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🌙第3話 『猫舌プリンと秘密のメモ』
ノートのすみっこに書いた、「ごめんね」の四文字を、|桐野 美月《きりの みつき》は誰にも見せたことがない。
中学三年。卒業まであと二ヶ月。
春の足音が少しだけ聞こえ始めた頃、クラスの空気はなんとなくざわついていた。
進路。推薦。第一志望。
将来の夢なんて、見つかっている人の方が少ないのに、誰もがどこか無理して笑っていた。
美月もその一人だった。
進学先の面接を翌日に控えたある夜。
彼女は塾の帰りに、ふと知らない路地へ迷い込んだ。
誰もいない静かな道。くすんだ赤提灯が、やわらかく揺れていた。
月影亭
――あれ?こんな場所、あったっけ。
無意識のうちに、彼女はその扉を押していた。
「いらっしゃい。今日は寒かったでしょう」
迎えてくれたのは、落ち着いた雰囲気の女性だった。
店内は不思議なほど静かで、外の世界とまるで切り離されているようだった。
「何か……おすすめって、ありますか?」
「そうね。今日は"猫舌さん"が多い日かしら。だったら――」
彼女はくすりと笑って、奥へ引っ込んだ。
出てきたのは、カラメルの香ばしい香りがふんわり広がる、プリン。
とろん、と揺れるその表面には、小さく銀のスプーンが添えられている。
「熱々じゃないから安心してね。だけど、このプリン……心の奥まで、ゆっくり温めるわよ」
美月はその言葉に首をかしげつつ、スプーンを入れる。
やわらかすぎず、でもしっかり形を残した感触が、指先に伝わった。
ひとくち、口に入れる。
卵のコク、やさしい甘さ、ほんの少しの苦み。
でもその苦みが、なぜだか、今の自分にしっくりきた。
「……私、友達と、ちょっとケンカしちゃってて」
プリンを半分ほど食べた頃、ふと美月は口を開いた。
「ほんとはすごく仲良しだったんです。中一のときからずっと一緒で。だけど、私がちょっとしたことで意地を張って……ごめんって、言えなくなっちゃった」
女性は、美月の言葉を遮ることなく、ただそっと相槌を打った。
「ノートのすみに書いたんです。"ごめんね"って。でも、見せられなくて。いまさらなんて、思われるのがこわくて」
そのとき、美月のプリンの底から、小さな紙片が現れた。
「"ごめんね"は、いつだって届く。でも、温めないと読めない言葉もあるのよ」
「……それって、プリンみたいな?」
美月がつぶやくと、女性はうなずいた。
「そう。冷たいままじゃ、心の芯までは届かない。ちゃんと温めれば、言葉は溶けて、やさしさになるの」
プリンを食べ終えた美月は、胸の奥がふっと軽くなっているのを感じた。
さっきまで苦しかった「ごめんね」の言葉が、少しだけ言えそうな気がした。
帰り際、女性がそっと手のひらに何かをのせてくれた。
それは、うすいクリーム色の便箋と、封筒だった。
「もし、言葉を口に出せなかったら。書いてみるのも、ひとつの手段よ」
外に出ると、空気はまだ冷たかったけれど、不思議と寒くなかった。
ポケットの中の便箋が、心をそっと温めていた。
そして、月影亭の看板はやはりもうどこにも見当たらなかった。
でも、美月にはわかっていた。
きっとまた、誰かの"猫舌な気持ち"を温めるために、あの店は現れるのだろう。
「"ごめんね"を言えるあなたは、きっと、やさしい」
――便箋の裏に、小さくそう書かれていた。
はじめましての方も、おかえりなさいの方も、ここまで読んでくださり本当にありがとうございます。
第三話では、「言えなかったごめんね」という気持ちにそっと光をあててみました。
誰かとぶつかってしまったとき、謝るタイミングを逃してしまったとき、本当はちゃんと伝えたいのに、言葉がうまく出てこない――そんなことって、誰にでもあるんじゃないかと思います。
でも、どんなに遅くなっても、言葉は届く。
心をあたためることができたなら、ちゃんと届く。
この物語が、そんな希望を少しでも感じてもらえるものになっていたら嬉しいです。
あなたの"ごめんね"も、いつか、誰かの心にやさしく届きますように。
次回もまた、月影亭でお待ちしています。
――月影亭 店主より(のつもりで書いています)