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白と黒のグリンプス 4
「ッ人虎!」
異変に気づき、叫んだ時には既に遅かった。
朝焼け色の目は催眠術に掛けられたように曇り、何も映していない。
否──手鏡のみを映している。
見えない糸を辿るように伸ばされた手は、手鏡に触れようと動いている。
(、 !?)
生気の感じられない、幽体のような形で引き寄せられていく人虎を引き留めようと|帯《ベルト》に手を伸ばした。
その時、気がついた。
此の行動は、悪手だと。
其の鏡に近づいてはならなかったのは、人虎だけでは無かったのだと。
(|失敗《しくじ》った……!)
然う認識した時。
其の時には、目は既に映り込んだ自分の姿を捉えていた。
同時に、辺りに霧が立ち込め始める。
掴んでいたはずの布の感触も薄れ、自分が立っているのかすら分からない。
妙に息苦しくなり、激しく咳き込んでしまう。
苦しさに瞑っていた目を開くと、霧が少し薄まり始めている。
(羅生門が扱えるところを見ると、澁澤のような異能ではないようだが……)
其の時、新たな気配を感じ、はっと顔を上げる。
霧の向こうに黒い影が見える。
いつの間にか人虎の姿は消えていた。
影の背格好は大人には到底見えない。
訝しみながらも少し其の影に近づいた。
あれは……
「銀?」
今の銀ではない。それはそれは幼い銀。
体調が悪いのか蹲って汗を額に浮かべている。
つい其の姿に近づこうと動くと、向こうからもう一つの影が動くのを捉えた。
『ぎん』
『にいに……?』
自分だった。
薄汚れた服を纏い、羅生門を満足に操ることすらできなかった頃の自分。
其の手には何粒かの錠剤が握られている。
貧民街では手に入れることが難しいような品。
(盗んだのだ)
自分のことだ。誰よりもわかっている自負がある。
幼い妹を治すために、人から強奪したのだ。
幼い銀がそれに手を伸ばしたところで、二人は砂のように掻き消えた。
「……」
幻像だろうか。
見ていて気持ちの良いものではない。
其の時。今度は後ろから強い殺気が感じられ、振り向いた。
殺気が向けられていたのは自分ではない。
だが、殺気を放っているのは自分自身だった。
後ろ手に、銀を庇いながら。
自分が羅生門を動かした。
相手を傷つかせ、怯ませたのだろう。
服に僅かに血が舞った。
幼子は其の姿のまま銀を振り返る。
『銀』
其の声は薬を渡した先程よりも大人びており、そして──
『もう大丈夫だ』
そして、僅かな甘さを纏っていた。
ぞわり、と背が逆立つ。
健全な甘さでは無い。この世の全てを相手に託したような、依存的な甘さ。
然うだ。
此の頃の自分の世界は、其の全てが妹に委ねられていた。
まだ七つにもならない、いつ死ぬか分からない妹を守り抜くことが、全てだった。
けれど、幼い自分は、幼い銀は、それに気付かない。
『うん』
銀が頷き、二人は砂城が崩れるようにして消えた。
その後も、二人は少しずつ大きくなっていく。
昔の仲間も現れた。
そして──
『ッ!』
あの出来事が起きた。
無惨にも殺された仲間たち。
命辛々逃げてきた銀。
彼らが砂のように消え去り、今度は別の場が現れる。
月、木、影、切株。
ここまでの幻像の傾向から、覚悟していた光景。
切り株の上に、王者のように座る──太宰治。
ぶら下がった希望と未来しか眼中にない自分。
『生きる意味を、与えられるか?』
『与えられる』
肩に掛かる外套。
慟哭。
月。
其れは、自分を象徴する、忘れられない場面で、そして──
恐ろしかった。
は、と息が漏れる。
自分の“其れ”は、悉く歪んだものだった。
太宰さんに、今の自分が向けているものではない其れ。
自分とは思えなかった。
けれども其れ等は、確かに自分が経験したことだった。
気付けば、二人は消え、場面は変わっている。
自分はもう18程だろうか。
殆ど今とかわらない。
『今度こそ、彼の人に認めさせる──今度こそ』
既に太宰さんがマフィアを離反してから数年が経った頃のことだ。
自分を部下として認めていないから、自分達の元から消えてしまったのだという思いが現れていた。
「……」
もう、見ることを辞めたかった。
けれど、然う強く願えば願うほど、幻像は存在感を増して行く。
惚けたように、それでいて確と幻像を見つめ続けた。
最後に現れたのは、白い|遮光布《カーテン》。
「、 」
何故。
然う思った。
『貴様は|僕《やつがれ》の相棒だ』
何故、此の場面が現れる?
ここまでの傾向からして、幻像として現れる基準は──。
其の時、|白い幻像《あつし》がふわりと笑った。
(嗚呼)
此れは──該当しているのかもしれない。
何故、太宰さんが中也さんの側にいる時に、あんなにも楽しげにするのか。
その理由がわかった気がした。
笑みを見た時に湧き上がる此れを否定することは出来なかった。
到底自分らしくはないもの。
其れを認めた瞬間、目の前にいた二人はふっと消え去った。
これまでのように、崩れるのではなく。まるで桜吹雪が舞うように。
(綺麗だ)
然う素直に思った。
此れは褒められるものではないが、隔たりが溶けていった姿は美しかった。
けれど、現実で此れが美しいものとなることは未来永劫ないだろう。
ふう、吐息を吐いた、その時。
「、 敦?」
小さな悲鳴が聞こえた。
(何処だ)
辺りをちらりと見るが、白い霧が纏わり付くばかりだった。
そんな間にも微かな嗚咽と悲鳴が続く。
焦燥感に駆られ、何処へともなく一歩を踏み出すと、白い霧が晴れた。
否、白い空間の中だった。
(此処は……!?)
思わず無防備にもぐるりと辺りを見る。
其処で、見つけた。
空間の端の方だろうか。
白い旋毛を此方に向け、座り込んだ姿があった。
「ゃ、ゃめ……ぃたいッ……ひっ」
時折上がる小さな悲鳴。痛みを耐えるように足先を掴んでいる。
守るように前に突き出された右手は、来るなと牽制しているようにも見えた。
(……何故)
何故、守るために異能を使わぬ。
然う思った。
それと同時に、少し前のことを思い出した。
『芥川』
『僕は、愚かか?』
『あの記憶から逃げたいと思うことは下らないか?』
あの言葉は、此奴の恐れと、心を如実に表した、叫びだったのではないか。
異能が恐ろしい。
記憶が恐ろしい。
師が、恐ろしい。
自分が──恐ろしい。
『ああ、下らぬ』
『何故ならば、苦しめる過去の言葉と貴様は、本質的に無関係だからだ』
|僕《やつがれ》の言葉もまた、叫びだった。
今、貴様は再び叫んでいる。
怖い。
痛い。
助けて。
他人の痛みを自らの痛みに変換してしまう故に言い出せない叫びを、自分は受け止めてられるだろうか。
相棒であると言うことすら出来なかった自分にも、叫びを聞き入れることが。
サラリ。
指に、何か通りの良いものが触れる感触がした。
気づけば伸ばしていた手は、確かに、白に触れた。
---
僕と、僕ではない黒が映った──然う認識した時には、僕は白い霧に包まれていた。
何で触れてしまったのだろう。
触れてはいけないこと、映ってはいけないことは分かっていたはずなのに。
自分の失敗で芥川までも巻き込んでしまったことが腹立たしい。
悔しさに唇を噛んでいると、小さな声が聞こえた。
後ろからだ。
(敵!?)
警戒心を露わに振り向くが、其処にいたのは敵では無かった。
──否、敵と言えるのかもしれない。
『ふぐっ……う……ふ、うぅ……ぁ』
痛い。
苦しい。
何故。
声を発する其れと、僕の心は同化していた。
白い、幼子。
僕だった。
懸命に目を擦りながら嗚咽を押し殺す子供。
堪えきれなかった雫が服に染みを作り出している。
その姿に足が竦んで動けない。
その間にいつのまにか幼い僕は消えた。
『彼奴がやった』
『自分の足に打て』
『私が憎いか?』
『地下に繋ぎなさい』
同室だったあの子。女性の先生。そして──
──院長先生。
絶望と、憎しみという歪んだ慈しみを渡してきた人が、入れ替わり立ち替わり現れる。
やめて。
然う口に出したのは、自分か、幼い自分か。
もう分からなかった。
痛い。
然う叫ぶ自分と。
仲間がいる。
然う背を摩る自分がいる。
弱い自分が嫌だ。
けれど、僕は強くなった。だから──。
──否、然う言えるか?
Qに襲われた時、僕は自分を憐れんだ。
船上で僕は芥川が倒れるのを指を咥えて見ているしか出来なかった。
空港では、芥川に叱咤されるまで、人々とドストエフスキーの何方を優先すべきか決められなかった。
異空間では、自分の幻想とはいえ太宰さんや芥川、院長先生を作り出さなければ進めなかった。
探偵社の人たちが空港に再び現れてくれた時、自分は安堵に涙を溢してしまった。
(否、違う)
だって、僕は。
探偵社の一員だから。
芥川の、相棒だから。
いつの間にか幻像は、その場面になっていた。
そうだ。
僕は芥川の相棒だ。
隣を許してくれる人がいる。
そう思った矢先。
幻像が変化した。
「僕……?」
それは、確かに僕だった。
同じ、齢18歳の僕。
けれど、何処かが違う。
僕は、そんな──
『邪悪じゃない?』
「!」
目の前の“僕”は言った。
そしてケラケラと笑う。
『嘘吐き』
童のような笑みのまま、素直な邪悪さを言葉に乗せて口から吐く。
『“僕”は暴力的で、邪悪な怪物だ。分かっているだろ?』
「やめ……」
喉が張り付いて声が出ない。
掠れた静止の声を絞り出すと、目の前の“僕”は掻き消えた。
“僕”は。
『敦くん』
「だ、ざいさん……?」
右の方から違う声が聞こえた。
嗚呼、これも何処か違う。
確かにあの人は意味不明で掴みどころがないけれど──。
『君には失望した』
偽物だ。
信じるな。
そう幾度も幾度も念じても、不信がヘドロのように溜まり始める。
本当に、彼の人にそう思われていないと確信できるか?
『君に“新たな私たち”は任せられない。私の目は間違いを起こしたみたいだね』
「待っ……」
外套の裾を掴むように手を伸ばす。
が、それは直ぐに痛みに変わった。
弾かれたのだと、考えるまでもなくわかる。
目の前の気配が消えた。
『人虎』
「ッ!……」
新たな気配は、後ろからだった。
「芥川ッ……」
『その口で名を呼ぶな』
ぴしり、と鞭を打たれたような痛みが言葉と共に降り掛かる。
『……』
その現像は、何も言わなかった。
ただ、僕が言葉を発そうとした事を、威圧で沈黙へと薙ぎ払う。
「待って、」
『弱者め』
その薄い唇が紡いだ言葉は、これ迄のどんな言葉よりも響いた。
『|僕《やつがれ》の、一障害にも成らん』
手が震える。
喉が渇いた。
痛い。
くるしい。
たすけて。
救いを求めて再び手を伸ばす。
その手には、痛みは感じられなかった。
ただ、何も感じられなかった。
向けられたのは、殺意も何も無い、凪きった瞳。
無関心だけが刻まれた二つの洞穴。
喉の奥から悲鳴が漏れた。
立ち上がれない。
孤独が、怖い。
こわい。
いたい。
たすけて。
……さむい。
その時だった。
頭の辺りに、細く、強い何かが触れた感触がした。
不確かな柔らかさで、一回。
確かめるように、二回。三回。
僅かに顔を上げたことにより、広まった視界に映ったのは。
「な、んで」
黒い、温かな外套。
嗚呼、これはきっと幻像じゃ無い。
「貴様はよく疑問を口にするな」
不器用で荒削りすぎる優しさは、本物の貴方しか持たないものだから。
・
眠り姫です!
まず謝罪をしましょう。
更新遅れてすみませんんん!
そして。
敦くんごめんねええ!
ごめん、こんな可哀想すぎる仕打ちをしてごめん。
いや、本当。反省してる。
改善しないけど。
私の鬼畜振りが……w
そして、芥川くんがスパダリになった、だと……!?
なんか、よく分からなくなってまいりましたよ!?
更新なるべく早く頑張りますので、気長にお待ちください。
では、ここまで読んでくれた貴方に、心からのありがとうを!