公開中
部誌27:走れエンゲキブ
大変長らくお待たせしました。
ようやく走ります。
最近どんどん遅筆になってきて困る。
エンゲキブは激怒した。
必ず、かの邪智暴虐の部活に勝たなければならぬと決意した。
---
その日は、清々しく晴れていた。
夏から秋に完全に移り変わり、空の色は少し柔らかくなっている。少し肌寒くはあるが体育祭日和と言えるだろう。
この学校の体育祭は10月、文化祭の少し前に行われる。学園祭をまとめて行うのだ。
「美也ちゃん美也ちゃん、ハチマキズレてるから直すよー。ついでに猫耳にしてあげようか?あ、リボンみたいにする?」
クラスの女子たちがお互いにハチマキをいじっていた。より可愛く結ぼうと躍起になっている。
「遠慮しておきます……。」
自分でハチマキを締め直し、気合いも入れ直す。
「次は、中学1年生のクラス対抗綱引きです。選手は速やかに各色ゲートに集まってください。」
「次出なきゃだった!行ってきまーす!蛍にも負けないように頑張るよ!」
「行ってらっしゃい。」
蛍くんも出るようで、私達とは別の色のゲートに向かっている。
どこか、上の空だった。
「はたから見れば、私もそうなんだろうけどね。」
部活動対抗リレーはまだだ。お昼ご飯を食べてからなのだ。
現在時刻は11次50分。ちょうどこの種目が終わったらお昼ご飯である。
「伊勢谷くん。」
テントの隅っこ、握り拳を作って伊勢谷くんはグラウンドの方を見つめている。
焦点は合っていない。朱鳥ちゃんにも蛍くんには向いていない。
「……伊勢谷、くん?」
少々、タイムラグがあった。あったけれど、反応してくれた。
「天音さん。お疲れ様です。」
同じクラスなので会話するタイミングがあったが、今日はまだ話しかけられていなかった。
ジャージへの着替え、グラウンドへの移動、セッティング。やることが多かったというのもあるが、どんな顔で、どんな話をすればいいのか分からなかったというのが一番大きいだろう。
「伊勢谷くんも、種目お疲れ様。」
「結局4クラス中3位っていう微妙すぎる順位でしたけどね。俺が足引っ張ったから。」
「そんなことないよ、あれは個人戦じゃないし!伊勢谷くん、すごく頑張ってたでしょ?」
「俺の頑張りを見てくれる人なんていませんよ。」
「いるでしょ!ここに!」
「いや、本当に見てほしくない人はここに……。」
ゆっくり頭を垂れたかと思いきや、ゼンマイ人形のように跳ね起きて弁解を始める。
「あ、いや!天音さんたちに頑張りを見てもらいたくないとか、そういうことじゃないっていうか!」
「お母さんのこと?」
「……はい。」
言葉がじっくり選ばれてこぼされていく。
「一応、言ってはみたんですよ。体育祭、俺リレーとか出るから来てくださいって。華々しいクラス対抗リレーじゃありませんけど。走るは走るので、嘘はついてません。」
グラウンドの真ん中、何もないところをまた見つめる。しかし、そこ自体を見つめているのではなくて、伊勢谷くんはお母さんの顔を思い浮かべているのだろう。
「行けたら行くって。1ミリぐらい期待してたらこのザマですよ。だから信じられないんですよ、『行けたら行く』は!痛っ、小指が!」
勢いよく立ち上がったので、伊勢谷くんはそれはもう盛大に足の小指をぶつけて、飛び上がった。ギャグ漫画みたいに。
「大丈夫!?この後リレーなのに!」
「……大丈夫です。もう痛くありません。」
明らかに表情を押し殺していた。
「無理しなくていいんだから、ね?いざとなったら朱鳥ちゃんが走るし。」
絶対に負かしてやる!と息巻く朱鳥ちゃんの顔が脳裏に鮮明に描き出される。
「頭、冷えました。」
ついていた膝を伸ばして、席に座り直して。
何もないところから、蛍くんの方へと視線を向ける。
必死に、必死にロープを引っ張って、目の前にある勝利を手繰り寄せようとする蛍くんの姿へと。
「来ないものは来ないんです。俺にはどうしようもない。だから、今はどうにかできる方に全力を尽くします。桑垣さんは、『俺の時』とは違って、まだどうにかできるんだから。」
「部員みんなで応援してるよ。まだどうにかできる、から。」
どうにかできるうちに、後悔しないように。
私たちにやれることを、やるだけだ!
「うん、ここからならよく見えそうだね。ベストポジションだ。」
水筒片手に、ゲートに向かっている勇敢な部員たちを見つめていた美月先輩が呟いた。
迎えに来てくれた梨音先輩と一緒に集合場所に行くと、そこにはすでに私たち以外のリレーに出ない部員が揃っていた。
「それにしてもえげつないメンバーね。過剰戦力じゃない?あたしはそう思うけど。」
「あいつら、足が異常に速いからなー。絶対柿崎も宝川も俺と天より速いぞ。」
「伊勢谷慶くんも侮ってはいけないな。練習風景を見ている限りだと、柿崎麗奈くんにも宝川悠くんにも引けを取らない速さだった。それこそ、元々運動部にいたのかというくらいな。」
「ちゃんとあの部活とも当たるように出来てるの、すごいよね。そうだそうだ、観戦用の蜂蜜飴ね!」
観戦用でなくても蜂蜜飴を持ってきているような。ジャージのポケットからマジックのように吐き出される蜂蜜飴、そのうちひとつをありがたく受け取る。バレないように口に放り込む。
「結局当たれるのかどうか不安だったんだけど。偶然に感謝だ。」
「偶然じゃないだろう、確か柿崎って体育祭実行委員だったからな。|僕《やつがれ》の前で悪どい笑みを浮かべながら委員会に向かってたぞ。」
「柿崎麗奈くんの職権濫用じゃないか……。」
「まあまあ、終わりよければ全て良しだろ!」
「鳥塚、まだ始まってすらいないからな。」
そう言って、孤色先輩はグラウンドに向き直った。口元に指を持っていくが、タバコが今はないことに気づいて気まずそうに手を下ろす。
「選手入場。選手入場です。」
「おおっ、ついに来たわね!頑張れー!蛍ー!」
蛍くんが肩を大きく震わせた。ぎこちない動きで顔を上げる。
「蛍なら出来るよ!やっちゃえー!」
「……頑張ってー!」
朱鳥ちゃんにならい、私も声を出して応援してみる。途中で羞恥心が勝ち、声が絞り出すような変なものになってしまって、余計に恥ずかしい。
「3番レーン、演劇部。今年はどんな走りを見せてくれるのでしょうか。」
「去年は文化部とは思えない走りを見せてくれましたが、今年はどうなのでしょうか。」
私たちの方をじっくりと、蛍くんは見つめた。レーンの方に歩くのも忘れているようで、突然立ち止まっていた。
それから、ふわりと、花が綻ぶように微笑んだ。
「位置について!」
その表情が、私の瞼の裏に焼き付けられる。
「用意!」
軽やかな銃声、そして歓声とともに、部長も軽やかに駆けていく。
「速い!速いですね演劇部!」
あっという間に先頭に踊り出る……のだが、向こうの部活も負けていられない。すぐに追い抜かれる。
「飛ばしていきますね。」
「これは見応えがあります。」
長い足が、腕が、思い切り振られる。それでも1番との距離は、少しずつ広がっていって。
私の心にも、小さな不安の染みが巣食っていく。
「大丈夫かな?かなり表情が苦しそうだよ。」
「あたしたちに出来るのは、信じて待って応援することだからね!絶対に勝てる!って、口に出せばきっとそうなるよ。」
蜂蜜飴を一瞬で溶かし、大声を張り上げて応援する朱鳥ちゃんの姿が。
玉のような汗を額に浮かべて、バトンを伊勢谷くんに渡す部長の姿が。
今の私には、眩しくてしょうがなかった。
「伊勢谷!」
「はい!」
バトンの受け渡しはスムーズに終わった。
「すごくバトンの練習、頑張ってたよね。バトンパスで絶対差をつけてやる!って、あいつは息巻いてた。」
有言実行だね、と美月先輩は付け足す。実際、バトンパスの速度はどこよりも速い。
懸命に、懸命に前だけを見つめて走る伊勢谷くんに、後ろから選手が近づいた。
「あっ、抜かれた!」
梨音先輩が声を上げた時には、演劇部は3番目になっていた。
宣戦布告を仕掛けた部活。3年生のエースを投入してきた部活。
じりじりと縮まり、また広がる差が、私の心を弄んでいる。
「桑垣さん!よろしくお願いします!」
小さく頷き、バトンを丁寧に受け取った。
走り出す。
小柄な背中が、先頭を追う。
「タイムも結構縮んでたし、この調子ならまた抜き返せるな!」
その時だった。
蛍くんが足をもつれさせたのは。
スローモーションのように、緩慢な動きで蛍くんは地に臥した。
顔を顰めた。土埃が舞って、蛍くんを追撃する。
息が、うまく吸えなくなる。
「蛍くん!」
それでも、絶対に負けるものかと。
素早く身を立て直して、擦り傷ができた膝を苦々しく見つめて、足を動かし始める。
「うわあああああ!」
自らに喝を入れるかのように、大きな雄叫びをあげて、残り少なくなった宝川先輩との距離を縮めていく。
「……よく頑張った。」
確かに受け渡されたバトンが、恐ろしいスピードでグラウンドを移動した。
「せ、先輩ー!」
1人、あっという間に抜いた。
「おっと!ここで演劇部、一気にラストスパートをかける!」
「もしかしたら!」
「いや、もしかしたらじゃない。絶対!」
「宝川なら勝てる!やれー!」
部員たちが口々に、応援の言葉を投げかけた。
ゴールテープまで残り少し。
その差も、ほんの僅かだ。
「宝川先輩、頑張れー!」
私が今日1番の大きな声でそれを口にした瞬間、少しだけ速く演劇部がゴールテープを切った。
「1着は演劇部、演劇部です!」
「……や」
「やったー!」
部活動リレーが始まった時よりも大きな歓声が、グラウンドを包み込んだ。
「お疲れ様ー!」
「宝川、かっこよかったわよ!」
「え!?俺、かっこよかった!?ふ、ふふ、そうか……。」
帰ってきた勇者たちを取り囲んだ。
「部費増額らしいけど、何に使うんだ?」
「|僕《やつがれ》は音響のアップグレードに使いたいな!あれは古すぎる。」
「それ以外にもボロボロなところがたくさんあるからな。衣装代もあるし、大道具ももう少し買いたい。あとは収納か。」
「天は現実的だなあ。もっとこう、夢のあることに使おうぜ!」
そのうちの1人が、大好きな人から素直な褒め言葉をもらって照れ臭そうな笑みを浮かべた。
「良かったね、宝川。」
「しばらくの間、ずっとニヤケそう。」
「それは気持ち悪いからやめてほしいんだけど。」
「おい!ミツキ、お前なんてこと言うんだよ!」
地面にへたり込んでいる、その人の元へ渡すは向かう。
「蛍くん、伊勢谷くん、お疲れ様。」
「……あ、天音さんに青原さん。」
しばらく放心状態で宝川先輩をぼうっと見つめていた蛍くんが、こちらに気づく。
「はあー、疲れた。俺明日絶対筋肉痛っすよ。」
肩をぐるぐると回す伊勢谷くんの方に向くと、蛍くんは勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「……え?」
「いや、その、おれ転んじゃって、本当にギリギリになって……。」
またしゃがみ込んで、頭をぽかぽかと叩き出す。
「蛍さん。すごくかっこよかったですよ。俺、転んだ時点で諦めちゃいそうですし。」
伊勢谷くんはしゃがんで、蛍くんの背中を優しくさすった。
「蛍くんの根性、すごかったよ!よーく頑張った。」
朱鳥ちゃんも同じ目線で、蛍くんを褒めちぎる。
「本当にお疲れ様!自慢の仲間だよ、蛍くんも伊勢谷くんも、先輩も!」
「3人とも、おれ、おれ……!」
涙腺が決壊して、ポロポロと大粒の涙を浮かべる蛍くんの側に、私たちはしばらくついていた。
「あ、あと!宝川先輩超かっこよかったっす!本当好きっす!一生ついていきます先輩!」
突然、元気に宝川先輩の走る姿のかっこよさを語る蛍くんを見て、思わず私たちは笑ってしまった。
「あ、ちょっと!かっこよかったものはしょうがないでしょ。何笑ってるんだ!」
バシバシ伊勢谷くんの肩を叩いて、つきものが取れたような顔をした。
今日の青空にぴったりな、晴れやかな笑み。
「だって、突然ハキハキ語り出すんだもん。」
ちらりと、視線を横に向けた時。
部長が、グラウンドを1人で見つめていたのが目に入った。
「次は陸上部ですね。」
「今年はどうやら伏兵がいるようですね。3年生の……。」
「去年はいませんでしたよね。」
誰も寄せ付けたくない。
寄りつかせない。
柱にもたれかかって別の部活を眺める部長の目は、氷のように冷え切っていた。