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八月三十二日のこと
あの夏を思い出すたび、決まって蚊取り線香の香りがした。
正確には、思い出したから匂うのか、匂ったから思い出すのかは分からない。
とにかく八月の終わりになると、決まって鼻の奥がつんとした。焦げた草みたいな、古い畳みたいな、あまり好きじゃない匂いだ。
昔、祖母の家では毎年それを焚いていた。
縁側の下に置かれた、緑色の缶と豚の形をした陶器。それから、渦巻き状の線香。
火をつける役はいつも祖父で、私は少し離れた場所からそれを見ていた。煙を吸うと身体に悪いと言われていたから、本当は近寄ってはいけなかった。
八月三十二日、祖父が死んだ。
もちろん、そんな日付は存在しない。
けれど私にとっては、あの日はどうしても八月三十一日の続きだった。
夏休み最後の日、祖父は「散歩に行く」と言って家を出た。
麦わら帽子を被って、首にタオルを巻いて。少し、サンダルを鳴らしながら。
暑いからやめた方がいいと祖母が止めたけれど、祖父は笑っていた。
「……すぐ帰る」
それが、最後だった。夕方になっても、祖父は帰ってこなかった。
祖母が少しずつ無口になって、母が警察に電話をかけて。親戚たちが、車を出した。私は、留守番だった。家には祖母と私だけが残されていた。
祖母は仏壇の前で何かを呟いていて、私は居間で高校野球の再放送をぼんやり見ていた。
窓の外で、蝉がうるさかった。
夜の九時を過ぎた頃、玄関が開く音がした。
祖父だと思って、私は裸足のまま玄関に走った。
そこに立っていたのは、ずぶ濡れの祖父だった。
外は確かに晴れていたのに。
祖父の服からはぽたぽたと水が落ちていて、玄関のタイルを濡らしていた。
帽子は、なくなっていた。
「おかえり」
そう言ったのは私だったか、祖母だったか覚えていない。
祖父は何も答えず、ただひどく疲れた顔で笑っていた。
「蚊が多かった」
祖父はそう言った途端、祖母が泣きながら怒った。どこに行っていたのか、何をしていたのか。どうして、電話にも出なかったのか。祖父は、何も答えなかった。翌朝、祖父は自室で死んでいた。眠るみたいに、静かだった。医者は、心不全だと言った。
年齢を考えれば、不思議ではないらしい。
でも、祖父の足には爪の間が黒くなるほど泥がついていた。
祖父がどこへ行って、何を見たのか私は今でも知らない。
ただ、祖父の葬式の日。棺に花を入れる直前、祖父の耳元で声がした。確かに、聞こえた。
「まだ夏は終わってない」
振り返っても、誰もいなかった。
線香の煙だけが、ゆっくり揺れていた。
それ以来、八月の終わりになると蚊取り線香の匂いがする。
祖父の家はもう取り壊されたし、祖母も去年亡くなった。
蚊取り線香を焚く人なんて、もう誰もいない。
それでもさっき、窓を開けた瞬間にあの匂いがした。
そして、玄関の外からサンダルを引きずる音が聞こえている。