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裏切りと再生のコード
んなっげええええええっ
真夜中の帳が下りる頃、東京のきらびやかなネオンも、高層ビルの窓の光も、すべてが虚ろに見えた。
大手証券会社のエリート社員、橘 涼介は、デスクに突っ伏したまま、ぼんやりとモニターの株価チャートを眺めていた。彼の表情には、疲労の色よりも深い、底知れない絶望が張り付いている。
わずか半年前、涼介は時代の寵児だった。
彼が手掛けたAI投資システム「ミダス」は、発表と同時に市場を席巻し、瞬く間に億単位の富を生み出した。
メディアは彼を「ウォール街の若き革命家」と持ち上げ、社内では次期役員候補と目されていた。
誰もが羨むようなキャリアの絶頂。
しかし、その輝かしい道のりの裏には、彼自身の密やかな「裏切り」が隠されていた。
---
事件はあっけなく、そして無慈悲に訪れた。
ミダスが市場を席巻するにつれて、わずかながら、奇妙なバグが報告されるようになった。
最初は些細なものだった。
小数点以下の誤差、ごく短時間のシステムフリーズ。
涼介は当初、開発段階でのわずかな見落としだと高を括っていた。
しかし、
次第にその頻度と規模は増していった。
そして、決定的な日。
世界の金融市場が、ミダスによって大混乱に陥ったのだ。
システムが暴走し、誤った取引を連発。
瞬く間に何兆円もの損失が発生し、世界経済は未曽有の危機に瀕した。
緊急対策室で、涼介は青ざめた顔でスクリーンを見ていた。
ニュース速報は、ミダスが引き起こした未曾有の金融危機を一斉に報じている。
画面に映し出される、青白い数字の羅列。
それは涼介の未来を食い尽くすかのように、際限なく増え続けていた。
「橘! どうなっているんだ!」
役員たちの怒号が飛び交う。
涼介は何も答えられなかった。
彼自身が、ミダスの真の設計者ではないことを知っていたからだ。
このバグは、彼の古くからの友人であり、天才的なプログラマーでもある藤崎 瞬が当初から組み込んでいた、ある種の安全装置のようなものなのではないか。
もしや、瞬は自分の裏切りを知っていて、仕返しをしたのだろうか?
涼介は瞬に連絡を取ろうとしたが、電話は繋がらない。
ミダスが引き起こした損害は計り知れない。
涼介は全責任を負わされ、会社を追われた。
かつての栄光は地に堕ち、
彼は文字通りすべてを失った。
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雨が降りしきる夜。
涼介は瞬のアパートの前で立ち尽くしていた。
部屋の明かりは消え、
人影もない。
あの日の、瞬の穏やかな笑顔が脳裏をよぎる。
そして、
その笑顔の裏に隠された、
瞬の深い悲しみと、
涼介への失望が、
今になってはっきりと理解できた。
涼介は膝から崩れ落ちた。
冷たい雨が、彼の顔を容赦なく打ち付ける。
それはまるで、彼自身の冷酷な裏切りに対する、天からの裁きのようだった。
彼の心には、
虚無感と、
そして二度と埋めることのできない大きな後悔だけが残されていた。
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涼介と瞬の出会いは、高校のコンピュータ部に遡る。
涼介は常に成績優秀で、
生徒会長も務めるような模範生だった。
一方の瞬は、授業中は上の空で、いつも薄汚れたノートに数式やプログラムのコードを書き殴っていた。
周囲からは浮いた存在だったが、その指先から生み出されるコードは、涼介の想像をはるかに超えるものだった。
瞬は、たった一人で複雑なゲームを開発し、そのアルゴリズムは当時のゲーム業界のプロをも唸らせた。涼介は瞬の才能に魅せられた。
それは尊敬であり、
憧れであり、そして同時に、拭い去れない嫉妬でもあった。
自分にはない、天性の輝き。努力でどうにもならない、絶対的な差。
大学も同じ工学部に進み、二人は共同で研究室のプロジェクトに取り組んだ。
涼介は瞬のアイデアを現実のものにするための橋渡し役となり、瞬は涼介の緻密な計画力に全幅の信頼を置いていた。
お互いを補い合う最高のパートナーだった。
しかし、その関係性が崩れ始めたのは、社会人になってからだ。
涼介は大手証券会社に入社し、瞬は小さなベンチャー企業でプログラム開発に没頭していた。涼介は瞬の才能が世に知られないことを歯痒く思い、同時に、もし瞬が成功すれば、自分の存在が霞むのではないかという不安も感じていた。
そして、瞬が「ミダス」の構想を涼介に打ち明けた時、その悪魔のような黒い感情は一気に膨れ上がった。
それは、瞬が徹夜で開発したという、粗削りなプロトタイプだった。
一見するとただの株価予測ツールに見えたが、瞬が自信満々にデモンストレーションを行うと、画面上の数字は信じられないような精度で未来の株価を予測し始めたのだ。
瞬は熱っぽく語った。
「これはただの予測じゃない。市場のあらゆる情報をリアルタイムで解析し、人間の思考では到底追いつかない速さで最適解を導き出す。これがあれば、誰でも大金を手にできる。世界を変えるシステムだ!」
涼介の心臓は高鳴った。これは本物だ。
瞬はまたしても、とてつもないものを生み出した。
同時に、ドロリとした感情が胃の奥からこみ上げてきた。
瞬の成功を素直に喜べない。
なぜ、瞬ばかりがこんなにも簡単に天才的な発想を生み出せるのか。
そして、この「ミダス」を、自分だけが独占したいという醜い欲望。
瞬は涼介を心の底から信頼していた。
「涼介、これをお前と二人で世に出したい。お前のビジネスセンスと、俺の技術があれば、きっとできる」
瞬の澄んだ瞳が、涼介の心に突き刺さった。
その夜、涼介は瞬を自宅に招き、酒を酌み交わした。
他愛もない学生時代の思い出話に花を咲かせ、瞬は涼介との再会を心から楽しんでいるようだった。
グラスが空になるたびに、涼介の罪悪感は薄れていく。そして、瞬が泥酔し、ソファで眠りについた隙に、涼介は瞬のPCからミダスの設計データを盗み出したのだ。
キーボードを打つ指が震えた。データは瞬のPCの奥深くに隠されていたが、涼介は瞬がかつて教えたパスワードを試した。一発で認証された時、涼介の心臓は冷たい水に浸されたようだった。瞬は、涼介をそこまで信用していたのだ。
翌日、涼介は瞬に連絡し、ミダスはまだ市場に出せるレベルではないと嘘をついた。
「瞬、残念だけど、あれじゃあまだ通用しない。システムの欠陥が多すぎる。もう少し時間をかけるべきだ」
瞬は、涼介の言葉を信じた。
彼は涼介の意見を尊重し、ミダスの開発を中断した。涼介は安堵した。完璧な計画だった。完璧な裏切りだった。
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涼介は盗んだミダスの設計データを元に、密かに大手IT企業「サイバーリンク」と提携を進めていた。
サイバーリンクの幹部たちは、ミダスのデモンストレーションを見るや否や、その無限の可能性に狂喜乱舞した。
涼介は、ミダスのアイデアを自分がゼロから生み出したかのように説明し、瞬の存在はひと言も触れなかった。
「これは、私が長年温めてきた、未来の金融システムです」
涼介の言葉は澱みなく、自信に満ち溢れていた。
幹部たちは彼の才覚を称賛し、巨額の投資と全面的なバックアップを約束した。
涼介は、瞬から盗んだ設計図に、自身の知識と経験を加えてさらに洗練させた。
それは瞬の「ミダス」に、涼介の「野心」が融合した、新たなシステムだった。
そして、ついに「ミダスα」と名付けられたシステムは、サイバーリンクの主力商品として華々しく発表された。
発表会の日、涼介はスポットライトの中心に立っていた。
無数のフラッシュが彼に向けられ、会場には熱狂的な拍手が響き渡る。メディアは「若き天才が金融業界に革命を起こす!」と報じ、株価は急騰した。
涼介は一躍時代の寵児となる。誰もが彼を羨望の眼差しで見ていた。
その頃、瞬はニュースを見ていた。
テレビの画面に映し出されたのは、自信に満ちた涼介の姿。
そして、「ミダスα」という聞き慣れない名前。瞬の頭の中に、かつて涼介に語った自分の構想と、目の前のシステムが重なる。まるで自分が作り上げたものが、まるで自分が作り上げたものが、別の誰かの手によって、別の名で発表されているかのようだった。
瞬は涼介に連絡を取った。「ミダスαって、お前が開発したのか」
涼介は、しらばらくたってから、返事をくれた。
「ああ、瞬のアイデアも参考にさせてもらったが、あれは俺がゼロから作り直したものだ。あの時お前が諦めたから、俺が引き継いだんだ」
瞬は何も言わなかった。ただ、電話の向こうから聞こえる沈黙が、涼介の心臓を締め付けた。
その沈黙は、瞬の深い悲しみと、涼介への失望を雄弁に物語っていた。
瞬が電話を切った後、涼介は知らず知らずのうちに、固く拳を握りしめていた。勝利の味は、なぜか苦かった。
しかし、蜜の味は長くは続かなかった。
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ミダスαが市場を席巻するにつれて、わずかながら、奇妙なバグが報告されるようになった。
最初は些細なものだった。特定の通貨ペアでの微細な価格変動、ごく短時間の取引遅延。
涼介は当初、大規模システム特有の初期不良だと考え、すぐに開発チームに修正を指示した。サイバーリンクは巨額の資金を投じ、専任のチームが24時間体制でシステムの監視とメンテナンスにあたった。
しかし、バグの報告は止まらない。
むしろ、その頻度と規模は次第に増していった。
市場のボラティリティが高まる時間帯に誤発注が増えたり、特定の銘柄で不自然な値動きが発生したりする。
システムエンジニアたちは首を捻った。
「橘さん、いくら修正を加えても、まるで根本的な部分に問題があるかのように、新たなバグが次々と発生するんです」
涼介は焦り始めた。自分が瞬から盗んだデータに、何か隠された仕掛けがあったのではないか。
瞬は、自分の裏切りを予見していたのか?
ある夜、涼介は誰にも言わずに、かつて瞬が開発していたミダスのオリジナルの設計図を改めて引っ張り出した。
サイバーリンクの開発チームには見せていない、涼介だけが知る瞬の設計思想がそこには詰まっていた。
彼は震える手で、ミダスαのコードとオリジナルの設計図を照合していく。
そして、涼介は目を剥いた。
瞬の設計図には、ミダスαには存在しない、あるモジュールが組み込まれていたのだ。
それは、市場の異常な動きを検知し、システムの暴走を防ぐための、いわば「安全装置」のようなものだった。
涼介が瞬のPCからデータを盗んだ際、このモジュールは意図的に隠されていたのか、あるいは涼介が意図せず削除してしまったのか。
いずれにしても、ミダスαには、この致命的な安全装置が欠落していた。
涼介は冷や汗が止まらなかった。
なぜ瞬はこんな重要なモジュールを隠していたのか? 涼介の裏切りを知っていたからか? それとも、ミダスの真の力を、涼介にすべて渡すまいとしたのか?
涼介はすぐにこの事実をサイバーリンクに報告しようと考えた。
しかし、報告すればどうなる?
ミダスαの核心部分が、涼介が盗んだデータに基づいていることが明るみに出る。
彼の輝かしいキャリアは、一瞬にして終わりを告げるだろう。
彼は、自分が「ミダスαの生みの親」という虚像を守るために、真実を隠蔽し続けた。
その選択が、さらなる悲劇を招くとは知らずに。
そして、その日は突然訪れた。
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それは、ニューヨーク市場が開場する直前だった。涼介はサイバーリンクの役員室で、定例の報告を終え、わずかな安堵を覚えているところだった。その時、室内の大型モニターに映し出された株価が、異常な動きを見せ始めた。
最初に異変に気づいたのは、市場監視室のエンジニアだった。
「ミダスαが…暴走しています!」
緊急対策室に駆け込んだ涼介の目に飛び込んできたのは、地獄のような光景だった。
ミダスαが、まるで意思を持ったかのように、次々と誤った取引を連発していた。
売るべきではない銘柄を大量に買い付け、買うべき銘柄を投げ売りする。
そのスピードは、人間の手で止めることなど到底不可能だった。
「システムを停止させろ!」「強制終了だ!」
エンジニアたちの悲鳴が響き渡る。
しかし、ミダスαは彼らの指示を全く受け付けなかった。まるで、システムそのものが狂ってしまったかのようだった。涼介は愕然とした。瞬の設計図にあった「安全装置」がなければ、これほどまでに脆いシステムだったのか。
いや、もしかしたら、この暴走こそが、瞬が仕込んだ最後の罠だったのかもしれない。
瞬く間に、世界の金融市場は未曾有の危機に瀕した。
ミダスαが引き起こした誤発注は、連鎖的に他の市場にも影響を与え、株価は制御不能なまでに暴落。
投資家たちはパニックに陥り、世界中の証券会社から悲鳴が上がった。
何兆円もの損失が、文字通り秒単位で積み上がっていく。
涼介は、青ざめた顔でスクリーンを見ていた。
彼の足元が崩れていくような感覚に襲われた。
かつての栄光の象徴だった「ミダスα」が、今や世界を破滅へと導く悪魔のシステムと化していた。
緊急対策室に、警察と金融庁の人間が踏み込んできた。彼らの顔には、怒りと困惑の色が浮かんでいる。
「橘涼介さんですね。ミダスαの全責任者として、同行していただきます」
取り調べ室の冷たい空気は、涼介の心を凍えさせた。彼の言葉は誰にも届かない。真実を話せば、自分は泥棒であり詐欺師となる。偽りの栄光のために、友を裏切り、世界を混乱に陥れた男。
ミダスαが引き起こした損害は計り知れない。涼介は全責任を負わされ、会社を追われた。サイバーリンクもまた、その信用を地に堕とし、株価は暴落。かつての栄光は地に堕ち、涼介は文字通りすべてを失った。
彼の名前は、金融史上最悪のシステム障害を引き起こした張本人として、永遠に刻まれるだろう。
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会社を追われた涼介は、自宅のマンションに引きこもった。世間からの非難は想像を絶するものだった。
連日、自宅前にはマスコミが押し寄せ、SNSでは彼に対する誹謗中傷が嵐のように吹き荒れた。
スマートフォンを見るたびに、彼の心は深く抉られた。
電気もガスも止められ、食料もなくなる。かつては高級ブランド品で溢れていたクローゼットは、今や埃を被っている。涼介は、ただぼんやりと窓の外を眺めることしかできなかった。
彼の視界には、東京のきらびやかな夜景が広がっている。あの時、自分がその光の中にいたはずなのに、今はただ、遠い幻を見ているようだった。
自己嫌悪と後悔の念が、彼を苛み続けた。
なぜ、あの時、瞬のデータを盗んだのか。
なぜ、真実を隠蔽し続けたのか。
なぜ、自分の醜い嫉妬に負けてしまったのか。
頭の中で、瞬の穏やかな笑顔が何度も再生される。あの澄んだ瞳が、今では非難の眼差しとなって涼介を貫く。涼介は瞬に連絡を取ろうとしたが、電話は繋がらない。SNSのアカウントも消えていた。瞬は、涼介が裏切ってミダスを盗んだことを、知っていたのかもしれない。そして、その事実に絶望し、静かに姿を消したのかもしれない。
瞬の行方を探す手立てもなく、涼介はただひたすら、瞬の無事を祈るしかなかった。それだけが、彼の最後の望みだった。
ある雨の夜。涼介は、瞬のアパートの前で立ち尽くしていた。
部屋の明かりは消え、人影もない。
かつて瞬が住んでいた部屋は、今では誰も住んでいないかのように静まり返っている。
雨が降りしきる。冷たい雨が、彼の顔を容赦なく打ち付ける。
それはまるで、彼自身の冷酷な裏切りに対する、天からの裁きのようだった。
涼介は膝から崩れ落ちた。アスファルトに這いつくばり、雨と涙に濡れた顔を上げた。
そこに映る東京のネオンは、かつての彼にとっての栄光の象徴だったはずなのに、
今はただただ、虚しい光の羅列に過ぎなかった。
彼の心には、虚無感と、そして二度と埋めることのできない大きな後悔だけが残されていた。
涼介は、自分自身の存在が、この冷たい雨の中に溶けて消えてしまえばいいと、心の底から願った。
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どん底の生活を送っていた涼介は、ある日、一人の老人に出会った。老人の名は久須美。
都心から離れた郊外の小さな町で、小さな古本屋を営んでいた。
涼介は、空腹に耐えかねて、ゴミ捨て場を漁っていたところで久須美に声をかけられたのだ。
「あんた、ずいぶん参ってるようだな。よかったら、ここで少し休んでいかないか?」
久須の言葉は、涼介の凍りついた心に、僅かながら温かい光を灯した。
涼介は、自分の過去を語らず、ただ途方に暮れているとだけ伝えた。
葛志木は何も尋ねず、ただ静かに涼介を古本屋の奥に招き入れた。
古本屋は、埃っぽいけれど、不思議と居心地の良い空間だった。
壁一面に積まれた本たちは、それぞれに物語を秘めているかのようだ。
葛志木は、涼介に温かいお茶と、作りたての簡単な食事を差し出した。
涼介は久しぶりに、人の温かさに触れた気がした。
「あんた、若いのに随分と背負い込んでいるように見えるな」
と、久須美は言った。
「人生はな、何度でもやり直せるもんだ。一度つまずいたからって、そこで終わりじゃない」
涼介は、自分の罪を隠しながら、古本屋で働くことになった。
日中は本の整理や店番をし、夜は古本屋の奥にある小さな部屋で寝泊まりした。
慣れない肉体労働は辛かったが、不思議と心は穏やかだった。
ここには、涼介を非難する目も、過去を問い詰める声もない。
涼介は、古本屋の片隅で、古いプログラミング関連の書籍を見つけた。
それは、瞬がかつて愛読していたような、専門的で難解な本だった。ページをめくるうちに、涼介の脳裏に、瞬の言葉が蘇る。
「コードは生きている。人間と同じように、成長し、進化する。そして、間違った道に進めば、暴走することもある」
涼介は、ミダスαの暴走の原因が、瞬が仕込んだ「安全装置」の欠如だけではなかったのではないかと考えるようになった。もしかしたら、涼介が盗んだ瞬の設計図には、まだ涼介が気づいていない、真のメッセージが隠されていたのかもしれない。
涼介は、古いPCを手に入れ、夜な夜なコードを書き始めた。
それは、ミダスαの解析、そして瞬の設計図の再検証だった。彼がかつて、自分の野心のために見落としていたもの、無視してきたもの。
それを、今度は自分の手で、一つ一つ丁寧に紐解いていく。
葛志木は、涼介が夜遅くまでPCに向かっていることに気づいていたが、何も言わず、
ただ温かいお茶を差し入れてくれた。その静かな支えが、涼介の心を少しずつ癒していった。
ある日、涼介は、ミダスαのコアプログラムの深奥部から、奇妙なデータを見つけた。
それは、通常のコードとは異なり、まるで暗号のように複雑に絡み合った、極めて高度な記述だった。涼介がそれを解読しようとすると、それは瞬がかつて用いていた、独自の暗号化技術であることが判明した。
「これだ…」
涼介の心臓が激しく高鳴った。
瞬は、この暗号の中に、ミダスαの真の設計思想、そして、あるメッセージを隠していたのではないか。
この暗号を解読すれば、ミダスαの暴走の原因、
そして、瞬の真の意図がわかるかもしれない。
それは、涼介にとって、失われた友情と、自身の過去に向き合うための、唯一の道だった。
涼介は、失ったものを取り戻すために、そして、瞬に許しを請うために、再びキーボードに向かうことを決意した。彼の指先は、かつての冷たい炎ではなく、今度は微かな、しかし確かな、温かい光を宿しているようだった。
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涼介は、瞬が残した暗号の解読に没頭した。
古本屋の小さな部屋は、彼の戦場と化した。
葛志木は、黙って涼介を見守っていた。
時折、彼が涼介に温かいお茶と、簡単な食事を差し入れる以外は、何の干渉もなかった。
暗号は難解を極めた。
瞬が使っていた独自の暗号化技術は、まさに天才的なものだった。
しかし、涼介は諦めなかった。眠る間も惜しんで、瞬の過去の論文や、共同で開発したプログラムのコードを解析し続けた。
数週間後、涼介はついに、暗号の一部を解読することに成功した。
それは、一見すると何の変哲もない数式の羅列だったが、その中に、瞬の真意が隠されていた。
「涼介、このシステムは、お前が想像するよりもはるかに複雑だ」
それは、瞬からのメッセージだった。
涼介は息を呑んだ。
コードの中から、瞬の声が聞こえてくるかのようだ。
「市場の歪みを検知し、自動的に修正する。それがミダスの本来の目的だ。だが、人間の欲望は際限がない。システムが暴走しないよう、ある種の『抑止力』を組み込んだ」
その「抑止力」こそが、ミダスαの暴走を引き起こした原因だった。
瞬は、涼介がこのシステムを独占しようとした場合、意図的にシステムを暴走させるように仕組んでいたのだ。
それは復讐ではない。
涼介の野心が行き過ぎた場合、システムが世界に害をなさないよう、自壊する仕組みだった。
「お前なら、いつかこの意味に気づくだろう」
涼介の目から、涙が溢れ出した。
瞬は、最初から涼介の裏切りを予見していた。
そして、それでもなお、涼介が真のミダスを理解し、正しい道に戻ることを信じていたのだ。
瞬は、ミダスを涼介に託す際に、その「抑止力」を、涼介が必ず見つけ出すと信じていた。
涼介がそれを見つけ出し、ミダスの真意を理解した時、そのシステムは真に完成すると。
涼介は、瞬の深い愛情と、彼の純粋な心に触れた気がした。瞬は、涼介を恨んでなどいなかった。
むしろ、涼介が道を誤らないよう、最期まで見守っていたのだ。
涼介は、さらに暗号を解読し続けた。そして、ついに、ミダスの「真の設計図」と、瞬が残した「最終メッセージ」を見つけ出した。
「涼介、もしこのメッセージを読んでいるのなら、お前はきっと、俺が何を伝えようとしていたのか、理解してくれたはずだ」
瞬は、ミダスが世界を救う可能性を信じていた。
だが、同時に、それが人間の欲望によって悪用される危険性も理解していた。
だからこそ、
彼は「抑止力」を組み込み、そして、涼介がそれに気づくことを願っていたのだ。
「世界は、未だミダスを必要としている。だが、それは、人間の良心と、正義によって導かれなければならない」
涼介は、瞬が残したメッセージを読み終え、深く息を吐いた。
彼の心の中には、瞬への深い後悔と、そして、彼が残した「ミダス」を、真の形で世に送り出すという、新たな決意が芽生えていた。
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涼介は、久須美に自分の過去と、瞬の残したメッセージについてすべてを打ち明けた。
久須美は、涼介の告白を静かに聞き届けた後、こう言った。
「そうか。それは、重い十字架だな。だが、お前は、それに一人で立ち向かおうとしている。それだけで、十分だ」
久須美の言葉は、涼介にとって何よりも温かい慰めとなった。
涼介は、瞬の残した「真のミダス」の設計図を元に、システムの再構築に取り掛かった。
かつての彼は、名声と金のためにコードを書いていたが、今は違う。
瞬の意志を継ぎ、ミダスを真に世界のためになるシステムとして蘇らせる。
それが、彼の贖罪だった。
しかし、ミダス事件で失墜した涼介の信用は、ゼロ以下だった。
彼が「ミダスを再生させる」と訴えても、誰も耳を傾けない。
メディアは彼を嘲笑し、投資家たちは彼を避けた。
そんな涼介に、意外な人物が手を差し伸べた。それは、ミダスαの暴走によって多大な損失を被った、ある老舗の金融企業の経営者、黒木(くろき)だった。
黒木は、涼介の会見を偶然目にしたという。
世間からは狂人扱いされている涼介の言葉の中に、何か真実があると感じたのだ。彼は涼介に会うことを決意した。
「あなたが、あのミダスを…」
黒木は、涼介の顔をじっと見つめた。
涼介は、自分の罪を隠さず、ミダスαの真の暴走原因と、瞬の残したメッセージについて、すべてを黒木に話した。黒木は、涼介の話を静かに聞いていた。
そして、涼介の瞳の中に、かつての冷たい野心ではなく、熱い使命感と、深い後悔の念が宿っているのを見て取った。
「…信じましょう。あなたの言葉を」
黒木の言葉は、涼介にとって希望の光だった。
黒木は、ミダスによって被った損失を抱えながらも、涼介の再起を信じ、私財を投じて彼を支援することを決意した。
涼介は、黒木の会社の一角に小さな開発室を与えられ、瞬の残した設計図と、彼自身の知識と経験を全て注ぎ込み、ミダスをゼロから再構築し始めた。それは、かつての「ミダスα」とは全く異なる、「ミダス・レガシー」と名付けられた、真のAI投資システムだった。
ミダス・レガシーは、市場の歪みを自動的に修正し、倫理的な投資を推奨する機能を備えていた。瞬が望んだように、人間の欲望によって暴走しないための「安全装置」が、その核に組み込まれている。
開発は困難を極めた。過去の失敗が彼の心を蝕み、何度も挫折しそうになった。
しかし、その度に、瞬の残したメッセージと、久須美の温かい言葉、そして黒木の信頼が、涼介を支えた。
そして、開発の終盤、涼介は、瞬のアパートに再び足を運んだ。
彼は、瞬が残した暗号の中に、もう一つのメッセージが隠されていることに気づいたのだ。
それは、ミダスの完成を祝う、瞬からの、たった一言の言葉だった。
「待っている」
涼介の目から、再び涙が溢れ出しそうになった。
その涙をぐっとこらえ、涼介は瞬のもとに向かった。
瞬は、どこかで涼介が立ち上がり、ミダスを完成させる日を、ずっと待っていてくれたのだ。
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ミダス・レガシーの発表は、かつてのミダスαの華やかさとは対照的だった。
大々的な宣伝もなく、少数の金融関係者とメディアを集めて、簡素な会見が開かれた。
涼介は、かつての完璧なスーツ姿ではなく、質素な服装で壇上に立った。彼の顔には、疲労の色が残っていたが、その目には、確固たる決意が宿っていた。
涼介は、静かに語り始めた。
「私は、かつて大きな過ちを犯しました。友を裏切り、その技術を盗み、偽りの栄光を求めました。その結果、ミダスαは暴走し、世界に甚大な被害を与えました。この場をお借りして、心よりお詫び申し上げます」
会場に、ざわめきが起こる。涼介は、過去のすべてを正直に告白したのだ。
かつての涼介ならば、決してできなかったことだ。
「しかし、私の友、藤崎瞬は、それでも私を信じていました。彼は、ミダスに真の力を込め、同時に、それが人間の欲望によって悪用されないための『抑止力』を組み込んでいました。そして、彼は、私がその意味に気づき、このシステムを真の形で完成させることを願っていたのです」
涼介は、瞬の残した「真のミダス」の設計思想と、ミダス・レガシーに込められた倫理的な機能を詳細に説明した。それは、単なる利益追求のツールではなく、市場の公正性と安定性を目指す、新しい時代のAI投資システムだった。
会見の終盤、一人の記者が質問した。「藤崎瞬氏は、今どこに?」
涼介は、一瞬言葉に詰まった。瞬の行方は、いまだ不明だった。
「私は、彼に会いたい。彼に、真のミダスが完成したことを伝えたい。そして、心から謝罪したい」
涼介の言葉には、偽りのない感情が込められていた。彼の告白と、ミダス・レガシーの真価が、徐々に人々の心に響き始めた。メディアは、涼介の「贖罪の物語」として報じ、投資家たちは、ミダス・レガシーの倫理的な側面に注目し始めた。
ミダス・レガシーは、ゆっくりと、しかし確実に、市場に受け入れられていった。
かつてのミダスαのような爆発的な利益は生まないが、その安定性と信頼性は、世界中の金融機関から高い評価を得た。涼介は、サイバーリンクでの華やかな地位を取り戻したわけではない。
しかし、彼は、真に価値のあることを成し遂げたという、深い満足感に満たされていた。
ある晴れた日、涼介は、ミダス・レガシーの運用状況を確認するため、いつものようにオフィスでモニターに向かっていた。その時、彼のスマートフォンの通知音が鳴った。
見慣れないメールアドレスからのメッセージ。開いてみると、そこには、たった一言のメッセージが書かれていた。
「涼介、お前ならできると思っていた」
差出人の名前は、藤崎瞬。
涼介の目から、熱い涙が溢れ出した。瞬からの連絡だ。彼は生きていた。
そして、涼介の、そしてミダス・レガシーの成功を見ていてくれたのだ。
涼介は、すぐに返信した。
「瞬、ありがとう。本当にありがとう。会いたい。君に、直接謝りたいことがある」
数日後、涼介は、瞬からの返信を受け取った。
「会おう。お前が作った、新しいミダスがある場所で」
涼介は、指定された場所へと向かった。
それは、かつて二人が共同で研究に取り組んだ、大学の研究室だった。
ドアを開けると、そこには、穏やかな笑顔の瞬が立っていた。瞬は、以前と変わらず、少し痩せていたが、その瞳は澄み切っていた。
「瞬!」
涼介は、駆け寄って瞬を抱きしめた。
その抱擁には、長年の後悔と、友情の再確認、そして、深い感謝の念が込められていた。
「涼介…」
瞬は、涼介の背中を優しく叩いた。
二人の間に、言葉はいらなかった。
ミダス・レガシーは、二人の友情の証であり、涼介の贖罪の象徴だった。
そして、そこには、かつての冷たい炎ではなく、新しい、温かい炎が灯っていた。
涼介は、もう二度と、自分の心に潜む醜い欲望に負けることはないだろう。彼は、真の友を得て、真の自分を取り戻したのだから。
12000文字超え
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