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1話 会いたくなんてなかった
雨が、降ってきた。家につくまでまだまだだってのに。仕事が終わってヘトヘトの僕に、駅まで走る体力など残っていない。その日に限って傘は忘れてしまっていて、仕方がないので随分昔に閉店した喫茶店の入り口の屋根の下に入る。
「ついてないな……。」
雨の日はどうしたって僕を陰鬱な気分にさせる。喫茶店の屋根からビチャビチャと雨が垂れ続けている。この様子だと雨には止む気などさらさらないようだ。もういっそのこと濡れて帰ってしまおうか。明日だって仕事なんだ、一刻も早く眠ってしまいたい。……いや、だめだ。このスーツはまだ正気だった母さんがくれたんだ、たとえ落とせる汚れでもつけたくない。しかしどうしたものか。このままでは僕に苔が生えてしまう。……ここで寝てしまおうか。そう、思ったとき。視界にふと、白い花柄が入り込んだ。驚いて上を向くと、誰かと目があった。
「――これ、よかったらどうぞ。」
驚きで、声が出ない。どうして君が、ここに――いや、そんなはずはない。だって、彼女は、彼女は。
「あ、ほんと、よかったらなので、いらなかったなら気にしないでください。」
「ぁ、あいや、あ、りがとう、ございます……。」
僕がそう言うと、良かった、とだけいってチェリーレッドの傘を握りなおして、名前も聞けないまま雨の中、どこかに行ってしまった。僕は傘を受け取った状態のまま、しばらく動けなかった。どうして、どうしてここに―――死んだはずの妹が、どうして。いや、そんなことはありえない。頭で、理解はしている。彼女はただ、妹と似ているというだけ、だけなのに、だけのはずなのに、どうしてそこまで似ているのか。すこし毛先のうねった柔らかいダークブラウンの髪も、神秘的とも言えるブルーの瞳も、薄い唇も、鈴のような声も、すべて。全てにおいて彼女は自分の妹に酷似していた。僕の頭の中に非現実的な考えが、浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返し、自分自身のことすらよくわからなくなったところで、帰ろう、という全く結論になっていないところに落ち着いた。彼女から受け取った傘をさしながら帰る。視界に入る、気持ち程度しか道を照らさない外灯も、揺れる水溜りも、雨に打たれるツユクサも、目に入るものすべてが僕を嘲笑っているように感じた。気分が悪くなり、僕は速歩きで家に帰った。家に着き、着替え終えると同時にシャワーも浴びないまま、ご飯も食べないまま、僕はベッドに顔を埋めた。瞼の裏で妹と先程の女性の姿が重なっていく。その度に僕は頭を振り、自分の考えを否定し続ける。僕一人の部屋に窓にぶつかる雨粒の音が響いている、うるさすぎる静かな夜に、僕はなかなか寝付けなかった。