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三文役者
地方都市の駅前、ロータリーを囲むようにタクシーが並んでいる。
夜はまだ浅く、店の灯りも人の声も残っていた。
それなのに、僕の足取りはひどく遅かった。
父が倒れたのは、三日前だ。
脳梗塞だと医者は言った。命に別状はないが、右半身に麻痺が残るらしい。
その説明を聞いたとき、僕は安堵した。
そして、その安堵を恥じた。
病室で父は眠っていた。
白いシーツの中で、呼吸だけが規則正しく続いている。
僕は椅子に座り、何をすればいいか分からず、ただ時計を見ていた。
「親孝行は、できるうちにしなさい」
母が、看護師のいない隙を見て小さく言った。
その言葉は、昔から何度も聞かされてきた。
いつも同じ調子で、同じ重さで。
だから僕は、いつも曖昧にうなずいてきた。
できるうち、という言葉の意味を、本当は考えたことがなかった。
父は、僕に多くを語らない人だった。
高校を出てすぐ働き、特別な成功も失敗もない人生。
少なくとも、僕にはそう見えていた。
病室を出たあと、母と近くの喫茶店に入った。
古い店で、砂糖入れの蓋が少し欠けている。
「お父さんね、若い頃は俳優になりたかったのよ」
母は、コーヒーをかき混ぜながら言った。
その声は、思ったより軽かった。
「オーディションも受けたって」
「本当?」
僕は、思わず聞き返した。
父の顔と、俳優という言葉が、どうしても結びつかなかった。
「落ちてばかりだったけどね。でも、最後の一回は、かなりいいところまでいったらしいわ」
それは、母にとっても初めて聞く話だったらしい。
父は、家族にも話していなかった。
「それで?」
「それで、あなたが生まれた」
母は、少し笑った。
「夢を諦めて、現実を選んだ。よくある話よ。シンデレラストーリーの反対ね」
僕は、その言葉にうまく返事ができなかった。
成功しなかった人生は、物語にならないのだろうか。
語られなかっただけで、そこにも確かに時間は流れていたはずだ。
帰り道、タクシーに乗った。
運転手は無口で、ラジオだけが流れている。
僕は後部座席に深く座り、シートベルトを締めた。
カチリ、という音。
それは、子どもの頃から変わらない。
父は、シートベルトにうるさい人だった。
短い距離でも必ず締めろと言った。
面倒だと思いながら、僕は従っていた。
「事故は、予告なしに来るからな」
その口癖を、ふと思い出した。
タクシーは交差点で一度急ブレーキを踏んだ。
前の車が、無理に割り込んできたらしい。
身体が前に持っていかれ、シートベルトが胸を抑えた。
痛みはなかった。
ただ、確かに、守られた感触があった。
もし、締めていなかったら。
そんな仮定が、自然に浮かんだ。
成功した人生と、そうでない人生。
守られた身体と、放り出された身体。
その違いは、結果としてしか語られない。
家に着くと、留守番電話が光っていた。
病院からだった。
父が目を覚ましたという。
翌日、再び病室を訪ねると、父は目を開けていた。
言葉はまだはっきりしないが、僕の顔を見ると、少しだけ口角を上げた。
「……帰り、気をつけろ」
かすれた声だった。
それだけだった。
僕はうなずき、何か言おうとして、結局何も言えなかった。
ありがとうも、ごめんも、出てこなかった。
親孝行とは、何をすることなのだろう。
一緒に過ごす時間か。
感謝を言葉にすることか。
それとも、ただ、生き延びることか。
帰り道、駅へ向かって歩きながら考えた。
シンデレラストーリーは、魔法で人生が変わる話だ。
けれど、現実の人生は、変わらないまま続いていく部分の方が圧倒的に多い。
父の人生も、僕の人生も、きっとそうだ。
大きな拍手も、劇的な転換もない。
ただ、日々の中で、ベルトを締め、仕事をし、誰かを守ろうとする。
それは物語になりにくい。
けれど、無意味ではない。
改札を抜ける前、僕はスマートフォンを取り出し、母にメッセージを送った。
「明日も行くよ」と、それだけ。
親孝行には、名前がないのかもしれない。
気づいたときには、もう遅いことも多い。
それでも、シートベルトを締めるように、
できることを、黙ってやるしかないのだと、僕は思った。
駅のホームで電車を待ちながら、父の若い頃の顔を想像した。
夢を見て、落ちて、別の道を歩いた男の姿を。
それは、誰にも語られなかったシンデレラストーリーだ。
ガラスの靴は残らない。
けれど、確かに、そこにあった人生だ。
電車が来る。
僕は一歩前に出て、線の内側で立った。