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9.及第点。
言われるがまま、その人の部屋へと入ってしまった。小学校の先生に、知らない人にはついていくなってよく言われたのになぁ。
そのまま、椅子に座るように言われて僕は椅子に座った。
僕が座った前にお茶とお茶菓子を出してくれて、その人は僕の前に座って口を開いた。
「名前、言ってなかったよね」
「私は|露崎 静佳《つゆさき せいか》、君は?」
綺麗な名前だなぁ、なんて呑気に思った。
漢字までは知らないけれど綺麗な漢字を書くんだろうな、なんて。
「ぇ……っと…、|柊木 怜夏《ひいらぎ れいか》です……」
「ふふっ、怜夏くんか」
僕の不甲斐ない声ですら優しく包み込んでくれて、優しく笑ってくれた。
「早速申し訳ないんだけどさ、さっき手首、異様に細かったよね」
「ごめんだけど……ちょっと袖まくるよ」
そこに露呈したのは、脂肪なんてなくて骨が目立つだけの腕。
「ぇ……っぁ…、」
戸惑う僕に優しく声をかけてくれながら、どんどん話を進行させる静佳さん。
「一日何食食べられてる?」
「一食……、しか食べれなくて…」
いつからだっけなぁ……、…食べれなくなったの。
これ以上食べると嘔吐物が口から出そうになって、苦しかった。油物なんて特に。
金銭面は楽にはなったけど、結局こんな痩せ細って不健康になっていくだけ。
「そうだよね…」
少しの間沈黙が生まれた後、静佳さんが口を開いた。
「……何でも話していいよ。誰にも言わないから」
僕のこんな腕も、こんな弱いところも、泣き虫で臆病なところを見ても何も言わずにただ受け止めてくれた。
「ほんとに…?、……なにも、……っ…だれにも、いいませんか、?」
だから、気持ちが高ぶってしまった。
身の上話を求められることなんてなかったから。
「何もかも完璧な僕」じゃなくて、「人間である僕」として、扱われることが初めてで嬉しかったから。
「私の君の約束ね。ね、小指出して」
言われるがまま、小指を出した。
静佳さんの小指と絡まり合い、静佳さんが優しく自分の腕を振った。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます、指きった」
幼稚なこと。すぐ破れてしまうような薄氷のような少しつついたら壊れてしまうそうな約束。
でも、次の瞬間には声を上げて泣いていた。
--- * ---
あの日から鳴り止むことを知らない、ノイズみたいなお母さんとお父さんの怒号。
浮気だ、離婚だ、なんてお互いを罵りあったり殴り合ったり。
まだ物心がついたばかりの頃には仲が良かったはずなのに、何があったのかなんて僕は知らなかった。
怖くてリビングには行けなかった。
僕の部屋のクローゼットに閉じこもって、そのノイズが鳴り止む時まで一人震えていた。
それが、一ヶ月ぐらい続いた。
突然と静かになったある日。
リビングに向かうと、そこに居るのは煙草を片手に持ったお父さんだった。
この家に残ったのは、お父さんと幼すぎる僕と部屋の中にほんのり香るお母さんの香水の匂いを掻き消すお父さんのタバコの匂い。
小学校でも中学校でも、受験に成功しても、テストで高得点を取っても、成績表が殆ど最高評価を取っても、友達と仲良くしても、ダンスに全力を注いでも、容姿を整えたとしても、僕が本気で頑張ったこともお父さんにはそれが当たり前でしかなかった。
「もっと頑張れるんじゃない?」
タバコを片手にお父さんに言われたそんな言葉。
心が締め付けられているみたいだった。それは、歳を重ねるほど強く締め付けてきていた。
僕は頑張ってもこの程度だから、これからもお父さんにとっては及第点でしかない人生を生き続ける。
その度に、僕は壊れていくような感覚に襲われるのに。
完璧にしないと殴られて、蹴られて、怒鳴られて。お父さんは成績表が殆どAでも、その中にある一つのBが気に入らないみたい。
僕が削れるだけでお父さんが笑顔になって、僕を褒めてくれるなら僕はどうなったってよかったのに。
褒めてくれたことなんてなかった。
笑顔を見たことがなかった。
中学3年生なりかけの頃に、33歳だったのお父さんが亡くなった。肺がんだった。
お父さんは喫煙者だったからそれがこの結果を招いてしまったのだろう。
葬式を終えても、火葬を終えても、捨てきれない名前のない感情。
悲しみでも、嬉しさでも、何でもない。心を締め付けて一生離れてくれない。苦しくても。
お父さんの死後、父方のおばあちゃんが引き取ってくれた。
おばあちゃんは60手前なのに30前半と偽証し外で30後半〜65の男を作っては捨てて、遊んでばかり。
おばあちゃんは本当に綺麗な人で、60なのに30だと言えるほどの美魔女だった。
そんなに綺麗な人でも、お金は週1で机に置いていく1000円のみ。
そこから食べ物やスーパー銭湯に行くお金を計算したら、土日はお風呂に入れなくて年齢も小学生だと詐称するしかない、食べ物もあまり食べることはできない。
家は生前のおじいちゃんがローンを返したらしいが、家があるだけ。電気や水道、その他なんかはさも当然のように止められていた。
高校生になった数ヶ月後、家を出て1人暮らしを始めた。
お金は勿論なくて、おばあちゃんの家でバイトを数ヶ月した後に家を出た。
週5〜週6でバイトを入れて、ダンスも頑張って、部活も頑張って、容姿も磨いて、テストも満点で順位も1位。
心も体も壊れた。倒れたこともあった。
でも、完璧にしないと怒れるから、もう痛いのは嫌だから、失望させたくないから。
あんな弱い僕、誰かに見せたら失望されちゃうから。
大学生になっても、金銭面的には少し余裕ができてもバイトは週5は入れている。単位も全て取る。実技テストも手を抜いたことなんてない。
でも、友達にも教授にも他学年の人にもそれは僕にとっての当たり前、それが及第点でしかないんだって。
才能だね、すごいね、なんて言われたら嬉しさよりも、強いものが僕の心を縛り付けてるのに。
いいなぁ、なんてもっと努力してから言ってよ。
もっと出来るんじゃない、なんて具体的にどこを頑張ったらいいのか教えてよ。
なんで僕に全てを投げ出しても、僕が出来なかったらそんなに怒るの?
僕は機械なんじゃないのに。
全て完璧にできる訳じゃないのに。
なんで僕に全てを完璧にしろなんて強要するの?
僕は人間なのに、ただの19歳の人間なのに。
表面だけ見て、なんで|裏面《ぼく》は誰も見ようとはしてくれないの。
--- * ---
話すつもりなんてなかったのに、結局全て話してしまった。
誰かが悪いんじゃないのに。
僕が出来ないのが悪いのに、完璧になれない僕が悪いのに。
こんな僕、死んじゃえば…、?
そうなれば、みんな救われるのになぁ。
「もういいんだよ」
「当たり前になるのは怖いよね。怖くて、怖くて、仕方がないよね」
泣いているのか、少し震えていた声。
僕に寄り添ってくれるような、優しくて温かい言葉と口調。
「………ぇ、?」
予想もしなかった言葉に、思わず口からそんな声が漏れ出てしまった。
怜夏くんに幸あれ。
担当:ツクヨミ
裏話。
怜夏くんの親の離婚の理由は
母親→夜の街に出かけて何度も男を作る、つまりは浮気。ホスト狂い。ヴィーガン。家ではヒステリックで、気に入らないことがあると子供(怜夏くん)に暴力を振るう。専業主婦だが、家事は全て子供(怜夏くん)に押しつける始末。
父親→会社の新入社員の女性と何度も関係を作る、つまりは浮気。煙草、酒、ギャンブルに依存症。金を溶かしている。母親や子供(怜夏くん)、特に子供(怜夏くん)に何度も暴力を振るう。