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15 呪
第15話です。
隣の村が地獄なのは、あの人形の仕業なのだ。
諸相はその人形を壊そうと決意した。しかし、その人形はこの村のご神体なので、常に父親が目を光らせている。
どうすればいいだろう。諸相の立場からすると今も隣村はひでりに苦しみ、存亡の機に瀕していると思っている。数日の猶予さえ、いや、一刻の猶予さえないように思えてならない。
自分が動かなければならない。早く、早く……。妬ましい思いで寺の離れを見つめ、好機を窺った。
雨が降ってから三日後のこと。父親は村の様子を見てくる、と諸相に言った。
父親は神主であるが故、この村の長も兼任している。何が気がかりなのか分からなかったが、諸相にとって、これはまたとないチャンスだと感じた。
父親が寺から去ったあと、諸相は動いた。
自分以外誰もいない境内を自由に歩き回ることができた。いつもならサボることすら億劫なほど陰気な場所だったが、何のお咎めもないまま自由自在に歩くことができる。今なら何でもできそうな感じがした。
あれほど近づいてはならないといわれていた離れに難なく着いて、がらりと戸を開ける。目的の箱の前に立った。
不用心なことに、鍵は開いているようだ。両扉の取っ手を軽くつまみ、中を|検《あらた》める。だが、肝心の人形はいなかった。
あのクソジジィ、肌身離さず持っていきやがったか……。空っぽの箱を見て、負け犬の遠吠えを吐きたくなった。砂金のように細やかな|一縷《いちる》の望みを手にし、だが、指の隙間からさらさらとこぼれ落ちていった。せっかく手に入れたと思っていたチャンスは、父からすればてのひらの上だったらしい。
所詮、若坊主の企みに過ぎぬ……。遠くから撃ち落とされた鷹が無様に地面を這うように、次の機会に持ち越しかと離れの戸に触れた時だった。
かたかた……かたかた……
何処からか音がする。
振り向いて様子をうかがってみると、部屋の奥からのようだ。離れには自分以外に誰もいない。何の音だ?
奥へ歩みを進める……と、ある物を発見した。離れの奥にある、神棚の上に、あの日の人形が立っていたことを。
人形は満足に踊れない様子だった。頭に狐面を乗っけ、前方に足を運んだままで止まっている。着物の色は全体的に黄色が多めだろう。朱、緑、黄色など色とりどりの色彩を放つ着物姿を披露して、片手には黄金の扇が握られている。扇は開かれて、こちら側に柄を見せている。
前に盗み見たあの人形だと頭の中で結びついた。そして今すぐにでも壊さなくてはならないと考えた。しかし、頭はこのように思っていても、身体がまったく動こうとしない。眼球ですらも。あの人形に釘付けだった。
少し妥協して、ネジを回して舞を見てみようかと考えを改めた。どうせ壊すのだ。なら、舞を見ないで壊すのと、見てから壊すのと、結果は何ら変わらない。
諸相は先ほどとは裏腹な感情を抱いたまま、人形に手を付けた。ネジをひと捻、ひと捻と回して立たせてみた。すぐに人形は動き出す。
まるで舞妓のごとく、しなやかな動き方だった。
人形のあの顔つきを見なければ、小人が|艷《あで》やかな舞を披露している。観客は自分だけ。今この瞬間だけはこの人形の演目を独占している。
やがて動きが鈍くなり、終演に近づこうとしてしまうと動きがぎこちなくなってしまう。美しい人形と言えど、所詮はからくり人形。いずれ止まってしまう。
その兆候が見えると、たちまち子供のように人形を持ち上げ、急いでネジを回した。新たな原動力を得ると途端に元気になり、再び美しい舞の続きを踊る。舞踊が披露される間、離れはおろか、寺内の時間さえ止めるようだった。
そうして時間すら操る美しい舞を何回も見ていると、諸相の脳内に「この人形を破壊する」という使命感のあった考えは擦り減っていった。
諸相もまた、父親と同じように念仏を唱えたくなった、とまではいかないが、人形の魅力に取り憑かれつつあったのだろう。
けれど、それでも。
それでも、だった。
この人形を壊さなくては、隣の村は……という思いは捨てきれなかった。
できれば人形を壊したくなかった。だが、それでも壊さなければならない。そうしなければ隣の村が、だが壊せば舞がもう……
――そうだ。
何を思ったのやら、まだ舞の途中であった人形を持ち上げ、背中についていたネジを引き抜いてしまった。引き抜いたことで人形とネジは完全に分離した。
そして、未だ動き続けている人形を、元々あったご神体の箱のなかに収め、観音扉の戸を閉じた。
これでいい、と彼は思った。ネジを回さなくては踊れない、それがからくり人形の宿命。
今も古めかしい箱のなかから、微かだが小さな音が聞こえてきている。
かたかた……かたかた……と。
人形はネジを取られたことに気付いていないかのように、あの箱のなかで無観客の舞を披露していることだろう。
諸相は離れから立ち去った。心は達成感で包まれていた。
今は舞が踊れるだろうがじきに人形は動きを止めることになる。からくり人形なのだから、駆動する部品を取られればやがて止まる。数分間しか持たない。
あとで父親が気づき、詰められることになるだろうが自分には知らぬ存ぜぬで通すつもりだ。
あの人形の舞が、もう二度と踊らなければ、本来降らすべき隣の村の雨雲は人形に取られずに済む。それでこの村が雨に嫌われようとも、それでいい。
隣の村に、待ちに待った恵みの雨が降ってくれるなら、村一つなんてどうだっていいのだ――と思ってしまった。
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――してねって、……ったのに。
その晩、諸相の寝床に誰かの声が降ってきた。誰かが枕元に立っている。薄く目を開けた。視界の世界は、薄らぼんやりとしていた。
左側に、おだやかな|金色色《こんじきいろ》がにじんでいる。間近で光っているような、太陽がのぞき込んで顔を照らしているような、あるいは、太陽のように輝く鳥――|金鵄《きんし》が美しき羽を収めて立ち姿を見せているような。
「大事にしてねって言ったのに」
その色からそのような声がした。
何だ? 鳥がしゃべっているのか?
まだ焦点のあっていない目をこすろうとした。しかし、毛布にしまい込んだ手は微動として動かなかった。
まるで身体中に泥を塗ったくったように、数日分の疲弊を毛布の上からかぶせられたかのように。手足は毛布の中で|磔《はりつけ》の刑に処されていた。なぜ、こんなにも手が動かないのだろう。金縛りか?
ぼやけた金色に釘付けになっていると、徐々に視界は回復していって|輪郭《りんかく》がはっきりしていく。鳥の毛皮ではなかった、金色の毛ではなく、金色の着物だった。美しい着物を着ていた者は、小さな子供のようだった。顔は狐面をかぶっていて口元以外見えない。
その口が動く。
「あなたの愚行は、信心深い父親に免じて水に流してあげる。でも、そんなに平等な雨が欲しいのなら……」
声は高く、断言するような澄んだ声をだし、着物の裾を翻した。ばさりと盛大に厚い布の音を出す。
すると、どうしたことだろう。諸相と彼女との距離が離れていく。体重を受け止めていたはずの布団の柔らかさはなくなり、重力に赴くままに、下へ。
下へ、下へ。
上の彼女が穴の底を見下すようにした。狐面を、首を傾げた。全身に風の塊を感じる。一瞬クッションのように錯覚する。だから実感した。
自分は落ちていっている、と。背中側から死への凍てつく冷気の流れを強く感じた。
見下ろす彼女、彼女を含む自分の寝床が小さくなっていき、虚空に飲み込まれると完全なる闇が訪れる。
諸相は、自分は、それよりも前から大声を上げて、黒よりも暗い奈落の底に落ちていったのだ。
★
そういった絶望の淵から叫ぶ声とともに、諸相は一気に悪夢から醒めた。全身がびっしょりと濡れている。汗の量は尋常ではなかった。
身体を起こすと窓から雨の音がする。空は暗く、地平線に至るまで薄い墨のような色をした曇天が覆いつくしている。
恵みの雨だ。
ようやく、この村周辺の『特別な雨』ではなく、隣村にまで延びる『奇跡の雨』が訪れたのだ。諸相は自然の来訪に歓喜のまなざしを向けた。窓の外を見て安堵した。雨は一夜中降り続けた。
しかし、一日が過ぎ、二日も降り続けていると、諸相はどうしてか胸騒ぎを覚えるようになる。どしゃぶりのように降り続けるこの雨は、止む気配がなかった。降り始めてから三日が過ぎようとしていた。夜通しの降雨。雨脚は弱まるどころか強まっていく。
遠出をしていた父親が寺に帰ってきた。寺に戻るや、さっそく諸相に近づいていった。
「おまえ……」
と低い声を発し、何の躊躇もなく諸相を足で蹴った。長雨による廊下の雨漏りがあったために、諸相は雑巾がけをしていた。しゃがんで水をふき取っていた諸相の脇腹に、一発痛いものを喰らう。
理由のない暴力に脇腹を抑えせき込む。そこに、父親はいった。
「なんという事をしてくれたんだ!」
怒髪天を突くといった形相をしていた。そして「バカ息子め!」となじった。
諸相は何のことなのか分からなかった。なぜ父親はこんなにも怒っているのか。父親は続けた。
「おまえ離れに行っただろう。どこへやった、人形をどこへやったのだ」
何のことだ、俺は何も。そう弁明するも相手はでくの坊にでもなったかのように何度も同じことをした。
手や足をつかって痛めつけた。殴っては倒れ、|頽《くずお》れた息子の胸ぐらをつかみ、持ち上げ、また同じことを尋ねる。隠した人形を出せ。早く!
諸相もまたでくの坊になるや、父親は何度もぶん殴った。腹、頭、顔面。口のなかがひどいことになっている。金属でも舐めたようなひどい変な味がした。
「ああ……、お怒りだ」
そうして暴力の波が一時的に収まり、薄闇の空に向かって父親は呟く。何度もひどい目に遭わせることで少し冷静になった様子だ。
「このままでは、〝アマガミ〟様が……」
アマガミというのは、雨神、雨の神のことを指していると思われる。今、天上を震わせて大いなる恵みの雨を支配している神。土着信仰の一種。
未だ勢力は弱まるどころかますます強くなっている。神の怒りが静まる気配はない。
「あの人形をどこへやった、お前以外にやる人間なんていない」
もう一度諸相に詰め寄る神主。神おろしのような顔だった。貴様がやったことはお見通しである、と決めつけている。
たしかに鬼の居ぬ間に洗濯、とまではいかないが、父親のいない日を狙って離れに近づき、人形を壊そうとはした。
しかし、壊すといってもゼンマイを引っこ抜いただけであり、ちゃんと人形は元の棚に戻している。こんな暴挙に屈し、責められる謂れなんてない。
「お前のあさましい考えなんてお見通しだ。どうせ隣村の様子に見かね、ご神体に近づいたのだろう。あわよくば壊そうとした。
ご神体の入った錠が壊れていた。おまえが壊して人形を持ち去ったのだな?」
「いえ、鍵を開けたのは自分ではありません。もともとあの箱は開いていたのです」
神主は不気味な笑みを浮かべる。
どうやらその言葉を待っていたようだった。
「さっき私は『ご神体の入った錠』といっただけだ。なのにお前は箱だといった。
『ご神体の入っているのが箱の中』とは私はお前に一言も話していない。それ以前もだ。なのにお前は知っている……やはり離れに近づいたのだな」
勘当だ、出ていけ。
諸相は荷物もまともに整えられないままに門の外に追い出された。
すぐさま重い門が閉じられる。がこん、と低く大きな音でも、その大半は強い雨音に吸い込まれた。
外はひどい有り様だった。
雨の支配下にあった。道は緩やかな傾斜があり、坂がある。ここはちょっとした丘の上で、普段ならここから下を見るとちょっとした集落があって、盆地のようになっている。だが、今はどうだろう、下の景色は村はなく〝湖〟になっている。
湖……、いや、色合い的には「急流のある沼地」が説明的に適切だろうか。
何にしても家々は沈没していたのだ。広場も畑も。林も川も、集落ともども一様にして泥水に丸のみにされている。
バケツどころか周囲が圧倒的な降水量で闊歩している。幾百にも分けられた液体の刃が上から下へ突き刺さり、家々を軒並み沈ませている。小舟のように浮かぶ木片は倒木だろうか、木造家の残骸だろうか。どちらにしたって村人はひとかけらもいない。
何だこれは、と再確認させられた。
諸相は丘の上から集落だったものを見下ろした。そこに集落の断片すらもない。土砂で汚れた水を眺めるしかなかった。
これが、人形の怒り……? 人形を壊した、罰だというのか。違う、自分じゃない。これは、自分がやったことは、ただ背中のネジを……
責任転嫁をして重責を軽くしようとするも、諸相のいるところにも、自然の暴虐が乗り上げてくる。集落という盆地のくぼみに収まりきれなかった水面が水流となって、今にも溢れようとしている。
盆地の縁に当たる部分が諸相のいるところだ。足首から下の地面は急流に侵されつつある。村と村との境界である川が決壊したかは不明だが、この水を見ると想像に難くない。
立っていられないほど流れはきつい。身体が持っていかれそうになる。
――そこに。
諸相の目の前に、一枚の小さな葉が通り過ぎようとしていた。明鏡止水だった。
それは周囲に比べ、あまりにも遅かった。時間の流れが遅く感じられた。
汚らわしい濁流ほどよく映えた。
葉はみずみずしいほどに新緑で、雨粒越しに見てもその葉脈はくっきり見えるほどに澄んでいる。
それは小さな波紋すら生まない、静寂を司る湖面に浮かぶハスの葉のようであり。
小さな葉の上に乗っている。
踊っている。『何か』が踊っている。
雨粒は、葉の、『何か』を避けているようだった。
器用に乗りこなす一寸法師のようでもあった。
この豪雨のなか、まったく濡れていない着物姿。
先日見たあの夢のような、金色の|滲《にじ》む着物姿。
薄緑に染まる狭い舞台を目いっぱいに使って、足で葉を蹴って、ぴょんと飛んでは浮かんで――あのときの舞を繰り返し踊る。あのときと違うのは、|ネジ《・・》をいちいち回さなくて済んだこと。
終演のない――この舞は、時間を停めるはずなのに。手に持った黄金の扇子が閉じたり開いたりすると、一層雨は強くなる。
背中にあったネジという束縛から抜け出して、狐面をかぶる『彼女』は自由の身になっていた。面が欠け、むき出しになった笑みの口角をくっと曲げて、隙間からあるはずのない|白い歯《・・・》をのぞかせていた。
固まった身体のまま、人形を見据えた。
小さな彼女は、諸相の存在に気付いた。すると舞の途中で中断し、諸相に向けてかわいらしく頭を下げ一礼する。それから、真っ赤な唇を一瞬扇子で隠し、着物の袖口な交代したのち――雲に隠れし太陽めがけて扇を天に掲げた。
黄金の扇子は、分厚い曇天に大いなる切れ目を入れる。雲間から伸びる光は一目散に黄金の扇へ。浴びて一層、受け止めてひと際、輝く手元。
静止画の立ち姿から、ばさりと素早い動きに。
いつの間にかに止んだ雨が、再び勢いを取り戻す。
それは、天におわす雨の神――〝アマガミ〟様が一層|慶《よろこ》んだ証拠のようだった。
そうしてこの地方は、「しゃらく谷」となったとされている。「しゃらく」から「しゃらく谷」へ……
すなわち、沼地のごとく湖となって、凄絶なる水の重みで土地が沈降していったのである。
そして、諸相が見たといわれるその人形こそ、「しゃらく谷」を作った張本人であるアマガミの巫女。
〝じゃらくだに〟さまだと伝えられている――。
……