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⏳️第1話 『アケメネスの涙』
※この物語はフィクションです※
本作は実在の歴史的事件や人物をモチーフにしていますが、物語の展開、登場人物の言動や感情描写などはすべて創作に基づいています。
歴史的な正確さよりも「物語としての面白さ」や「人間のドラマ」に焦点を当てておりますので、学術的な世界史の参考資料としては使用しないでください。
また、歴史の情報で誤っている箇所があるかもしれませんが、ご了承ください。
歴史を学ぶきっかけとして、そして過去に生きた名もなき人々の物語に想像を巡らせる時間として、お楽しみいただければ幸いです。
*紀元前480年/ペルシア帝国・スサ*
砂の都スサが朝の光に包まれる頃、少年アケメネスは王宮の書記局の薄暗い部屋で、乾いた羊皮紙に黙々と筆を走らせていた。
まだ十五の若さだが、彼の記憶力と筆致の美しさは都でも知られており、クセルクセス王の侍史の一人として選ばれたばかりだった。
「戦は、ただ剣が交わるものではない。言葉と記録こそが、未来を築くのだ」
そう教えてくれたのは、年老いた師・バグスタンである。アケメネスはその教えを胸に、日々記録を綴っていた。
だが、その日届けられた命令書に、彼の運命は大きく揺れることになる。
――王、ギリシア遠征を決定す。選ばれし書記三名、随行せよ――
その命に名を連ねていたのが、アケメネスだった。
「王の遠征に同行できるとは名誉なこと。だが、それは記録する者にとって、歴史の火口に飛び込むことを意味する」
師バグスタンの言葉の意味を、アケメネスはそのとき十分には理解していなかった。
遠征軍は総勢二十万。ペルシアの威信をかけた大軍が、ヘレスポントス(現:ダーダネルス海峡)を渡る様は、まるで陸が海へ延びたかのようだった。
王クセルクセスは、父ダレイオスが果たせなかったギリシア征服の夢を継ぎ、神々の怒りをも越える力を示すと豪語していた。
「ペルシアの旗は、太陽のごとく昇る。エーゲ海の果てまでも、我らのものだ」
王の言葉は誇らしく、兵の士気を鼓舞した。アケメネスは日々その演説や出来事を記録し続けた。けれど、ある日彼は見てしまう。
飢えた民が、軍の通過によって奪われた井戸の水を求めて争う姿。略奪に遭い、泣き叫ぶ子供。兵士たちの無慈悲な刃が、無抵抗な者に向けられる瞬間。
「これも記録するべきなのか……?」
アケメネスの筆は震えた。
「正義は王にあり、我らはただ記録すればいい」
年長の書記官の言葉に、彼はうなずけなかった。文字は真実を刻むためにある。だが、いったいどこまでが"真実"なのだろうか。
ついに、戦の火蓋は切って落とされた。場所はテルモピュライの|狭隘《きょうあい》な山道。
わずか三百のスパルタ兵が数万の軍勢を相手に戦ったというあの戦場に、アケメネスは実際に立ち会うことになる。
戦は一方的だった。数に勝るペルシア軍が、次々とギリシア兵をなぎ倒していった。
だが、その光景には何か奇妙な緊張があった。スパルタの兵士たちは、死を恐れず、仲間のために笑って死んでいったのだ。
「彼らは、なぜ笑っているのだ……?」
アケメネスは、死んだ兵士の一人の指に握られた、小さな護符に気づく。
それは「名誉」と刻まれた青い石だった。
その夜、彼は震える手で日記にこう記した。
『彼らは、我らより弱し。しかし、魂は王よりも高く在りしやもしれぬ。』
だが、遠征は決して順風ではなかった。ギリシア軍は団結し、アテネの民は町を捨ててまで抵抗した。
クセルクセス王がパルテノン神殿に火を放ったとき、アケメネスはふと空を見上げた。
その煙の向こうに、どこか悲しげな顔をした女神の像が見えた気がした。
そして、決定的な敗北がやってくる。
サラミスの海戦――ペルシア艦隊は、狭い海峡でギリシアの小型艦船に翻弄され、次々と沈められていった。
王は怒り、命令を乱し、船が逃げ出す様を見て絶望の声をあげた。
その夜、王の幕舎から人払いが命じられる中、アケメネスはふと、王が静かに涙を流す姿を見た。
「なぜ泣かれるのですか、王よ」
問うべきではないと分かっていたが、言葉は口をついて出た。
王はしばらく黙り、やがて呟いた。
「私は、この世の全てを手に入れられると思っていた。だが――人の心だけは、刃では征服できぬようだ」
アケメネスはその言葉を、羊皮紙に記さなかった。
だが、そのとき自分の心に刻まれた言葉として、ずっと忘れなかった。
遠征は中断され、クセルクセス王は祖国へ戻る。アケメネスもまた、スサに戻った。
だが、少年はもはや元の少年ではなかった。
彼は、自らの手で記録を綴り直すことを決意した。
戦の名誉ではなく、民の苦しみを、兵の勇気を、王の孤独を――。
彼は師にこう語った。
「歴史とは、勝者の記録にあらず。
そこに生きたすべての者の、涙と希望の記録であるべきです」
師バグスタンは微笑み、老いた手で彼の肩を叩いた。
「お前が書くなら、未来もまた読み取ることができよう。書け、アケメネスよ。お前の言葉で、時を越えろ」
そして少年は筆を取り、こう書き始めた。
『この物語は、敗者の歴史である。だが、そこにこそ人間の誇りが宿る。
私はそれを"アケメネスの涙"と呼ぶことにした』
――時を超えて、それは誰かの心に届くために、いまも羊皮紙の中で生きている。
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~🏛️時代背景~
この物語の舞台は、今から2500年以上も前。
まだ世界に国境がはっきりなかった時代。
馬に乗った使者が国を横断し、王の命令が千キロ先まで届いた時代。
「書くこと」がただの記録ではなく、「国を動かす力」だった時代の物語です。
皆さんがもし、その時代に生まれていたら。
何を信じ、誰の言葉を残したでしょうか。
~👑用語解説~
◾️アケメネス朝とは?
紀元前550年頃に成立した古代ペルシアの王朝でら最盛期にはエジプトからインドに至る広大な領土を支配しました。
ダレイオス1世やクセルクセス1世などが有名で、ゾロアスター教や寛容な統治制度で知られています。ギリシアとたびたび戦争をし(ペルシア戦争)、世界史でも大きな役割を果たしました。
◾️スサとは?
アケメネス朝ペルシアの首都の一つで、行政の中心都市でした。王が住む壮麗な宮殿があり、多言語で記録を残す文書制度が整備されていた場所です。
当時の「世界の中心」に近い場所でもありました。
◾️書記とは?
古代の官僚制度において、命令や法律、記録を文字で書き残す役目を担っていた人々。読み書きができる知識階級として重宝され、国家運営の中枢を担いました。
物語の主人公である少年もこの「書記見習い」です。
◾️楔形文字とは?
メソポタミア文明で使われていた文字の一種で、粘土板に刻んで記録を残す方法です。ペルシアでも一部の公式文書で使われましたが、ペルシアでは他にアラム語なども広く使われていました。
◾️ゾロアスター教とは?
古代ペルシアで信仰された宗教で、「善」と「悪」の二元論に基づき、正しい言葉・思い・行いを重んじました。
火を神聖視する儀式などがあり、現在でもイランやインドに信者がいます。
ここまで、読んで下さり、本当にありがとうございます。
私は、ずっと昔から「歴史」が好きです。
でもそれは、有名な王や戦争の勝敗だけに興味があるわけではなくて。
どちらかというと、その時代の片隅で生きていた"名もなき人たち"に、どうしようもなく心惹かれてきました。
この短編集『時のかけらたち』は、そんな想いから生まれた物語です。
教科書には出てこない誰かの涙や決意、届かなかった手紙や、交わされたかもしれない会話を、想像という羽で拾い上げて形にしています。
歴史としての正しさよりも、「もしこの時代に自分がいたら?」と、そう感じられる時間を作りたくて書いています。
少しでも、読んで下さった皆さんの中に何かが残れば、それがいちばんの喜びです。
これからも、遠い時代の向こうにいる誰かの物語を、静かに紡いでいけたらと思っています。
また、次の時代の扉でお会いしましょう。