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浅倉家の血筋
「鈴音、朱里。ただいま」
「おかえりなさい、お母さん」
つい先ほどまで、簡易的な折り畳み式のパイプ椅子を出し、カウンター越しにほうじ茶を飲んでいた鈴音と朱里は、突然の母の帰宅に驚きながらも、背筋を伸ばして挨拶を済ませた。
「お母さん、今日はどちらへお出かけだったの?」
「あら、そういえば今朝はバタバタしていたから、まだ話せていなかったわね」
今朝の母の装いは、いつもの実用性しか考えていない洋服とは、明らかに一線を画していた。
纏っているのは、地紋の入った最高級の色無地。色は「灰桜」や「柳鼠」といった、落ち着いた中間色だ。一見すると地味にも見えるが、光の当たる角度によって絹特有の柔らかな光沢が浮き上がり、母の肌をいっそう白く美しく見せている。
それだけではない。帯や小物に至るまで、細部へのこだわりが徹底されていた。
帯は、控えめな金糸を使った贅沢な綴織。派手な吉祥文様ではなく、季節の花が一点、職人の手で繊細に描かれたものを選んでいる。帯揚げや帯締めは着物と同系色でまとめられ、アクセントとして添えられた小ぶりな白珊瑚と真珠の帯留めが、慎ましくも確かな気品を放っていた。
近所のママ会へ行くような格好とは、明らかに違う。それは、対等な友人との交流ではなく、もっと「改まった、あるいは緊張感を伴う場所」へ、家の顔として赴くための装いだった。
「お父さんの血筋が、かつて高貴な家柄だったことは知っているわよね」
お茶を一口すすった母が、世間話でもするように切り出した。朱里はあからさまに肩をすくめて応じる。
「当たり前でしょ。耳にタコどころか、薬草が生えるくらい聞かされてるわよ」
父の生家・浅倉家は、戦後直後まで爵位を持っていた元貴族だ。曾祖父は男爵で宮中行事の常連だったというが、今の朱里にとっては、奥の蔵でホコリを被っている家紋入りの銀食器や、得体の知れない皇室からの下賜品くらいしかその証拠がない。
華族制度が廃止されて久しいが、父の丁寧すぎる言葉遣いや無駄に良い姿勢には、選ばれた人間としての「面倒なプライド」がべったりと染み付いていた。
「それでね、お父さんは次男坊だったから、本家は伯父様が継いだの。お父さんが私と結婚して家を飛び出すとき、本家から土地と資金をむしり取って……あ、失礼。分けてもらって構えたのが、この明光堂なのよ」
「今、さらっと本音が出たわね。で、それがどうかしたの?」
母は、鈴音によく似た「うふふ」という笑みを浮かべ、朱里を少し茶化すように首を傾げた。この、相手を煙に巻く空気を作るのが、母は実に上手いのだ。
「まぁ、いわゆる私たちは『分家』なわけだけれど。本家の方々が最近の市井……つまり下界の様子を調査したいらしくてね」
「下界って。私たち、雲の上の神様でも迎えるわけ?」
要するに、本家の高貴な方々が街を見たいが、正面切って歩くのはプライドが許さない。そこで『分家との交流会』という、いかにももっともらしい建前を用意したというわけだ。
(その建前(隠れみの)に、私たちが選ばれたのね……)
本来なら、こういう本家との折衝は父の役目だ。だが、あいにく父は半年がかりの薬箱補充に出たきり。半年前に出かけて、帰ってくるのは次の半年の三日前。ほぼ「回遊魚」のような生活だ。
「でも、分家なんて他にもあるじゃない。どうしてうちなのよ」
養子を出した家もあれば、名字だけもらった別家もある。朱里が疑問をぶつけると、母はとんでもないことをさらりと言った。
「本家が事前に書類検査をしたらしいわ。恨みを持っていないか、命を狙う危険がないか……。その結果、毒にも薬にもならない、とっても安全な私たちになったんですって。光栄ね」
(それ、絶対にバカにされてるわよね!?)
朱里が心の中でツッコミを入れたが、母はどこ吹く風。
「それで、いつ来るのよ。まさか来月とか言わないわよね?」
「明日の早朝よ」
「……は? 早すぎない?」
「ほら、お隣ですもの。塀を乗り越えたらすぐよ」
母は事もなげに言った。邸宅街と庶民の街の境界線。あえてこの場所に店を構えた父の計算を恨みたい。
「高貴な血筋って、つくづく不自由で面倒くさいわね」
「あら、私たちは自由な分家よ。掃除という自由な労働が待っているわ」
「……はいはい。わかったわよ、やればいいんでしょ!」
◆◆◆◆◆◆
早朝。カラカラと引き戸を引いたのは、梨花ではなかった。
家系に仕える実直な使用人らしき、四十代の男性だ。引き締まった体躯からは、鍛錬の跡と、長年主人に仕えてきた者特有の、静かで品の良い威厳が漂っている。
その男が道を作るように控えた戸口から、梨花は現れた。
まるでもとから境界などなかったかのように、春の光を背負って、少女は静かに店先へと降り立つ。
瞬間、店内の空気が一変した。
生薬の苦い匂いは春風にかき消され、代わりに、早朝の森で摘んできたばかりの白百合のような、冷たくて甘い香りが満ちた――そんな錯覚を抱くほどの衝撃だった。
そこにいたのは、朱里が「本家の対策」として必死に作り込んだよそ行きなど、一瞬で塵にしてしまうほどの、本物の「令嬢」だ。
纏っているのは、雪解け水のように透き通った水色のサマードレス。繊細なレースが施された襟元は、彼女の細い首筋をいっそう白く際立たせている。風に舞い込んだ桜の花びらさえ、梨花を飾り立てる装置の一部であるかのように、その肩や柔らかな黒髪に吸い寄せられていった。
梨花が静かに伏せていた睫毛を上げると、そこには街の誰も持っていない、磨き抜かれた宝石のような瞳があった。
可憐。
その一言で片付けるには、あまりにも完成されすぎた造作だった。
彼女が歩くたびに、上質な布地が「さらり」と贅沢な音を立てる。それは、市井の喧騒の中で必死に背伸びをして生きる朱里たちに、抗いようのない「血の隔たり」を突きつける、静かな宣告のようでもあった。
「ごきげんよう」
その声が聞こえた瞬間、朱里の肩から不自然な力みが抜けた。
鈴を転がすような綺麗さだけれど、決して冷たくはない。まるで、熱を出した時に額に乗せられた、濡れたタオルのような心地よさ。
おっとりと、少しのんびりとしたその響きには、本家という名前が持つ刺々しさは微塵もなく、ただただ、こちらを無防備にさせてしまうような不思議な包容力が宿っていた。
「……本家の人って、もっと怖いかと思ってたのに。なんだか拍子抜けしちゃうわ」
「朱里……っ、それは、ちょっと失礼よ」
慌てる鈴音をよそに、梨花はふんわりと目尻を下げた。春の日差しに目を細めるような、相手を優しく包み込む笑い方だ。
(令嬢らしくない、笑い方だなぁ……)
朱里が想像していた「令嬢の笑い」といえば、高飛車な高笑いか、鼻で笑い飛ばすような傲慢なものだったのだ。
「あら、怖いイメージを持っていらっしゃいましたか?」
「……まあ、正直に言うとそうですね」
本来、分家として本家を立てるべき場面で、こんな発言は言語道断だ。けれど、この令嬢の所作からは不思議と毒気を抜かれてしまう。
「ふふ、正直な方で何よりです」
「あ、すみません……」
「いいえ、良いのですよ。人の上に立つ者ゆえに、振る舞いや所作が当たり前にできて当然――それだけのことですから」
(本家の印象、変わったな……)
朱里の脳内では、本家といえば「人の悪いところを煮詰めたような性格の集まりで、極悪非道を繰り返す集団」だと思っていた。
しかし、目の前の本物の令嬢は、人の警戒を解くのが恐ろしく上手い。その隙に懐へと潜り込み、本家の価値を認めさせる。なるほど、計算し尽くされ、それを「普通」にやってのけるさりげなさは、一朝一夕で身につくものではない。
(でも、本当に素でこれなのかしら……)
朱里は、梨花の淀みのない振る舞いを観察しながら自問した。
「こちらの薬局も、素晴らしい雰囲気ですね」
「ありがとうございます」
「あら、これは……新事業の薬ですわね」
浅倉家は現在、明治時代に漢方と西洋医学を融合させた薬を開発し、大手製薬会社や高級化粧品ブランドへ原料を供給する「浅倉製薬」としての顔を持っている。
その反響は凄まじく、病院や薬局に行けば必ず『浅倉』のロゴが入った薬瓶や箱を目にするほどだ。
今回、本家の人間が「調査」に来たのは、分家との交流という建前もあるが、自分たちが作った薬が市井でどう使われているかという、独占的な市場調査の役割も一部担っていた。
「こちらの薬の処方率は、どれくらいでしょうか?」
「……すみません。私共ではそこまでは存じ上げず」
「そうですわよね。急に立ち入ったことを聞いてしまって、ごめんなさい」
梨花は困ったように眉を下げ、申し訳なさそうに微笑んだ。その庇護欲を
そそる姿は、つい手を貸したくなってしまうような危うさがある。
「でも、梨花様のようなお立場でも、市場調査などなさるのですね」
「いえ、そういうわけでもないのですよ」
「えっ、そうなんですか?」
鈴音の問いに、梨花はふふと笑いながらも、芯の通った真っ直ぐな眼差しで言葉を紡いだ。
「私は、市場へも行かず、薬学についても学ばずに、ただお嫁へ行き、家の顔を立てるだけの存在でいることもできますわ。……ただ、」
梨花はそこで、言葉を付け足した。
「私は知りたいのです。どういった過程で薬が作られ、なぜその効果が出るのか。そして、どのように使われているのか。ただただ、私は知りたいだけなんですの」
「好奇心旺盛でいらっしゃるのですね。薬屋の娘である私ですら、そこまで深く知りたいとは思いませんのに」
(姉さんは、本当に本家を立てるのが上手いわね……)
鈴音は実際、薬のすべてを知りたいと考え、周囲の反対を押し切って父の仕事を継ごうと大学へ進学している。それなのに、自分を下げて相手を立てる。朱里には到底真似できない、しなやかな「分家」としての振る舞いだった。
「とんでもありません! でも、実際に薬屋での経験を積まれている方にそう言っていただけると、嬉しいですわ!」
梨花は本当に嬉しそうな色を声に乗せ、淑女として許される範囲で軽やかに跳ねてみせた。
(お世辞だって、わかっているのかしら……)
梨花という人物がどれほど善人であっても、朱里にとって、姉と共に過ごした時間に比例する信頼や尊敬には届かない。朱里の中での「特別」は、どうあがいても鈴音なのだ。
「ふふ。それでは雑談はこのくらいにして、見学させていただいてもよろしいかしら?」
「ええ。商店街振興会の理事長にも話は通してあります。ご案内いたしますね」
来週行われるこの街名物の『町内親睦大運動会』。その予行練習に、浅倉本家の令嬢が「市場文化調査」という名目で観覧する――。
(これは、本家が考えた策略……?)
梨花個人を見ていると、本家に対する不気味な印象は薄らぐ。だが、それこそが本家の狙いなのだろうか。建前や表向きばかりを気にする本家の中で、彼女だけが純粋に街の人と交流したがっているのでは……。
(……いや、考えすぎね)
朱里は思考を打ち切り、一行と共に街の小学校の校庭へと向かった。
次は、予行運動会回です!