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第一話 幸せの姫
その国は、いつからか「幸せの国」と呼ばれるようになっていた。空は青く澄み、季節ごとに花々は咲き誇り、広場には笑い声が満ちていた。人々は不思議なほどに穏やかで、争いを知らず、王城の旗の下で皆が微笑んでいた。訪れる旅人たちは口を揃えてこう言うのだ――「ここほど幸福に満ちた土地は他にない」と。
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王城の高い窓から、その景色を眺めるひとりの少女がいた。王国唯一の姫、セレーネ=アルトリシア。まだ十六の齢ながら、その姿は神々しいほどに気高く、美しいと称えられていた。長い金糸の髪は陽光を受けて輝き、蒼穹を映したような瞳には、澄んだ清らかさが宿っている。けれども、窓辺に佇む姫の横顔には、ほんのわずかな影が落ちていた。
「…今日も、皆、笑っているわね」
セレーネは呟く。下の庭園では、子供たちがはしゃぎ、大人たちがのんびりと談笑していた。兵士たちでさえ剣を掲げることなく、まるで芝居の一幕のように穏やかだ。だが、姫は時折思う。――どうしてこれほどまでに「完璧」なのだろう、と。
「姫様、こちらに」
柔らかな声とともに、侍女のクラリスが白いティーカップを盆にのせてやってきた。
「今日の御茶は南方の香草を混ぜた特別なものにございます。お身体をお労りいただかなくては」
「ありがとう、クラリス。…でも、わたしは大丈夫よ」
ティーカップを受けとりながらも、セレーネは微笑みを崩さなかった。姫は常に民の「希望」でなければならない。父王にそう言われて育ってきた。彼女が笑顔でいる限り、国の幸福は保たれるのだと。けれども、その言葉は鎖のように心に絡み付く。少しでも表情を曇らせれば、王の叱責が待っているのだから。
「クラリス、ねえ…この国って、本当に、幸せなのかしら」
「姫様?」
「だって、広場に行けば誰もが笑っている。わたくしたちの城の中も、毎日が祝祭のよう。…まるで、絵巻物の中に閉じ込められたみたい」
クラリスは一瞬だけ言葉を失ったが、すぐに微笑み直した。
「それこそが、陛下が築かれた理想の国でございます。どうか疑念などお持ちになりませんように」
「…ええ、そうね」
セレーネはカップを口をつけた。香草の香りが喉を通り抜ける。だが味は――何かが足りない。その「足りないもの」が何なのか、彼女自身まだ気づいてはいなかった。
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その夜、城は祝宴に包まれていた。大広間には煌びやかな灯火が揺れ、王国の貴族や使節たちが華やかな衣装で集っていた。楽師の奏でる竪琴の音が流れ、給仕たちが銀の皿を運ぶ。王座に座す父王――アルトリシア王は、朗々と声を響かせていた。
「見よ、我が王国の姿を!民は飢えを知らず、戦を知らず、笑顔と歌に満ちておる。これぞ真の幸福の国ではないか!」
賛美の声が湧き起こる。杯が打ち鳴らされ、笑い声が広間を埋め尽くす。セレーネは父の隣で、微笑みを作りながらも、胸の奥に冷たいものを覚えていた。
――飢えを知らず?
――戦を知らず?
けれど、昼間に城壁の外から吹き込んできた風は、どこか重く、土と汗と…悲しみの匂いを含んでいた。もしや「城の外」に、本当の姿があるのではないか。その思いを口にしかけた時、王の鋭い眼差しとぶつかり、セレーネは言葉を呑み込んだ。
「…姫、どうなされましたか?」
隣席の貴族が気付き、にこやかに問いかける。セレーネは微笑み返した。
「ええ、何でもありませんわ」
けれど心の奥で、小さな灯がともっていた。それは、これまで王の言葉を疑ったことのなかった姫にとって、初めて芽生えた「違和感」という名の炎だった。
――もし、この国が偽りの幸福に覆われているとしたら?
――もし、わたしが見ている景色が仮面でしかないとしたら?
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その夜、セレーネは眠れなかった。寝台に横たわりながら、月明かりに照らされた天蓋を見つめる。胸の奥で、まだ小さなその炎が、静かに、ただ揺れていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
新シリーズ『偽国の姫、真実の旅路』開始しました。少しでも届いていたら嬉しいです。
初の執筆で至らないところ多いと思いますが、今後ともよろしくお願いします。