は最近、父の容態が少し思わしくなくて、介護につきっきりなの」
鈴木さんの父親の体調が悪いことは、処方されている薬の種類から朱里も薄々感じていた。だが、介護が必要なほど悪化していたとは初耳だった。
「それは……大丈夫ですか。鈴木さんも無理をしすぎないようにしてくださいね」
鈴音はおっとりと心配そうに眉を下げ、手で頬を支えながら顔を傾けた。こうした|所作《しょさ》の一つひとつに、姉の性格が出ていると朱里は思う。相手を気遣う絶妙な距離感。意図的ではなく、無意識にやってのける。それは、朱里が自分には欠けていると自覚しているものだった。
鈴木さんは「ありがとうね」と手を軽く振りながら、明光堂を後にした。
朱里は、鈴木さんが残していった余韻――わずかな線香の匂いと、買い物籠から覗いていた不自然なほど大量の『氷砂糖』の袋――を、少し苛立ち混じりの視線で見送っていた。
鈴木さんが店を後にしたあと、鈴音はカウンターの奥から妹の様子を覗き込んだ。
「朱里、何か嫌なことでもあった?」
「……姉さんには関係ない!」
「関係あるわよぉ。お姉さんの大切な朱里ですもの」
「姉さんが原因だから言ってるのよ!」
朱里が苛立っているのは、ほんの些細なことだ。今日の鈴音の服装――すらりとした長身を強調するフレアスカート――は、隣に立つ朱里の小柄さを残酷なほど際立たせていた。朱里は同年代の女性と比べても背が低く、それを深刻なコンプレックスに感じていたのだ。
「私、カウンター雑巾で拭くから、どいて!」
朱里はまるでゼンマイ仕掛けの精巧な人形のように、せわしなく立ち働き始めた。小柄な体躯をさらに小さく丸めて、カウンターの隅々まで執念深く磨き上げる。
一見すると愛らしい少女だが、その眉間には常に、険のある小さな皺が寄っている。父の予備の白衣を借りて着れば、その裾はどうしても膝の下まで届いてしまう。
(姉さんなら、きっと誂えたみたいにちょうどいい長さなんでしょうね!)
朱里は心の中で毒づきながら、白衣の袖を肘まで乱暴に捲り上げた。カツカツと小気味よい音を立てて板の間を歩く姿は、まるで戦場へ向かう小動物のような勇ましさがある。
ぱっちりとした瞳は、誰かの不始末や埃一つも見逃さないと言わんばかりに、鋭く光を放っていた。
「ごめんなさいね、朱里」
「別にっ!」
(天性で持っているものを謝られても、余計に腹が立つだけよ!)
朱里が心の中で叫んでいると、鈴音が申し訳なさそうに手を合わせた。
「お姉さん、これから大学の研修があるの。しばらく受付をお願いしてもいいかしら?」
「……わかったから、早く行ってきて!」
「はーい、行ってきます!」
鈴音はうふふと、春の陽だまりのような笑みをこぼした。それは、朱里の怒りもいつかは収まるだろうと、深い包容力で見守っているようでもあった。
◆◆◆◆◆◆
姉の背中を見送ったあと、朱里は苛立ちを鎮めるように茶筒を手に取った。
誰にともなく「ったく、手が焼けるんだから」と毒づきながら、彼女はほうじ茶を淹れる準備を始める。指先が刻む正確なリズムと、店内に広がり始めた芳醇な香ばしさが、彼女の尖った心を少しずつ解きほぐしていくようだった。
「やっぱり! お客さんの対応は疲れるわ!」
吐き捨てるように独りごちながら、朱里は手早く、入荷したばかりの薬箱を棚に並べていく。日頃から店を手伝っている彼女にとって、たとえ感情が昂っていようとも、この程度の作業は朝飯前だった。
しかし、背後から投げかけられた低い声に、その手が一瞬で凍りついた。
「やはり、疲れるものなんだな」
「っえ? あ、あの……?」
慌てて振り返ると、そこには見知らぬ青年が立っていた。いつの間に店に入ってきたのか、足音一つしなかったことに朱里は戦慄する。それと同時に、今までの怒りが一気に引いていくのを感じた。
「もしかして、さっきの独りごと……聞こえていました?」
「あぁ」
肯定の言葉が脳裏で繰り返される。恥ずかしさと、それを平然と指摘されたことへの反発。次の瞬間、朱里の怒りメーターが再び跳ね上がった。
「だったら! 何か言うことはないんですか普通!」
「……? お疲れ様」
「なんで疑問形なんですか! 全然心がこもってない!」
街の人々は、明光堂には「鈴音と朱里」がセットで居るものだと思い込んでいる。だから朱里がどれだけ「話しかけるな」というオーラを出していても、構わず話しかけてくるのだ。
先ほどの鈴木さんは良い人なのだが、生憎と今は一人になりたかった。苛立ちをぶつけるように朱里がカウンターを叩くと、積み上げられた薬箱が崩れ、角が乾いた音を立てて床に落ちた。
「机を叩くな。薬が傷つく」
「会話を……放棄するような人には、言われたくないです!」
「……」
「何か言ってくださいよ!」
(本当にもう、気遣いの欠片もないんだから!)
それから朱里がどれだけ捲し立てても、青年は無表情のままだった。単なる無愛想とは違う。それは、相手がどれだけ騒いでも決して眉を動かさないよう訓練された、鉄壁の自制心のようにも見えた。
やがて、散々に怒鳴り散らして少し冷静になった朱里は、猛烈な後ろめたさに襲われた。
(初対面の人に、私ったらなんてことを……)
「……あの、すみません。姉と違って、可愛げがなくて」
「……? 姉とは何だ」
「知らないんですか? 鈴音ですよ。街で一番の別嬪さんの」
改めて男の装いに目をやると、淡い水色のシャツは繊細なオックスフォード地で、襟のボタンを留める糸一本に至るまで、丁寧な手仕事が感じられた。
(多分、あっち側の人なんだろうな……)
装い自体は素朴だが、選ばれている生地がまるで違う。となると、この界隈で有名な姉のことを知らなくても無理はないかと、朱里は一人で納得した。
「あの、今さらですがお名前は?」
「……はぁ。教えないといけないか」
「はぁ!? なんですか! 名前くらい教えてくれたっていいじゃないですか!」
(本当に、いい家の人なんですかね!? 礼儀とかマナーとか、そういうのはどこに置いてきたんですか、この人は!)
そんな朱里の怒りを汲み取ったのか、男はようやく重い口を開いた。
「|蒼真《そうま》だ」
「……そう、ですか」
「……どうした?」
「いえ、あまりにもあっさりだったので」
蒼真という男は、朱里が思っているよりも案外、素直な|性質《たち》なのかもしれない。
(今まで忘れていたけれど、一応この人、お客さんよね……)
鈴音なら、相手の好みに合わせた茶葉を選び、最適な温度と早さでお茶を出していただろう。
(姉さんみたいに、頑張るのよ、朱里……)
たとえ、こんな礼儀知らずな相手であっても。そう心の中で付け加えながら、朱里は茶筒を手に取った。
「お茶、出します」
「どうして、そんなに嫌そうな顔なんだ」
「はいっ? これでも精一杯、頑張っているんですけど!」
普段は短気で苛立ってばかりの彼女だが、お茶を淹れる準備を始めると、その指先は薬剤師の娘らしい正確な動きを見せる。鉄瓶の湯を湯呑みに注ぎ、器を温める。その一連の動作だけは、鈴音のそれにも引けを取らない美しさがあった。
(意外だなぁ……)
名前を尋ねれば素直に答え、お茶を出すと言えば大人しく待つ。その拍子抜けするような蒼真の反応に毒気を抜かれながらも、朱里は「わかりました」と短く応じた。
「ったく、手が焼けるんだから」
誰にともなく毒づきながら、朱里は使い込まれた水屋(食器棚)から茶筒を取り出した。彼女が選んだのは、上質な茎茶を贅沢に|焙《ほう》じた、香りの強いほうじ茶だ。
朱里は小柄な体に見合わないほどキビキビとした動作で、まずは鉄瓶の湯を湯呑みに注ぎ、器を温め始めた。これは彼女が幼い頃から叩き込まれた、客をもてなすための、あるいは自分自身を落ち着かせるための儀式でもある。
「……よし」
小さく呟くと、彼女は茶筒から茶葉をひとつかみ掬い取った。焙じられた茶葉は、秋の落ち葉のように乾いた音を立てて急須に収まる。
朱里の細い指先が、茶葉の量を秒単位で測る薬剤師のように、迷いなくその分量を決めていく。一度湯呑みに移して適温――およそ九十度まで冷ましたお湯を、急須へと静かに注ぎ入れた。
直後、熱を帯びた茶葉から、香ばしくもどこか甘い、特有の香りが立ち昇った。生薬の匂いが染み付いた店内の空気が、一瞬で温かな夕暮れの色に塗り替えられていく。
「三十秒……二十九、二十八……」
朱里は眉間に寄った皺をそのままに、心の中で正確に時間を刻みながら、急須の蓋をじっと見つめていた。
その横顔には、普段の刺々しさは消え、処方箋と向き合う時のような真剣さと、無意識の慈愛が混じり合っている。
やがて彼女は、最後の一滴――「黄金の一滴」と呼ばれる最も濃厚な部分までを、リズムよく左右の湯呑みに注ぎ分けた。
「はい、お待たせ。熱いうちに飲みなさいよ」
ぶっきらぼうに差し出された湯呑みからは、彼女の苛立ちを優しく包み隠すような、深く、芳醇な湯気がゆらゆらと立ち昇っていた。
「おいしいな」
「……まぁ、私が淹れましたからね」
不意を突かれた称賛に、朱里はぶっきらぼうに返した。すると、蒼真が不思議そうに首を傾げる。
「なぜ、口元がむずむずしているんだ?」
「えっ?」
朱里が短く呟くと、蒼真は近くにあった鏡を指差した。鏡の前で自分の顔を確認すると、確かにそこには、今にも笑みがこぼれそうな、嬉しさを隠しきれない自分が映っていた。
(あぁ……私、褒められて嬉しいんだ)
不覚にも自覚してしまい、朱里は照れ隠しを込めて、にこっと蒼真と視線を合わせた。
「あっ、すみません。ずっと立たせたままにしていましたね」
朱里はカウンターの裏から折り畳み式のパイプ椅子を取り出し、手際よく広げた。その椅子は小柄な朱里にちょうど良いサイズ感で、背の高い蒼真が座るには、少し窮屈そうに見えた。
「すみません、小さいですよね」
「いや、問題ない」
椅子に座る際、蒼真は決して背もたれに体を預けなかった。膝を揃え、指先を軽く重ねるその姿は、周囲の騒がしい街の雑踏から彼だけを切り離し、どこか古い邸宅の応接間にいるかのような錯覚を抱かせる。
それから、淹れたてのほうじ茶がなくなるまで、二人は他愛もない言葉を交わした。
「それじゃあ、行く」
「何か予定でもあったんですか?」
「長居をするのは、悪いからな」
(変なところで礼儀正しいんですね、この人は……)
朱里が少し見直しかけた、その時だった。
「俺のことを、表まで送らないのか」
「はぁっ!? はい? それ、自分で言いますか、普通!」
前言撤回。やっぱり、この人は無礼すぎる。朱里の眉間に、本日何度目かわからない鋭い皺が刻まれた。
◆◆◆◆◆◆
鼻歌まじりに「ふふん」と機嫌よく、朱里は明光堂の掃除を続けていた。やがて、カチンと小気味よい音を立てて扉が開いた。
「姉さん、おかえりなさい!」
「ただいま。あら朱里、何かいいことでもあった?」
店に入るなり、鈴音は妹の隠しきれない上機嫌さを敏感に察知して、小首をかしげた。
「別に。……お茶、何がいい?」
「ありがとう。そうね、ほうじ茶がいいわ」
「また?」
不意に漏れた独り言のような朱里の言葉を、鈴音は聞き逃さなかった。
「あらまぁ」と、鈴音は妹に春が巡ってきたのかしらと、楽しそうに目を細めて微笑んだ。
(さっきまであんなに機嫌が悪かったのに、お茶を二人分淹れた形跡があるわ……)
鈴音の視線は、カウンターに残された二つの湯呑みの跡を捉えていた。朱里はそんな姉の視線に気づくこともなく、再び「黄金の一滴」を落とすべく、正確な手つきで茶筒に手を伸ばした。
長いのに最後まで、読んでいただきありがとうございます。