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〖第一話〗 灰の町と夢見る少女(前編)
――灰が舞っていた。
アトリアの朝は、煙と煤に包まれて始まる。下町の坂道沿いに並ぶ小さな家々の煙突から、朝餉の火で立ち上る白い煙が空へと昇っていく。赤褐色の煉瓦壁と土で塗られた古びた屋根が重なりあい、まるで迷路のような路地を作っていた。
その一角、木造の薪屋の裏にある半壊れの倉庫に、一人の少女がいた。
リィナは足元の石畳に膝をつき、ぼろぼろの麻布の服を煤で黒く染めながら、土に指で何かを書いていた。短い黒髪はほつれて肩にかかり、頬にはうっすらと煤がこびりついている。だが、彼女の瞳はただの下町の娘とは思えないほど、真剣で、透き通るような光をたたえていた。
「……こう、だったよね……?」
指先が土の上に慎重に線を引く。くしゃくしゃになった紙の断片を横に置き、それを見ながら模写していた。
紙、といっても、それはかつて何かの巻物だった名残らしく、四分の一ほどに裂かれており、端は焦げて黒くなっている。そこには流れるような曲線で、まるで装飾のような奇妙な文字が書かれていた。見たこともない形だったが、リィナにとってはそれが何よりも美しく、神秘的だった。
「これは……風の意味?それとも"運ぶ"かな?"運ばれる"……?」
彼女の呟きは、自分のためだけの魔法の言葉だった。
町では誰も、文字の読み書きなどしない。いや、"できない"のだ。文字は貴族のもの、あるいは神殿に仕える神官のもの。下町の民がそれに触れる機会など、ほとんどない。
でも――彼女は、知ってしまった。
たった一つ、道端に落ちていたこの紙片が、世界を変える何かを秘めているということを。
リィナはそっとそれを撫でながら、空を見上げた。
雲一つない青空の奥、どこかにあるであろう"本"のある世界に思いを馳せながら。
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「おい、リィナ!薪運び、終わってないぞ!」
鋭い声に、リィナはびくりと肩を跳ねさせた。倉庫の入口に立っていたのは、薪屋の親方の息子、ガルスだった。十六歳の体格の良い青年で、彼女の兄弟子にあたる。煙草の匂いと灰まみれのエプロンをぶら下げ、片手には薪の束を抱えていた。
「……ご、ごめんなさい、今すぐ……!」
リィナは慌てて立ち上がり、手の土をぱんぱんと払った。紙片を裾に大切にくるんで、胸元の袋にそっとしまう。
「またそれか?お前、文字の真似ばっかりして……いいか?そんなもん、貴族でもねえ限り、一生無縁だってのに」
「……わかってる。でも、書いてると、なんだか頭の奥が、ずっとずっと遠くまで伸びていくみたいな感じがして……」
「はあ?」
ガルスは呆れたように鼻を鳴らすと、薪をどさりと床に落とした。
「お前さ、そんなことより、今夜のスープがあるかどうか考えろよ。夢見たって腹はふくれねえぞ。いいから、神殿に届ける薪、早く積んどけ」
言い捨てて出ていく彼の背を見送りながら、リィナは胸元を軽く押さえた。
小さな紙片の温もりが、かすかに心を支えてくれる。
「……夢だけど、夢じゃない。私、文字を読めるようになる。絶対に」
自分にだけ聞こえるほどの声で、誓うように呟いた。