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平熱によろしく
「起きなさい、遅れるよもう」
冷たい空気にさらされる前に、早くスイッチを押してしまいたい。そう思って、ぬるい頭をもたげた。
二日酔いでもないのに、視界が右へ左へと揺れる。
壁に二回程腕をぶつけて、やっとリビングにたどり着く。体温計は灰色の戸棚の小物入れ。もう手探りで掻きまわさなくても触れるようになった。
朝の空気がスウェットの隙間に入り込む。わきをつんっと刺すような冷たさが全身まで広がってしまう気がして、場違いなテーマの焦りが湧き出した。
「36.2」
平熱だった。
酷く気分が悪い。爽やかな朝日が、自分をからかっているようにすら見える。
熱は出ていない。そりゃそうだ。僕の平熱が35度台だったら別だろうけど。そんなことは無いので、至って元気なんだろう。ちょっと眠いだけ。寝起きで体がだるいだけ。
残念だ。
熱が出ていれば良かったのに。
何回やるんだろう、このくだり。タイムリープにでも巻き込まれているのなら、それはそれで良い方なのかもしれない。
別にどこさのウイルスの時みたいに体温を記録しなければいけない訳ではない。完全に自分の意思。ちょっとの願いからなる、すがる価値もないくらい小さな希望としてそこにあるだけ。
自分の意思で続けられた事といえば、これが生まれて初めてだった。
ただ、、、まず前提としてもっと早くから出来ていないとおかしいのだろうし、喜びは微塵もない。はたから見れば、動機が不真面目すぎる。きっと話したところで意味も利益もない。むしろ不都合だ。
言い訳など通じない。言えない。言わない。
でも叫びたい。できるならば、虚空に向かって。誰もいない山奥とかで。
学校に、行きたくない。
塾に行きたくない。
駅に行きたくない。
公園に行きたくない。
交差点に行きたくない。
外に行きたくない。
人と関わりたくない。
きっとこの願いは、寝たら無くなるちょっとした頭痛でもじわじわと薄れる喉の痛みでも断じてない。
言うなれば「死」なのだろう。
ずっとくっついている。気づいたらいつもいる。うっすらと、本当にうっすらと付きまとう。けど消えない。そうして、死ぬまで添い遂げる。
いや、添い遂げなければならない。
朝日がうるさい。
先生の優しさが痒い。
幼馴染の笑顔が苦い。
晴れ渡る青空が厭らしい。
おかえりの声が重い。
暖色の電灯がきつい。
何より、そんな風に感じてしまう自分が、何も変えられない自分が気持ち悪い。
心の底をぎりぎり無視できない程度で這いまわるその感覚に、幼いころからずっと付き纏われてきた。けれど不思議と慣れることはない。
「困った」と言えば面倒くさいことになるだろう。たとえ言いたくなっても後回しにせざるを得ない。そんなことの繰り返し。
どうして、何かやることを思い出したり心もちが行動を起こす方に傾いたりしたときに限って、それを見送らざるを得ない状況になっているんだろう。もしかそうなるのは僕だけ? だとしたらもう呆れるしかないのだろうか。
そう考える間、無意識のうちに朝食を食べて着替えていた。ふと考え事が途切れる。ベルトがない。
、、、と思ったらもうつけていた。本当にもう、一日一日、空っぽの形式をなぞるだけで過ごしてしまうようになるのを止めたい。
この感覚を放っておいたところで、苦しいだけで別に限界を迎えたりはしないというのがまた不思議でたまらない。もういっそのこと、どこかで限界を迎えてしまえば楽だろうか、とすら思う。そんなこと願うのが罰当たりなのは重々分かっているが。
平凡な人生、特に平凡で少し苦しげな人生を送っていると、希望はそこらにまぁまぁ見つかる。転がっている。ただそれは、縋ることはできても到底安心できるものではない。すぐに千切れはしなくとも、包み込んで嫌なことを忘れさせてくれるものでは到底ない。いつかは薄れて破ける。いろんな希望を欲張りなくらい掴んでも、日常を繰り返すことだけで精一杯なことだってある。僕がそうであるように。
いつの間にか、時計が八時を回っていた。
こんなことを考えておいて、こんなチャンスを突き付けられておいて。この気持ちを言うことはできないにしろ、だから何もしないというのは癪な気がして、体温計をもう一度掴み取った。
体温計の先がまた性懲りもなく、わきを冷たく刺す。「え、どうした」といった表情でこちらを見つめる母の視線をやり過ごしながら、体温計の音を聞くためだけに立ち止まっていた。
「36.3」
平熱だった。
もう満足だ。これ以上足掻く意味はない。むしろそんなことしたらかっこ悪い。
「行ってきます」
どうしようもない不安と手を繋いで、晴れやかな朝に背を向けた。
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