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三 夢見心地
「お客さーん。終点ですよぉ。」
車両点検中の車掌の苛ついた声に僕は起こされた。寝過ごしてしまったらしい。
「夢かぁ、」
「は?」
幸いなことに家は終点駅からそう離れていない。駅から続く街灯も歩道もない道を、勘だけを頼りに歩く。こつん、と革靴の先が小石に当たって、それがぽちゃんと左手側の用水路に落ちた音がした。自転車操業の生活から逃げ出せるなんて一瞬でも幻想を抱いた自分が馬鹿だったのだ。この腐りきった世界から脱却する方法は一つしかないし、僕はそれを実行する勇気も覚悟も持ち合わせていない。
町外れにぽつんと建つ三階建てのボロアパートの階段を上がり、がちゃがちゃと鍵を開けて中に入る。靴を脱ぎながら電気を付けると、一拍遅れてやる気のなさそうな白熱電球がチカチカと点灯する。この一人部屋にLEDなんて洒落たものは似合わない。最近は都合良く空腹も感じないようになってきた。早い所風呂にでも入って寝てしまおう。シャワーヘッドからは無慈悲な冷水が飛び出して僕の顔を濡らす。まだ水道が止められていないのが唯一の救いだ。
その晩、また同じような夢を見た。
気が狂いそうなほどに細かいあの螺旋模様が白い背景に無限に伸びている。それは時に獣の角のように尖ってみたり、蹄のような形を作ったりする。動こうとしても二次元の世界に「動」はない。大きな画用紙に押しつぶされるような息苦しさと共に目が覚めた。
五時半、もう朝だというのに疲れは全く取れていない。せめて夢くらい良いものを見させてくれよ、とため息をつきながら眠気覚ましに歯を磨く。
始発の電車に揺られているのは僕と同じ蒼い顔をしたスーツ姿の大人達だ。誰がやっても同じような仕事を僕が要領悪くこなし、誰でも代わりが効くような役職の上司にくだらない説教を食らう。昔から怒られることには慣れっこだ。何を言われたって凹まない性格は別に特段根性があるわけではなく、むしろ向上心の欠如からくるものである。
「暖簾に腕押しやわ。」腹回りが肥えた中年の上司はよくそうぼやいた。全くその通りであるから、僕は何も言わない。きっとこんな出来損ないを雇ってしまうほど、どの業界も慢性的な人手不足なのだろう。
その日は何だかいつにもまして気力がなかった。ぼうっとしていると怒号が飛び、気付けば生産性のない一日がまた一つ終わる。夕方の駅のホームの屋根の間から覗く空には変な形の鱗雲が浮いていた。
帰れば毎日似たような夢を見る。螺旋模様が伸びるにつれて、白い空間は無限に広がって行く。ある晩の夢では、僕の両手は自由に動かせるようになっていた。掌で白い空間に触れると、画用紙だと思っていたモノからはどくん、と変な鼓動が伝わってきた。動物の腹を触っているように温かい感触。この壁は生きている、そう思うと何も食べていないのに吐き気さえ込み上げてくる。
ある日僕がボロアパートの前に帰って来ると、部屋の扉の前に大男が仁王立ちしていた。借金取りは乱暴に扉を叩きながら何か怒鳴っている。その部屋に帰るわけにもいかないので、僕はあてもなく夜道を歩くことにした。野垂れ死ぬなら、せめて綺麗な場所が良い。駅と逆方向に歩いていくと、微かに草の間から虫の声が聞こえてくる。夏になったのだ。用水路には蛍が集まって一つの淡い炎のようになっていた。虫取り網を持った女の子が下の田圃に立ってそれを眺めている。赤いTシャツに短パン、夏休み中の小学生のようだった。十歳くらいだろうか。
「遅いよ。」女の子は僕に気付くと鈴のように透き通った声で喋った。長い黒髪がぬるい夜風に揺れて、大きな瞳が僕を捉える。
「早く行こ。私、あんまり長くここにいちゃいけない。」