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〖第二話〗 灰の町と夢見る少女(後編)
神殿へと続く石畳の道は、町の中央を通る大通りの外れにある。下町から歩いて三十ほどの坂を上がった先、白い壁と青い屋根を持つ大きな建物が見えてくる。町の人々はそれを敬意と畏怖を込めて"聖塔"と呼んでいた。
神殿の前庭には、貴族や上層の人々が使う正門があり、広い階段の先に黄金の装飾が施された大扉がある。しかし、下町の者が使うのは裏門――荷車や薪束を通す、物資搬入口の狭い鉄の扉だ。
リィナは、荷車に積まれた薪束を必死に押しながら、裏門の前に立った。
「今日も……あの階段は遠いなあ」
ちらりと視線を向けると、神殿正面の長い階段が見えた。階段の上に立つ白衣の神官たちの姿は、まるで天上の住人のようで、自分とは違う世界に思えた。
だが、その奥には、あの"本"がある。
神殿の書庫。噂でしか聞いたことがないが、何十、何百という本が納められているという。貴族が学ぶための聖典、魔術の記録、過去の歴史……そして、文字。
リィナの胸がどきどきと高鳴る。
薪束を所定の場所に置き、控え室の棚に引換札を差し込んで帰ろうとした時だった。廊下の奥から足音が聞こえてきた。
カツン……カツン……
石の床に響く、均等な靴音。それは、見慣れた使用人の足音とは違っていた。丁寧で、静かで、気品すら感じる歩み。
リィナは、思わず柱の影からそちらを見た。
姿を現したのは、白い神殿服の上に濃紺の外套を纏い、胸に金の羽ペンを模した徽章をつけた青年だった。肩まで届く淡い銀髪を一房後ろで束ね、顔には細い眼鏡。手には羊皮紙を挟んだ冊子を持っている。
「……あの人、神官様じゃない。書記……?」
青年は一瞬、足を止め、何かに気づいたようにリィナの方を見た。
その瞳は、深い海のような青。だが、冷たいのではない。何かを探すように、優しく観察する目だった。
「君。薪を運んできた子だね?」
リィナは驚き、思わず背筋を伸ばした。
「は、はいっ!」
青年はゆっくり近づくと、ふとリィナの胸元を見つめた。
「その布……見せてもらえるかな?」
胸元に入れていた紙片が、いつの間にか少し飛び出していたのだ。
リィナは慌てて手を押さえたが、青年の声は柔らかかった。
「怖がらなくていい。それは古エルフ語の断章だ。なぜ君がそれを?」
「……市場の路地で、拾ったんです。何が書いてあるのか、どうしても知りたくて……」
「読めるのかい?」
「いえ、まだ……でも、形を真似して、土に書いたり……」
青年は、目を細めた。まるで、何かを確かめるように。
「名前は?」
「リィナです。薪屋の、働き手です……」
その瞬間――青年の表情に、確かな光が灯った。
「リィナ。文字を学ぶ気はあるか?」
「……え?」
「教えてやろう。だが、その代わり、簡単な仕事を一つ。書庫の整理に人手が要る。文字を覚えながら、手伝ってくれればいい」
夢かと思った。
言葉が頭の奥で響きながら、現実感が伴ってこない。リィナはただ、ぽかんと口を開けて青年を見つめていた。
「私……本当に、教えてもらえるの……?」
青年は頷いた。
「私の名はシオン=マクレイ。神殿の書記官だ。知識を欲する者に、門は開かれる。だが、その先にあるものを恐れてはならない」
そのとき、神殿の高窓から差し込んだ朝の光が、二人の影を柔らかく床に描き出した。
それは、小さな出会いだった。
だが、リィナの世界にとって、それは確かに――扉の音だった。
"知識という名の扉が、今、静かに開かれたのだ。"