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🗝️🌙第三話 焼き魚と沈黙の父
火曜日の午後は、どこか時間の流れが緩やかになる。昼を過ぎた「しろつめ草」には、いつものように静かな陽が差し込んでいた。
こはるは、カウンターの奥で魚の下処理をしていた。今日の仕入れで手に入れたのは、立派なサバ。塩焼きにすれば、きっといい香りが立つだろう。魚焼きグリルの前で、そっと身を返しながら、こはるはうっすら笑みを浮かべた。
魚を焼くのは、まだ慣れない。皮がすぐにくっつくし、火加減が難しい。でも、昨日の夜、しのぶから「ツヤさんはね、身が裂けても"香り"だけは逃がさなかったのよ」と言われ、その言葉を頼りに、今朝は思い切って塩を振り、下処理もきっちり行った。
すると、どうだろう。焼き網の上でサバの皮がパリッと音を立て、黄金色の脂がじゅうじゅうと滴っていく。
こはるは、その様子に小さく頷いた。
――よし、今日はうまくいくかもしれない。
そんなときだった。
「…やってますか?」
低く、抑えたような声が、扉の奥から聞こえた。
ふと振り返ると、ひとりの男が立っていた。背は高く、がっしりとした肩幅。薄いグレーの作業着服。顔は…どこか覚えがあるような、でも、思い出せない。
男は一言も発せず、カウンターに近づいてきた。
「い、いらっしゃいませ…どうぞ、お好きなお席に。」
こはるが声をかけても、男は黙って頷くだけだった。
彼はカウンターの端に腰を下ろし、メニュー表をじっと見つめていた。目元に深い皺。無精髭。年の頃は五十代半ば――だろうか。
「ええと…本日の日替わり定食は、焼きサバと、お味噌汁と、小鉢でして。」
そこで、男がようやく口を開いた。
「焼き魚、ひとつ。」
その言い方は、まるで"注文"というより"指示"のようだった。
「か、かしこまりました。」
こはるは慌ててグリルに戻り、魚を丁寧に取り出す。皿に盛り付け、小鉢には切り干し大根、味噌汁にはじゃがいもと玉ねぎ。いつもの、ささやかな献立。
彼の前にそれを並べたとき、男はしばし皿を見つめ、それから黙って箸を取った。
…静かな時間が流れる。
こはるは、その様子を見守りながら、胸の奥にわずかな違和感を感じていた。
――この人、誰かに似ている。いや、もっと言えば…
まさか、と思いながらも、心当たりはひとつしかなかった。
あの、写真の中の…若い頃の父。
こはるがまだ小学生だったころに離婚して以来、一度も会っていない父の面影が、男の表情の端々に浮かんでは消えていた。
「…塩加減は、悪くないな。」
男が、ぽつりと口を開いた。
「あ、ありがとうございます。」
「皮が、もう少しパリッとしてたら、もっと良かった。」
「あ…はい、すみません。」
反射的に謝ったあとで、こはるは自分でも驚いた。叱られたような気持ちになったのは、なぜだろう。言葉の端々に、懐かしさと共に、微かな痛みがあった。
男は無言で食事を続けた。箸の持ち方は不器用だが、丁寧だった。ごはんは残さず、味噌汁も最後まで啜った。
やがて、食べ終えると、ぽん、と箸を置いた。
「…ツヤさんの孫か?」
「え?」
「ここに来た理由。あんたが孫じゃなきゃ、こんなところ、今どき継がない。」
「…はい。千代田こはると申します。」
男は、深く頷いた。それから、立ち上がって、レジの前に立った。
「いくらだ?」
「日替わり定食、六百八十円です。」
男は財布から千円札を差し出した。受け取ってお釣りを渡すとき、彼はふと、こはるを見つめた。
「…悪くない。お前が作ったにしては、十分だった。」
「…?」
男は言葉を残し、ドアの向こうへと去っていった。
その背中を見送りながら、こはるの中で、確信が生まれていた。
――あれは、父だ。
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夜、帳が降りる頃。青山しのぶが、店にふらりと顔を出した。
「お、今日は魚焼いたんだね。匂いがまだ残ってる。」
「はい。サバの塩焼きです。」
「ふうん。で、昼にちょっと怖い感じの男、来なかった?」
「えっ。」
「あたし、ちらっと見かけたのよ。あの顔…間違いない、あれはアンタのお父さんだわ。」
「やっぱり…。」
しのぶはカウンターに座り、お茶を一口飲んだあと、しみじみと呟いた。
「昔、ツヤさんから聞いたのよ。息子とはうまくいってないけど、料理を通じていつかまた…って。あんたが料理を始めたら、きっとあの人、ふらっと来るんじゃないかって。」
こはるは、しのぶの言葉を聞きながら、昼の男の顔を思い出していた。
無言で食べるその横顔。サバの皮を少しだけ残して、箸を置いたときの表情。あれは、確かに"家族の味"を探していた人の顔だった。
その夜、こはるは、もう一度サバを焼いた。
火加減に注意して、皮目からじっくりと。焼き上がりに、指でそっと皮を押さえてみる。ぱり、と小さな音が返ってきた。
ひとくち食べてみると、香ばしさと塩気が絶妙に広がった。
――もう一度、来てくれるだろうか。
その時は、ちゃんと話せるだろうか。
親子としてではなく、「この味、どうですか?」と、ひとりの料理人として。
窓の外に、春の夜風がそっと吹いていた。
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次回は『ハンバーグは恋の味』。
若い男女のカップルが初来店。口論を繰り返す二人にこはるが提供するのは、ふっくら柔らかなハンバーグ。愛を繋ぐ"やさしい肉のかたまり"が、ふたりの心を変えていく。
次回もぜひご覧ください。