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時間の迷子屋
朝起きたら7時12分。あと30分で家を出なければならない。余裕なんてないのに、目覚まし時計をじっと見つめる。セットされた痕跡もなければ、昨日の夜にセットした記憶もない。
時計を放り出してベッドから転がり落ち、そのままの勢いでクローゼットを開ける。二番目に気に入っているパーカーとジーンズを引っ掴み、超特急で洗顔、メイク、ヘアセットを終えた。
結局、予定より一本遅い電車に飛び乗り、大学へ向かう。
改札を出ると、銀杏並木が連なる大きめの歩道に出た。そこを真っ直ぐ歩き、曲がった先に大学はある。小走りで先を急ぐ私を、周りの人はきっと「一限に遅れそうで必死な哀れな学生」として見ているのだろう。
けれど走った甲斐もあり、無事に一限に滑り込んだ。そこから午後の講義まで全てを終え、駅までの道をゆっくりと歩く。
ふと、好きな作家の新刊が発売されたことを思い出した。私は駅へ続くルートを外れ、一番街へ続く細道を歩き出す。
その途中、一軒の店に目が惹きつけられた。玄関先にはたくさんの鉢植えが置かれている。けれど、きちんと手入れされ見栄えも考えられているのだろう、所狭しと並ぶ植物たちを見ても、散らかっているという印象は全くなかった。深い緑と深い青色を基調とした外装。店の看板には「時間の迷子屋」と書いてあり、ドアには「OPEN」の文字。どんなに考えても看板の意味はわからなかった。普段の私なら気になったとしても絶対に素通りしていただろう。けれども今日は、何かに挑戦して、何かを吹っ切りたいという曖昧な衝動があった。
私はドアに手をかけ、少し小さな声で「こんにちは」と言いながら店の中へ足を踏み入れた。 店の中は外ほど物に溢れてはおらず、二人掛けのソファが二つ対面で置かれ、その間にローテーブル、正面にカウンターがあるだけだった。壁には洒落たポスターが良い塩梅に貼ってあり、物が少なくとも寂しさを感じることはない。
カウンターの前に立ち、備え付けてあるベルを鳴らしてみる。その奥には分厚そうな扉があった。特に用もないのに店に入り、ベルまで鳴らすなんて、冷やかしだと言われても否定はできない。けれど、なぜか惹きつけられてしまう引力のようなものがこの店にはあった。 ベルを鳴らしてから三分ほどして、奥の扉から男性の店員が出てきた。その店員は私に一瞥をくれると、「そこに座っていてください」と、ボソボソと聞き取れるギリギリの声量で言い、また扉の向こうへ引っ込んでしまった。
愛想の欠ら片もない接客態度に困惑しながら、ソファの真ん中に浅く腰掛ける。 五分ほど経っただろうか。店員は片手に二人分のコーヒーとミルクを乗せたトレーを持ち、私の向かい側のソファにドスンと深く腰掛けた。コーヒーの一つをこちらによこし、ミルクと私を交互に見やる。
「大丈夫です」
私は首を振りながら、ブラックのままコーヒーに口をつけた。店員はミルクを多めに注ぎ、一口飲んでからやっと口を開いた。
「今日、寝坊でもしたんですか」
唐突に発せられたその言葉を瞬時に理解できず、私は何秒か彼の目をじっと見つめてしまった。はっと我に返り、メイクでも失敗しているのだろうかと心配になりながら、正直に
「はい」と答える。すると店員は少し頷き、またカウンターの奥へと引っ込んでいった。
その隙にコンパクトミラーを取り出し、自分の顔を確認する。特にメイクがよれているわけでも、信じられないくらいぐちゃぐちゃなわけでもない。普段通りの自分の顔だ。
なら、なぜあの店員は今朝の寝坊を見抜いたのか。どれだけ観察眼が鋭いんだ、ここまでくると変人の領域じゃないかと心の中で毒づきながら、私はコーヒーを飲み干した。
音もなく扉が開いた。戻ってきた彼の手に握られていたのは、手のひらよりほんの少し大きいくらいの箱。彼はそれを私の目の前に置いた。
「1200円です。買ってみてください」
ここ、物を売る店だったんだ、と心の中で突っ込みながら商品を手に取る。パッケージには『目覚ましゴーレム これで寝坊の心配もなし!』と書かれていた。目覚まし時計なのか、時計機能があるかすら怪しい、よくわからないシロモノだった。
けれど、これを買わずにコーヒーだけもらって出ていくのも冷やかしのようで申し訳ない。
私は1200円のコーヒー代だと思って、それを買って帰ることにした。もちろん、それほど価値のある味だったわけではない。ごく普通のコーヒーだった。それでもここまで自分に言い訳をして財布を開いたのは、少なくとも、その奇妙な目覚ましに興味を惹かれていたからだろう。
お金を支払い店を出ても、まだ太陽は明るく街を照らしていた。けれど私は、本来の目的だった本屋に向かうわけでもなく、駅に向かって歩き出していた。
早く、この目覚ましを使ってみたい。
そんな奇妙な期待を胸に抱きながら、私は狐につままれたような気分で「時間の迷子屋」を後にした。