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私は東京の秘密を知っている 一話
ある日、商店街の時計台が
“逆向きに動いている”ことに表だけが気づく。
カチ、カチ、カチ。
でも大人は誰も気づかない。
友達も「気のせい」と笑う。
その日から、
表には“消えかけているもの”が見えるようになる。
閉店予定の銭湯の湯気が、少しだけ薄い___
取り壊し予定のアパートの窓が、透けている____
それは幽霊じゃない。
「忘れられそうになっているもの。」
音無 表は、毎朝同じ道を通って散歩に行く。
パン屋の前を通り、八百屋の角を曲がり、古い商店街を抜ける。
その日も、いつもと同じだった。
——はずだった。
商店街のまんなかにある時計台が、目に入ったとき、表は立ち止まった。
カチ、カチ、カチ。
針が動いている。
でも、どこかおかしい。
秒針が、左へ進んでいる。
戻っている。
時間を巻き戻すみたいに。
表は目をこすった。もう一度見る。
やっぱり、逆だ。
「……」
周りの人たちは、誰も気にしていない。
スーツ姿の人も、買い物かごを下げたおばさんも、時計を見上げることすらしない。
表は胸の奥が、すうっと冷えるのを感じた。
——どうして、気づかないんだろう。
時間を気にしななきゃいけないのに、足が動かない。
カチ、カチ、カチ。
逆向きの音は、なぜか少しだけ小さい。
遠くから聞こえるみたいに、かすれている。
やっとのことで歩き出したけれど、頭の中は時計のことでいっぱいだった。
教室では、クラスメイトが遠足の話で盛り上がっていた。
「ねえ表、聞いてる?」
同じ班の女子が、机をつつく。
「あ……うん」
本当は聞いていなかった。
窓の外に、商店街の時計台が見える。
ここからだと、針の向きはわからない。
でも、表にはわかる気がした。
あの時計は、まだ逆さまだ。
放課後、表はひとりで商店街に戻った。
夕方の光が、シャッターの降りた店を長く照らしている。
時計台の下に立つ。
見上げる。
カチ、カチ、カチ。
——今度は、普通に動いていた。
秒針は右へ進んでいる。
「……え?」
さっきまでの逆さまは、夢だったみたいに消えている。
けれど。
時計の文字盤の端が、ほんの少しだけ白くかすれているのに、表は気づいた。
チョークでなぞったみたいに、うすい白。
そこだけ、時間に置いていかれたみたいだ。
「それ、気づいたの?」
不意に、声がした。
振り向く。
知らないおばあさんが、ベンチに座っている。
いつからいたのかわからない。
「時計のこと」
表は、うなずいた。
「逆に、動いてました」
自分でも信じられない言葉だった。
でもおばあさんは、驚かなかった。
「そう。まだ、完全じゃないのね」
「完全?」
「忘れられるのが」
風が吹いた。
商店街の旗が、ぱたぱた揺れる。
「この街はね、少しずつ忘れられてるの。人の記憶から。地図から。声から」
おばあさんは時計台を見上げた。
「忘れられたものは、最初に時間から消えるの」
表は、胸がぎゅっと縮むのを感じた。
「消えるって……なくなるってことですか」
「そう。誰も思い出さなくなったら、そこには何もなかったことになる」
時計台の白いかすれが、夕陽ににじんだ。
「でも」
表は、思わず言っていた。
「わたし、見ました。ちゃんと」
逆さまの針を。
小さくなった音を。
おばあさんは、ゆっくり笑った。
「それが大事なのよ、音無 表さん」
どうして名前を知っているのか、聞く前に。
「気づく子がいる限り、完全には消えない」
気づく子。
それが、自分?
カチ、カチ、カチ。
今度は、音が少しだけはっきり聞こえた。
表は、その日、はじめてノートを取り出した。
新しいページに書く。
【商店街の時計台。朝、逆向きに動いていた。夕方、白くかすれている】
書いた瞬間、風がやんだ。
時計の白い部分が、ほんの少しだけ、色を取り戻した気がした。
表は、ノートを閉じる。
胸の奥で、なにかが静かに決まった。
——わたしは、見たことを忘れない。
それが、音無 表の、最初の戦いだった。
次に異変に気づいたのは、三日後だった。
商店街のはずれにある古い銭湯——「夕焼け湯」。
表は、学校の帰りに沙月とよく通っていた。
煙突は少し曲がっていて、壁の富士山は色あせている。
けれど、湯船はいつも熱くて、番台のおじいさんは必ず「今日は冷えるね」と言う。
その夕焼け湯の煙突が、薄くなっていた。
空に溶けるみたいに。
立ち止まって見上げる。
煙は出ている。けれど、音がしない。
本来なら、ぼこぼこと湯をわかす音がするはずなのに。
——静かすぎる。
表はランドセルを背負ったまま、引き戸を開けた。
からん、と鈴が鳴る。
番台には、いつものおじいさんが座っている。
「こんにちは」
「ああ、表ちゃん」
ちゃんと、いる。
けれど——
番台の後ろの壁が、少し白い。
ポスターの端が、ぼやけている。
「今日、お湯……音、してますか」
表は思いきって聞いた。
「音? してるよ、いつも通り」
おじいさんは笑う。
「耳が遠くなったのはわしのほうだ」
脱衣所に入る。
木の床は軋むはずなのに、足音が軽い。
浴室の扉を開ける。
湯気はある。
水面も揺れている。
でも。
やっぱり、湯をわかす音がない。
しん、としている。
お湯のない銭湯みたいに。
胸がざわつく。
——ここも、消えかけている。
家に帰ると、表はすぐノートを開いた。
【朝日湯。煙突が薄い。湯の音が聞こえない】
ペン先が少し震える。
書き終えた瞬間、窓の外で遠くの車の音が響いた。
現実に引き戻されるみたいに。
食堂で夕食のとき、従姉の沙月がぽつりと言った。
「夕焼け湯、今月で閉めるらしいよ」
箸が止まる。
「どうして」
「利用者が減ったんだってさ。みんな家のお風呂で済ませちゃうからね」
閉める。
その言葉が、ノートの文字と重なる。
夜、表は布団の中で目を開けていた。
もし誰も行かなくなったら。
もし誰も思い出さなくなったら。
夕焼け湯は、白くなって、消えてしまう?
——忘れられたものは、時間から消える。
あの時計台のベンチにいたおばあさんの声がよみがえる。
翌日。
表は学校帰りに、従姉の沙月に声をかけた。
「ねえ、今日、銭湯行かない?」
「え? なんで急に?」
「ちょっと……あったまりたいなって」
嘘じゃない。
本当の理由は言えないだけだ。
沙月は少し考えてから笑った。
「いいよ。うち、今日は、ゆっくりするつもりだったし。」
夕方、ふたりで夕焼け湯ののれんをくぐる。
からん、と鈴が鳴る。
番台のおじいさんが、目を丸くした。
「おや、若いお客さんだ」
脱衣所で沙月が言う。
「なんかさ、ここ落ち着くね」
「うん」
浴室の扉を開ける。
湯気が立ちのぼる。
——ぼこ、ぼこ。
表は立ち止まった。
聞こえる。
小さいけれど、確かに。
湯をわかす音。
白かった壁の端が、ほんの少しだけ色を取り戻している。
沙月は気づかない。
でもいい。
湯船につかりながら、沙月が言う。
「なくなっちゃうの、もったいないよね」
「うん」
その言葉が、湯気の中であたたかく広がる。
帰り道。
煙突は、昨日より少し濃く見えた。
表は、夜、ノートを開く。
【夕焼け湯。まだ消えていない。音が戻った】
ペンを置く。
——やるしかない。
戦いは、大きくない。
でも確かに、街は少しだけ、鳴った。
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「ふふっ…うまくいってよかった。」
「…ほんとね。これからも頑張って誘導してもらうわよ。―沙月」
次回、2話目!