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#17
「……見られたぁない、とは思うとったんじゃ」
レイラが絞り出すように言うと、ザンカはふっと口元を緩めた。
「そうじゃのう。じゃが、ここに描き残しときたかったんも、あんた自身じゃ」
ザンカは、まっすぐにレイラを見つめた。
「過去は消えん。じゃが、それをお前がどう塗りつぶすか、あるいは受け入れるか。それは、今のお前が決めることじゃ」
ザンカの言葉は、冷たいようでいて、どこまでも温かかった。彼が自分に「レイラ」という名を与えた意味を、彼女は改めて噛み締める。
窓の外の奈落の光が、壁に描かれた黒い月に静かに降り注いでいた。
レイラは、その光景を静かに見つめながら、ずっと胸の奥に抱えていた疑問を、衝動的に口にしていた。
「……ねえ、ザンカ」
「なんじゃ?」
「なんで、あん時」
レイラはザンカの方に顔を向けた。記憶の中で、奈落の底で震えていた自分に手を差し伸べてくれた、あの時の光景が蘇る。
「なんで、あん時僕と仲良くしてくれたん?」
ザンカは少し驚いたように目を見開いたが、すぐにいつものクールな表情に戻った。彼は壁の月に再び視線を戻し、少しの間、沈黙した。
「……あんときのお前がのう」
ポツリ、ポツリと、言葉を選びながらザンカは続ける。
「一人でおるんが、かわいそう思うたからじゃ」
飾り気のない、ぶっきらぼうな答え。
しかし、その言葉に、レイラの胸は熱くなった。ザンカは多くを語らない男だ。その彼が、「かわいそう」という感情を素直に口にした。それは彼なりの最大限の優しさだったのだろう。
「……そっか」
レイラはそれ以上何も言えなかった。ただ、ザンカに向けられた瞳は、確かな光を宿していた。過去の記憶の月は冷たかったが、今目の前にいるザンカの存在は、奈落の底で生きる自分を照らす、温かい光だった。
ルドが白いスプレー缶を抱えて戻ってくる足音が聞こえてくる。
レイラは壁の月を見つめた。もう過去に怯えるだけではない。この月は、今の自分を形作る一部だ。
彼女は心の中で呟いた。
(僕は、僕の月を塗りつぶすんじゃない。僕の月を、僕の色にするんだ)
🔚