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【第一章:赤の記憶___血と涎と卵①】
焦げた金属の匂いが、地下通路の隅々にまで染みついていた。
チギリ居住区“C区”___カムチャッカ半島:チギリに構築された、三層ドーナツ構造の最外層。X《Phsai》の襲撃から逃げ延びた者たちが、名ばかりのシェルターに寄り集められる、棄民の巣。
彼女___ハルハは、失ったものが多過ぎて、安全を確保できるであろう場所に着いたというのに、安心などしようもなかった____
「…………………」
言葉が、出なかった。
涙も、もう、出なかった。
ここに辿り着くまでに、幾度も命を落としかけた。空を飛んで、海を越えて、|胎《おなか》に新たな命を宿したまま、死へと近づきながら___そしてようやくこの居住区に辿り着いたのだ。
それでも、彼女のように“夫のいない者”は、比較的安全なB区には入れてもらえなかった。C区に、押し込められた。
彼女は、一緒に暮らしていた男女の部屋に住まうことになった。幸い、彼らも同じような境遇で、心身ともに襤褸襤褸だった彼女の理解者となり、生きる手助けをしてくれた。
しかし、そんな生ぬるい日々がいつまでも続く、わけではなかった。
C区にメイアアラートが鳴り響き、C区の環状の廊下にXが3体、侵入した。同居人の男女は玄関を固く閉ざしながら、彼女にすぐさまベッドの下に隠れ、体の周りのシャッターを下ろすよう促した。
恐怖が喉元に貼りついて、息がうまく吸えない。焦りが、脳を焼く。
轟音。
突如、一体のXが固く閉ざされた玄関をまるで紙のように裂いた。
「シュクダイ、オ、オクレ、マシタ」
恐怖を煽るような声。非現実的な語句がさらに彼女の恐怖を掻き立てる。
そして____
隠れ遅れた|男女《かれら》を無惨にも貪り喰った。
もう遅い。何もかもが、遅い。
弱い。弱いんだ、私たちは。
(このままここに隠れていたら、間違いなく死ぬ。)
シャッターを開ける。
五つあったうち、一個の卵を抱え込む。
残りの四つは、無事であることを願いながら。
破られた玄関に向かう。
___超人的な身のこなしで。
彼女に気づいたXが、殺そうと爪を立て、振り被り、翳す。
彼女の右腕が裂かれ、卵の殻の一部が、欠ける。それでも彼女は玄関を目指す。
Xを通り抜け、悲惨な状態になった部屋を出る。卵の中身をこぼさないように。焼けた鉄と血と腐臭の入り混じった空気が、肺に刺さる。
彼女は震えながら、傷ついた片方の腕羽を引きずって、非常時避難スペースを目指す。そこまで行けば、あとは職員が絶対的な力で守ってくれる。
幸い、たどり着くことができた。
幾つもの命が潰えた。同居人のうち女性の方は子を宿していたのだ。ハルハは、四つを失い___
唯一残ったのがこの卵だった。
温もりはある。だが、殻は割れていた。白身は赤く染まり、表面は乾いた返り血と粘液にまみれている。それでも、ここにいる。中には、まだ生きている子がいる。
生き延びたことが奇跡だった。それでも奇跡を信じてはいけない世界だった。そうして非常時避難スペースに着いたはいいものの、このトラウマはもう既に彼女に背負える代物ではなかった。身も心も限界な彼女に一言、
「まずは、深呼吸をしろ。」
そこにいたのが、マディカだった。
◆
メイアアラートが鳴り止み、彼女はマディカの部屋に行くことになった。
「………ごめんなさい……来て早々申し訳ないんだけど……水道を、貸してくれないかな……?」
「勿論。」
しかし、涙と血にまみれた少女を前に、青年は僅かに目を見開いた。そして、口を開いた。
「待って、そっちの水道はダメ!」
彼女の手が伸びた方を制し、マディカは自ら別の蛇口へと誘導する。
「いいかい、そっちは、以前ヤツらの涎が蛇口についたんだ。死にたくないなら、こっちを使っておくれ。」
その声には怒気も嫌悪もなかった。ただ、率直な注意と、警戒だけがあった。
彼女は僅かに瞬きし、そして小さく頷いた。
「はい……ありがとうございます……」
身体を洗いながら、ハルハは思った。
生きている。ただ、それだけだ。生きている。
◆
彼女が食んでいたのは、赤いトリカブト。ことにC区では、保存食として赤いトリカブトのドライフラワーが鳥人類用の保存食として流通していた。
“毒を以って命を繋ぐ”
ハルハは黙々とそれを噛み潰していた。味も、香りも、もう感じなかった。ただ、咀嚼する音だけが耳に残っていた。
12歳。人の形を保ったまま、人ではなくなったという実感が、身体を蝕んでいた。
マディカは彼女を追い出さなかった。
いや、それどころか、手を差し伸べた。口数こそ少なかったが、彼は居住区で生き延びる術を一つひとつ、彼女に教えた。
どの通路は怪物の通り道なのか。どの非常灯は、音に反応して消えるのか。食料をどこで手に入れるか。どんな鳴き声を聞いたら、即座に逃げなければいけないのか。
彼の知識は、生きる知恵だった。
そしてその日々のなかで、彼女は___血と涎と涙で濡れた、あの唯一残った卵を、育てていた。
◆
夜、灯りを落とした部屋の中で、彼女は卵を撫でた。割れた殻の縁は、少しずつ閉じるように乾いていき、中で胎動が感じられる。
その動きに、微かに、笑った。
いつからか、彼女は笑えるようになっていた。心の底に、まだ炭のような痛みが燻っている。でもそれでも、呼吸はできる。
「もう少しで、出てこられるね……」
独り言に近い声だった。
彼女の腕には、まだ折れた羽が残っていた。だが、微かに新しい羽毛が生え始めていた。
そしてある夜、卵が___孵った。
◆
その子は、紅い目をしていた。ハルハは、その目を見つめた。自身の命を代償にしても守りたいと思った、小さな存在。
「……ツバキ」
「ツバキ」___それが、この子の名前。
ハルハの脳裏に浮かぶ、白い椿。決して赤ではなく、白。
そう、思いたかった。いや、彼女だけは、そう思っていたのかもしれない。血の色ではなく、雪の色を思い浮かべたのは、きっと、彼女自身がまだ白という“可能性”を捨てきれなかったからだ。
そう、この子が「赤い椿」ではなく、「白い椿」であることを願って____
そしてこの瞬間、ハルハは13歳の誕生日にして“母”になった。