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夢売り喫茶
アールグレイ
雨の降りしきる東京──。
オフィス街には色とりどりの傘を指した会社員たちがせわしなく歩いている。
麗奈「はぁ…」
その中で傘も指さずに水を全身から滴らせながら歩く女性の姿があった。
松島麗奈、23歳。
たくさん勉強してやっと就職した大手の会社。いつも支えてくれていた母に報告をしようと楽しみにしていたのに…。つい先日事故で亡くなってしまったらしい。
その上、彼女についたのは案の定のパワハラ上司。悲しみに浸る間もなく次々に仕事を押し付けられ、失敗すると大声で怒鳴られる。
彼女の人生は高い山を超えた後、すぐに谷底に落ちてしまったようだった。
視界が闇で染まっていくなか、ふと、都心には不釣り合いな小さな喫茶店の淡い光が差し込んできた。
こんな場所、あっただろうか。
麗奈はどこか暖かい場所を探すように扉に吸い寄せられていった。
マスター「いらっしゃいませ…」
扉を開けると木のドアについた鈴が鳴り、カウンター奥に佇む男性がまるで夢の中と錯覚するようなふわふわとした声で挨拶をした。
マスター「当店は"夢売り喫茶"でございます」
麗奈「夢売り…喫茶…?」
麗奈が不思議そうな顔をしていると、マスターが説明を始めた。
マスター「当店は、その名の通り、お客様にお望みの夢を提供しております。幸せな夢、面白い夢、怖い夢、悲しい夢…何でもございますよ。持続時間は5、6時間です。代金はお客様の何かしらの夢…。まずは好きなお席へどうぞ」
麗奈は今の話を飲み込むのに時間がかかっていた。とりあえず、ボックス席の角に座った。今までの疲れが全身にジンと染みた。
マスター「こちら、メニューでございます」
メニューにはメインとサイドが分かれて書かれている。サイドには、コーヒーやクリームソーダ、ナポリタンやプリンといった喫茶店の定番メニューに加えて、シャンパンやステーキなどの高級レストランのようなものまで載っていた。メインはというと、小さな小瓶がたくさん紹介されていた。瓶の中には靄がかかっており、それぞれ少しずつ色が違っていた。瓶の紹介文には、『海外に行く夢』『嫌いな人に復讐する夢』『リレーで一位を取る夢』…などと書かれている。代金の欄には、月のマークが1~5個で示されていた。
マスター「お客様はどんな夢をお望みですか?辛かったこと、忘れたいことなどを消してさしあげます」
麗奈「私は…、母を亡くしたことを忘れたいです」
麗奈はしばらく考える素振りを見せた後、囁くように語り始めた。
麗奈「母がいるから今まで頑張れたんです。どんなに辛くても母に話したら気が楽になるから。そこが拠り所だったのに…」
マスター「なるほど。でしたら、こちらの夢がお勧めですよ」
マスターが指差したのは、『大切な人の記憶を失くす夢』。代金は月が4つ書いてあった。
マスター「こちらの夢、かなり人気ですよ。代金はあなたの大切にしている夢です。月4つ分ですからかなり大事なものでないと支払いができませんが…どういたしますか?」
麗奈は正直半信半疑だったが、心にぽっかりと穴が空いたような今の自分ではこのようなものしか頼るしかなかった。
麗奈「__どうせ、私に大切な思い出は無いですから。__…お願いします」
マスター「承知いたしました。ではサイドメニューをお選びください」
麗奈は直感的にロックのお酒を頼み、マスターがカウンター奥に入っていくのをボーッと眺めていた。
しばらくするとマスターはジョッキに入ったお酒と小さな瓶、そして何やら杖のようなものを持って戻ってきた。
マスター「お待たせいたしました。それではまずはお客様の夢を頂きますね」
そういうとマスターは麗奈の頭に杖をかざし、靄を吸い込むように何かを抜き取った。
マスター「…なるほど」
マスターはにやりと笑うとその靄を新しい小瓶につめた。靄の色は黄色だった。
麗奈「…あの、何を?」
マスター「お客様の大切な夢…ご友人との記憶でした。花火を一緒に見られておりました」
麗奈「…そうなんですか」
麗奈はどうでも良いという様子で相槌を打った。
マスターは小瓶を大切に仕舞うと、ジョッキの中に紫色の靄を入れてお酒にかき混ぜた。黄色だったお酒がだんだんと濃くなっていく。
マスター「ではお召し上がりください」
麗奈はお酒の香りがとても魅力的に感じられた。
麗奈「頂きます」
恐る恐る口に含むと、頭がぼっと暑くなった。顔に火照りを感じ、視界がぼやけていく。麗奈はまどろみながらそのままソファに倒れていった。
麗奈「あれ…ここ」
気づくと麗奈は実家にいた。都心から離れており中々帰れていなかった家にとても懐かしさを感じる。
キッチンの方から包丁の音が聞こえ、出汁の良い香りがする。
麗奈がキッチンに向かうと、一人の女性がお味噌汁を作っていた。
麗奈「お、母さん…?」
亡くなったはずのお母さんがそこにいた。味噌汁も私の大好物だったものだ。
女性「…あら?」
女性は麗奈に気づくと穏やかな表情でこちらを見た。それは麗奈の大好きなお母さんそのものだった。麗奈の視界が涙でぼやけ、心に優しく火が灯る。
女性は少し困ったような表情をした後、こう言った。
女性「…どちら様かしら?」
麗奈は、一気にどん底に突き落とされたようだった。目頭が熱くなり顔が濡れていく。
麗奈「私は…!私は…(泣)」
麗奈は声を荒げて母の名を呼ぼうとしたが、呼べなかった。
麗奈「…私は、誰の娘だっけ…」
あぁ、もう思い出せないや。
戸惑う女性の顔がだんだんと薄れて紫色の靄にかかっていく。
目の前が真っ暗になった後、ほんのり明るい光が差し込んだ。
マスター「おはようございます、お客様」
麗奈が目を開けると、そこは喫茶店であった。
麗奈「…え?」
マスター「お客様、お酒を飲まれて眠ってしまっていましたよ」
記憶に無い。きっと上司にでも連れてこられた飲み会で無理やり飲んで倒れてしまったんだ。
麗奈「す、すみません!」
マスター「いいえ。もう代金は頂いていますので、落ち着くまでゆっくりしてくださいね」
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薄暗い住宅街を一人の少女が歩いていた。
少女「…うぅっ(泣)」
彼女は学校で友達にいじめられていた。いじめ、といっても目立ったものではなかった。ずっと一緒にいた子が他の子と班を組んでしまったり、いつもの待ち合わせ場所に来なかったり。偶然かもしれない。と思いたかったが、それが彼女にとっては深い傷を負わせた。
自分が辛くならないお友達が欲しい。気を遣わなくても良くて、いつも側にいてくれるお友達。
涙で顔を濡らしながらとぼとぼと歩いていると、ふと知らないお店の前に来ていた。綺麗とはいえない木でできたお店。どこか暖かくて少女には通りすぎるなんてことはできなかった。
気の向くままにお店に入ると、男性が優しそうな顔で立っていた。
マスター「いらっしゃいませ。丁度お客様にぴったりな『友達と花火を見る夢』、新しく仕入れておりますよ」
気づいたらすごく長くなってしまってました。
嫌なことが続いた日って自分の全部を否定したくなりますが、意外と幸せだった思い出ってたくさんありますよね。そういったことを忘れずに大切にしていきたいです。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。