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またね、の距離
2025/09/05 またね、の距離
「今、あたし矯正してるんだけど、まじでやめたーい!」
休み時間、あたしは嘆いた。友人たちが笑う。そのうちの1人、美香が身を乗り出した。「私もそろそろしよっかーみたいになってるんだよねーいやだぁー」美香も同じように嘆いた。あたしはその手をガシッと掴む。ああ同士よ。そういうと美香はやだーと声を上げた。またみんながあははと笑った。あたしは口を開いて歯を見せた。歯というか、歯についた器具。「この器具のせいで思いっきり笑えないんだよ、歯医者も月一で行かなきゃでしょー、もう最悪!」「まあ咲子は思いっきり笑ってると思うけどね。てか、歯医者そんな頻度で行きたくないよぅ。え、痛い?」「そりゃ痛いよ!」美香がきゃーっと大袈裟な演技をして、あたしは笑ってしまった。
「うー、やだなー」美香が項垂れてため息をついていると、暗い声が聞こえた。「矯正できるなんて良いじゃん。それに文句垂れるとか、どんな身分なんだよ」嫌味ったらしいネチネチとした口調。声の主はクラスメイトの長谷川さんだ。あんまり話したことはない。無口だし、いつも1人でいるし、孤立してるかんじ。美香や友人たちがやっちゃったという顔をして黙り込んだので、あたしが反論する。「いや、長谷川さんには関係ないし!何がしたいわけ?」長谷川さんは眉を顰めて、さっきよりも大きな声で言った。「恵まれてるのにぐちぐち言ってんのが、きもいんだよっ」クラスが静まり返った。「…はー?自分は恵まれてないとか言いたいわけ?何、ショーニンヨッキュウ?」あたしは思わず席をたった。そのまま長谷川さんの席に行き、彼女の机をバンッと叩く。長谷川さんの肩がはねた。「あんたのことなんかキョーミないし、あんたに向かって言ってたわけじゃないし!ジイシキカジョウすぎ!」「ちょっと咲子、言い過ぎ、やりすぎ、落ち着いて」美香が慌てたようにこちらに駆けてきてあたしの腕を掴んだ。ずるずると引き摺るようにして友人たちの元に戻る。長谷川さんは呆然としている…ように見えた。「咲子、あーゆーのはダメだよ。先生に怒られちゃうから」美香は先生とか親とかに怒られるのを極端に嫌う。「でも長谷川さんだって悪いじゃん」あたしはまだ怒っていた。そもそも最初にふっかけてきたのは長谷川さんの方なのである。あたしは何も悪くないはずだ。美香が口を開いて何かを言いかけたその時、チャイムが鳴り響き、あたしたちはそれぞれ自分の席へ散っていく。
放課後、美香と一緒に帰っていると、長谷川さんの姿を見かけた。橋からぼーっと下を流れる川を眺めていた。あたしがうわーなんて思っていると、美香が急に走り出した。「長谷川さん!」え、ちょっちょっと、急になに!戸惑いながらも美香を追う。長谷川さんは弾かれたように顔をあげ、私たちを見てギョッとした。あたしだってギョッとしている、美香に対してだが。美香は長谷川さんの隣に立って、口を開いた。
「ごめんね」
その言葉にあたしと長谷川さんは驚いた。「謝る必要なんてないでしょ、美香!」あたしが言うと、美香はううんと首を横に振った。それどころか、咲子も謝ってなんて促してくるのだ。意味がわからない。当然、嫌。あたしは悪くないもん。そう言うと、美香は眉尻を下げた。美香がなにを言いたいのか理解ができなくて苛立った。こういう曖昧なのが、1番鬱陶しい。
「ごめん」一瞬、誰の言葉なのかわからなかった。「ごめん」同じ言葉が繰り返された。長谷川さんの口から放たれたものだった。あたしと美香は同時にえっと声を上げた。「2人への謝罪だから、2回」長谷川さんは視線を逸らした。なんだかバツが悪そうに、なんだか恥ずかしそうに。彼女が謝ってくるなんて全く想定していなくて、あたしは言葉に詰まった。しかし美香は嬉しそうに「いいよっ」と答えた。そしてあたしの方を見て、大人びた不敵な笑みで言った。「あとは咲子だけだよ?」あたしはまた、えっと焦った声を出した。なんであたしが謝らないといけないわけ。でもこれって謝らなかったら子供っぽいって思われるよね?それに失望されそうだし。だけど、謝りたくない。あたしは悪くない。…本当に?自問自答を繰り返す。「咲子」美香があたしの名前を呼ぶ。「謝って」どこか圧を感じた。「…ごめん」謝らなかったら、ずっと謝ってって促され続けるんだろうし!心の中で言い訳をする。「これでいいんでしょ!」「さあ、それは長谷川さんが決めることだもん」長谷川さんに視線をやると、彼女もえっと困惑の声。「え、あ、全然、いいよ」安心する私に対して、美香は「だって、よかったね」と弾むような口調で優しく笑った。
「じゃあ私、帰るね」長谷川さんがそう言って歩き出した。少しずつ遠ざかってゆく背中。あたしは美香にぼそっと訊ねた。「あっちって住宅街とかじゃなくない?わかんないけど」美香も声をひそめた。「長谷川さんは、養護施設で暮らしてるらしいからね。こっちにきたばっかの咲子は知らないか」息を呑んだ。養護施設なん馴染みのない言葉。あたしは、今までの長谷川さんの言葉の全ての意味を理解してしまった気がした。
「長谷川さん!!」
精一杯の声量で彼女の名前をよんだ。視界の端で、美香が驚いた表情を浮かべたのがわかった。
こちらを振り返る長谷川さんに大きく手を振った。
「またねー!!」
「あ、ま、また明日ね!!」美香も戸惑いつつ、あたしと同じように手を振る。長谷川さんの片手が上がったのを見て、あたしは頬が緩んでいくのを感じていた。
「てか、美香の謝罪に対して、長谷川さん、いいよって言ってないじゃん」
「あっ」
美香のひじを小突いた。