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愛も恋も、きっといつかは忘れていく。
身体を起こし、組み敷いた彼女の体を見下ろす。真冬の布団のなかで寝ているときと変わらない表情。まだ温もりの残る身体。片手でそっと頬を撫でて、再び刃を手に取った。滑らかな肌だった。
服を切り裂いた。下着も切って取り外した。くっきりと走る鎖骨、うっすらと覗く胸骨、少し盛り上がっているだけの乳房。初めて見る裸のに、冷たくて薄い感覚以外は何も覚えない。視界がぼうっと揺れた。
胸骨の隙間、乳房の下、少しだけ左の部位に刃を突き立てた。すっと、折った紙を半分に切り分けるような音がして、ずんずんと奥に奥に吸い込まれていく。血は流れてこなかった。
黒いとも赤いともつかない物体。インターネットで見たことがあるようなもの。拳ひとつにも満たないような丸いもの。血の海に揺蕩うように、呑まれるように存在していて、思ったより掻き分けなければならなかった。
「……動いていれば、なお良かったのに」
ふと表面に触れた。ゼリーかグミに触ったときのように、ぐにゃりと歪む。ゆっくり引っこ抜いた自分の指が赤黒く染まった。指先に滴を作り、音もなくぽたっと落ちる。
「……はは」
廊下の端で崩れ落ちて、震えながら泣いていた彼女の姿を思い出した。過呼吸で制御を失った、ゼーゼーともハーハーともつかない荒い音。床に落ちる雫。そのとき必死に抱きしめた身体は、まだ今よりかは温かった。
胸骨ごと心臓を押しつぶされるような、直で締め上げられ殴られるような感覚。両腕で覆っても、守ろうとしても止まらない痛み。分からないわけではない。今すぐにでも自分の魂が肉体を飛び出して、彼女の心臓に飛び込んでしまいたかった。今みたいに、そっと手を伸ばして触れることくらいできただろう。抱きしめて、代わりに覆ってやって、安心して息させられたはずだ。
チリリと痛みが走った。心臓のあたりだ。徐々に浸されていくような、そんな感覚に陥る。ああ、ようやく触れられたときには、このザマか。開けた傷口に唇を近づけた。錆びた鉄の匂いがする。目を瞑った。
舌の感触だけを頼りにして、そっと舐めとる。柔らかい。舌の端が心筋の上をぬるっと滑った。血の味がする、当たり前。何ともいえない高揚感を覚えた。ドクドクと脈拍が速まる。
「──なあ。」
呼びかけてみても、反応などない。ぽた、ぽた、と血の海に吸い込まれていく雫は、いったい誰のものだろう。ああ、ああ、と呻くような声は、誰のものだろう。世界から音が消えていく。自分と、目の前の肉塊だけが残される。
全身から力が抜けていった。ばた、と目の前に倒れた。ずしり、と真下の感触が伝わってくる。意識が剥がれていくような、ぐんぐん天に引っ張られていくような眠気に襲われた。次に目覚めることはあるのだろうか。なくてもいいかもしれない。
ふーっと息を吐いた。消えていくに身を任せる。生きても死んでもどちらでもよい。いつかはきっと、この微かな記憶も消えていくのだから。