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四 Ficus carica
僕は言葉に困った。こんな子供は知り合いにいないし、夜中の用水路で小学生が一体何をしているというのだろう。
「えーと、早くお家に帰らないとお母さん心配しちゃうよ?」
威圧的に見えないように腰を屈めて少女の目線に合わせながら、僕は恐る恐る言った。
「お母さんいない。」
「お父さん、」
「お父さんいない。」
僕と夏休み少女の間に気不味い沈黙が流れる。不味いことを言ってしまったかもしれない、と取り繕う台詞を探していると、少女は細い腕にはめた薄桃色の腕時計を一瞥してから眉をしかめた。
「ほら、時間ないから!」
何を?なんて質問できるより早く、少女は用水路の脇のガードレールをよじ登って僕の腕を引っ張った。その力は小学生女児のものにしては明らかに異常に強く、僕は「わっ!」と情けない声を出して柵を越えて泥濘んだ田圃の方に落っこちていった。
どす、と鈍い音を立てて着地したのは泥だらけの田圃、ではなく大きな工作用紙の上のように真っ白な場所だった。夜空も蛍も一瞬にして消え、虫の声も聞こえてこない。鼠捕りに引っかかった鼠みたいに辺りを見渡す僕を無視してお構い無しに少女は言葉を続ける。
「あと三十秒遅かったら、私が怒られるところだったね。」
「誰に?」
「偉い人。」
「偉い...?」
平面的な白がどこまでも広がる空間をもう一度見渡してみると、広さと狭さが共存しているような変な錯覚に陥って頭が痛くなってきた。僕の脳は奥行きを認識できずにぐるぐる思考を巡らせている。それに落っこちた衝撃で全身が痛い。
「ちょっと、惚けないでよ。来たことあるんでしょ?」
少女ははぁ、と呆れた顔でこちらを向く。
来たことあるっけ...?
夢で幾度となく見た場所は同じ白い空間なのに、何だか違う気がした。あの吐き気を催すような、何かが息を潜めてこちらを観察しているような不気味な空気はここにはない。
「今更だけど、花っていうんだよね?違ったら困るんだけど。」
少女は腰に細い腕をあてて、ふらつきながらようやく立ち上がった僕をじろりと見上げる。随分乱暴な攫い方をした割に、上から目線な言い分だ。
「いや、そうだけど...君は?」
いつ自己紹介なんてしたか、とまだズキズキ痛む頭を抑える。
「知らない人に名前教えたらダメなんだけど。」
少女がどこか自慢げに小学生のお決まり文句を述べたのを見て、僕はなぜか少し安心した。
「あ、でも面倒臭いから花にはカリカ、って呼ばせてあげるね。」
カリカは短パンのポケットに手を突っ込んだまま何だか誇らしそうに言った。
いつの間にか頭の痛さも消え去って、気付けば僕は久々に晴れ晴れとした心持ちでいた。ここには流石の借金取りも追ってこれないはずだ。そうだとすれば、僕はこのへんてこな小学生に感謝するべきである。
出会いとはいつも唐突で不思議なものだ。とりあえず着いてきて、と背を向けてすたすた歩き出した少女に、君は一体誰?なんて野暮なことは今は聞かないでおこう、と僕は思った。
晴れやかな解放感は長くは続かなかった。歩けど歩けど真っ白な空間は何一つ変わらない。立ち上がってみて分かったことは地面に少し勾配があるということくらいで、僕は今来た道を振り返ってみたりした。もう小一時間は無言で歩いている。
「どこに―」
「あ、言い忘れてたけどさ。」
言葉が重なって、僕の方が黙った。
「ここに一定時間いたら、花の知ってる人を見かけるかもしれない。触れてもいいし、お話してもいい。でも絶対、その人の名前は呼ばないでね。これ約束だから。」
「名前、?」
「うん。名前ってのはさ...重い、から。」
ほんの一瞬。いつかの夢で壁に触れた時の気色悪い鼓動が地を這って伝わってきたような気がして、僕は口を噤んでしまった。