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あの夏が飽和する。 1
晴瀬です。
1話です。
この話はカンザキイオリさんの『あの夏が飽和する。』という曲を基に創られています。
雨の音でパッ、と目が覚める。
暑い。
何も敷いていない部屋で寝ていたからか体が痛い。
大きく伸びをして欠伸を1つ。
暑い。むしむしする。
むくりと起き上がってエアコンをつける。
テレビのリモコンを手に取り適当に操作しニュース番組が映ったところでとめる。
「今日は東京では最高25度を超え、雨も降るため非常にじめじめとした、夏と梅雨が混ざったような一日になるでしょう」
テレビの中から話すアナウンサーの話を耳へ流しながらキッチンへ向かう。
冷蔵庫を開け溜め息。
飲み物すら何も、入っていない。
面倒臭いけれど買いに行くしかないか。
そう思う。
うちは母子家庭だった。
小さい頃から父親はいなくて、母さんに1回だけ聞いたことがある。
「なんでうちにはおとうさんがいないの?」
無邪気で無垢な子供の言葉だった。
母さんは見たことがないくらい優しい笑顔で、それでも闇を含んだ瞳で言った。
「お父さんは、棄てたの。私と、あなたを。
私も知らないどこかで綺麗な女の人と暮らしているのよ」
一語一句全てを僕に伝えるように、噛み締めるように言った。
これは聞いてはいけない話だと子供ながら本能が警告した。
もうこれ以上は訊いてはいけない。
「そっかあ」
僕は一言そう言ってその場を離れた。
それが正しい選択だったのか、今でも分からない。
母さんは僕が小さい頃から|所謂《いわゆる》水商売で働いていた。
なぜその歳になってまでそこで働けているのかは分からない。
そろそろ40歳くらいになると思っていた。
――歳と、話術と、顔が大事なの。
母さんの言葉が甦る。
僕が大きくなるにつれ、母さんは家に帰ってこなくなった。
今では月に一度生きるために必要なお金をまとめた封筒を僕が学校に行っている間に家に入り机に置いていく。
顔も、上手くは思い出せない。
でも会えば普通に喋れるのだ。
表面を、取り繕って。
僕は高校2年生の17歳。
ほとんど独り暮らし。
一人暮らし、ではない。独り暮らし。
孤独の独。
はあ、と溜め息をついてソファに無造作に置かれたキャップを被る。
エアコンとテレビを消して電気のスイッチを押す。
窓の外を一瞥して思う。
雨が降っていた。
何か、懐かしかった。何を思い出していたのか、分からない。
鍵を持って玄関のドアを開ける。
小さなアパートの2階の角。それが僕の家だ。
ドアを半分開けてあ、と思う。
傘。
玄関に置いてある棚の上に掛かった傘を掴みドアを開け外に出る。
暑い。むしむしする。
すでにおでこが汗ばむのを感じながら鍵を閉めさあ歩き出そうと何気なくドアの下を、ドアの右下を見る。
ちょうどポストの下辺り。
「さ、つき?」
その場に零れた言葉が僕の口から発されたものだと気付くのに随分と時間が掛かった。
「さ、大蔵さん?」
昔のように呼びそうになって、改める。
そこに、|大蔵《おおくら》|皐月《さつき》が、座っていた。
ずぶ濡れのまんま僕の部屋の前で。
梅雨時だからとはいえずぶ濡れすぎる。
体育座りで膝の中に顔を埋めていた。
雨で濡れた髪が頬にくっついている。
皐月が顔を上げて僕を見た。
薄く笑う。
訳が分からなかった。
頬の水は、涙のようにも見える。
「………ごめん」
大蔵さんが小さくか細く溢した言葉にハッとする。
来ちゃった、と動く口から声が出ることはない。
「あ、えっ、と、入る?濡れてるし、暑いし、雨、すごいし」
弾かれたように出した僕の言葉に大蔵さんは小さく頷いた。
僕は閉めたばかりの鍵を開けドアを開ける。
さっきまで寝ていたリビングまで戻り「ここに座ってて」と大蔵さんを座らせる。
僕はエアコンをつけ、キッチンに戻ったところで冷蔵庫には何も入っていないことを思い出した。
あああ、と冷蔵庫からものがなくなる前になぜ買い物に行かなかったのか少し後悔しながらリビングに戻る。
「ごめん、何も出せなくて」
そう言うと俯向いていた顔を持ち上げ大蔵さんは引き攣った笑顔を見せた。
「大丈夫」
夏が始まったばかりというのに彼女はひどく震えていた。
大蔵さん、大蔵皐月は中学の頃付き合っていた相手である。
中学2年か3年かのとき。
同い年で、モテる大蔵さんとモテない僕はなんとなく付き合っていた。
同じ高校に進学したとはいえ、クラスも違うし中学で既に別れていたため接点はほとんどなかった。
なぜ今になって家に来たのか、なぜまだ家の場所を覚えていたのか分からない。
「えっ、と風呂、入る?あの、すごい濡れてるし寒、くない?」
沈黙に耐えられずそう言うと大倉さんは静かに頷いた。
「お風呂、そこにあるから。服はその辺に置いておいていいし、あれなら洗濯するし変えの服は探しとくから、うん。あの、入ってって、いいよ」
たどたどしく説明すると大蔵さんは静かに立ち上がった。
綺麗に揺れる黒髪が、ひどく不気味に見えた。
大蔵さんが洗面所に入りドアを閉めた音がしたのを確認して僕も立ち上がる。
タンスを漁りながら考える。
この辺に昔母さんが着てたワンピースがあったような。
服を出したり片付けたりしながら探すとやっと見つかった。
それを手に持ち洗面所に入る前に一言声を掛ける。
「皐月、入るよ」
「うん」
と声が聞こえた。
扉を開け服を置いておく。
サイズもきっと合うはず。むしろ母さんは人よりも大きいサイズを買う人だから。
それから暫くリビングでごろごろしながらテレビを観ていると大蔵さんがリビングに入ってくる。
白いワンピースはよく似合っていた。
清楚な顔立ちの大蔵さんの白いワンピースほど似合うものはないと思っていた。
「お風呂ありがとう」
一番最初よりかはずっと表情が柔らかい。
僕と大蔵さんは向かい合って座る。
テレビから流れる軽快な音楽がその場を支配していた。
「なんで、なんで来たの」
皐月が僕の目を見る。
何かを怖がるような目でもあった。
「皐月で、いいよ。
皐月ってずっと言いかけて大蔵さんって言ってたでしょ」
そう前置きおいて皐月は話し出す。
想定もつかない、皐月の噺を。
「昨日人を殺したんだ。」
彼女は確かにそう言った。
聞き取れた。それは自分でも分かっていたけれど、にわかに信じられず聞き返す。
「え?」
「昨日、人を殺したんだ」
「人を殺した?」
「うん、私は人殺し」
「昨日、私は、人を殺した」
何度も何度も皐月は噛み締めるように言った。
「誰」
僕は言葉を溢す。
言ったとかそういうのじゃなく、溢した。
「あいつ」
「あいつ、って」
思い当たる節があった。
中学の、付き合っていた頃彼女から相談を持ち掛けられたことがあった。
「あの子から物を隠されたり悪口を言われたりする」
と。
強気な皐月がそんなことを言うなんて珍しいと思った。
あれから皐月が“あいつ”と呼ぶのはただ1人、そいつだけになった。
「隣の席の、いつもいじめてくるあいつ」
彼女の話は続く。
いつの間にか、あいつと皐月は同じクラスになっていた。
隣の席だったのは、初耳。
「塾の、塾の階段のところまでついてきてさ、もう嫌になって肩を突き飛ばしたら階段を転げ落ちて、それで、打ちどころが悪かったみたいで」
皐月は言葉を次いだ。
「もうここにはいられないと思うし、どっか遠いところで死んでくるよ」
彼女の長い髪が揺れた。
そんな君に僕は言った。
言ってしまった。
「それじゃ僕も連れてって」