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飛べない小鳥と、遥かなる空の色
校舎を出た途端、湿った重い空気が、肌に絡みついてくる。
俺はこの季節が嫌いだ。暗い空もあいまって、憂鬱な気分にさせられる。
イーチ、ニーィ、サーンと掛け声が聞こえて、校庭に目をやると、陸上部が準備体操をしていた。
鬼顧問の|服部《はっとり》が仁王立ちして、部員たちを見回している。部員たちは汗をかきながらも、この天気に似合わない笑顔で体を伸ばしていた。
こんな風に“外側“から陸上部の練習を見るのは初めてで、変な感じがする。
目を逸らしたいのに、思わず見てしまう、矛盾した感情が入り混じって、俺はそのままその場に立ち尽くす。
「あ! |亮介《りょうすけ》ー!!」
いつもつるんでいる仲間の|聡太《そうた》が俺に気づき、ぶんぶんと手を振ってきた。
俺は俯いて、少し手を振り返す。
本当は見られたくなかった。こんなの未練がましくて諦め悪くてカッコ悪い。
どんよりと曇った空からは、今にも雨粒が落ちてきそうだ。
今日は傘を持ってきていない。自転車も今は乗れないから時間がかかる。早く帰らなければ。
俺は邪念を払うように頭を振り、校門から出た。
引きずる右足が重い。
足ってこんなに気だるいものだったのかというくらい、俺にとって今の右足は苦々しい違和感でしかなかった。
時々走る痛みに手を握りしめて耐えながら、進んでいく。
──ところろが半分くらい歩いたところで、案の定、ポツン、と肩に水が落ちてきた。
「やべ」
空に手をかざすと、それはどんどんどんどん降ってくる。
大粒の雨に、体が冷えていく。
びしょ濡れになるのは勘弁だ。
少し前なら全力ダッシュで家に戻っていたところだが、今はそうもいかない。
乾いていたコンクリートに水が染み込んで濃いグレーになり、俺の靴にも水が染み込んでキュポキュポと気持ちの悪い音を立てる。
慌てて雨宿りできる場所を探すと、古びた使われていなさそうな倉庫を見つけた。ボロボロだがトタン屋根があるため、しばらくは雨は防げそうだ。
生成り色の、ところどころに傷がついた壁に体を預けていると、雨の勢いはみるみる強くなっていった。ザァァという音と共に、滝のように、苛立ちのように、水の弾丸が地面に突き刺さり、跳ね返る。
雨音以外、何も聞こえない。
俺は何故かそのことに安心する。
が、その安堵は一瞬でぶち壊された。
「ああ〜っ、助かったぁ〜!」
間延びした声と共に駆け込んできたのは、同じクラスの|浪江《なみえ》|京子《きょうこ》だった。
完全に形の崩れた前髪からは、ポタポタと雫が垂れている。青い制服のスカートも色が変わるほどびっしょりだ。大きな丸メガネのレンズには水滴がつーっと滑っている。
めんどくさそうな奴が来たなと、俺は浪江に見えないように眉をしかめる。
浪江は、よくわからない女だ。
大声で男子とくだらないことで騒いでいたかと思うと、女子たちの輪の中に混じって恋バナを始め、時には何もせずぼうっと視線を虚空に彷徨わせている時もある。
つかみどころのない浪江が、俺は少し苦手だ。
「……あれ。亮介くん?」
傘を閉じたりなんだり忙しそうにしていた浪江は、やっと俺の存在に気づいたようで、目を丸くしてこちらを見る。
遅いっつーの。
「……ああ。そうだけど」
「そっか、歩いてたのか。足大丈夫?」
大丈夫じゃねぇよ。
俺は舌打ちしたくなる。
それは色々な意味で。
俺は自分の右足の足首のサポーターに視線を落とす。
俺は陸上部でハードル走をやっていた。
ずらずらと並べられたハードルを、一つ一つ軽々と飛び越えていくのに快感を覚えて。
すぐに、虜になった。
顧問は厳しかったし、毎日の練習もきつかったけれど、俺は真面目に取り組み、成果も出始めていた。
もうすぐ、夏の大きな大会に出場するはずだった。
「はずだった」。
ある日、最後のハードルを飛び越えて足をついた瞬間に、足首に鋭い痛みが走った。
あ、やっちゃったな──と思ったと同時に、俺は地面に倒れ込んでいた。
ただひねっただけならよかった。でも、そうじゃなかった。説明が難しくて俺にはよくわからなかったけれど、どうやら変なところを切ってしまったらしい。
あと数年は、陸上ができない。
そう聞いた瞬間、頭が真っ白になって、目の前が真っ暗になった。
キラキラキラキラ、目の前で輝いてた星が、一気に砕け散って霧散したような気分だった。
俺はやむなく陸上部に退部届を出した。
手術は終わったけど、まだ、足は痛い。その痛みが、悔しさと虚しさをさらに増幅させた。
いろんな人が気遣ってくれるけれど、今までならなかったはずのその気遣いが、逆に悲しい。
足も、俺も、大丈夫じゃない。
そんな、わかったような顔して言ってんじゃねーよ。
俺の苛立ちを知ってか知らずか、浪江もしばし無言になる。
激しかった雨は、だんだん弱く、小雨になってきた。
「……っあ」
声を上げてしまう。
雨が弱くなって視界がクリアになり、見えた、俺たちの目の前に倒れた小鳥の姿。
雨に打たれながら、ぴくり、ぴくりと苦しそうに羽を動かしている。
思わず、なすすべもなく地面に倒れた、あの時のことを思い出した。
「小鳥ちゃん……」
浪江は横でしゃがみこむ。
小鳥は飛び立とうとするも、またヘナヘナと力尽きてしまう。
ちっぽけだ。
ちっぽけで、惨めだ。
それは俺もだった。
どうしようもないやるせなさが、俺と小鳥を重ね合わせる。
希望が消えるのなんて、簡単なんだ。
握りしめた手のひらに爪が立つ。
ぱたっ。
小鳥が、再び羽を動かした。
その羽ばたきは、先ほどより力強い。
俺と浪江は、小鳥を目を見開いて凝視する。
ぱた。……ぱたぱたっ!
とうとう小鳥は、少しだけ宙に浮き上がった。
そして、よろめきながらも、空を、遥か遠くの空を目指して、羽ばたいてゆく。
小さな影は、厚い雲に覆われた空へ吸い込まれるように小さくなっていって、俺たちには、見えなくなった。
俺は呆然とする。
俺とは違かった。
あの小鳥は、諦めなかったんだ。
「すごい……」
横からつぶやきが聞こえて、目をやると、浪江は涙ぐんでいた。
俺は狼狽える。
いや、確かに感動はしたけどさ、……泣くほどか?
「何その顔」
浪江は赤くなった目で睨んでくる。
「だって、すごくない? あの子はわたしたちよりずっと小さくて、弱いはずなのに、あんな状態から羽ばたいて見せたんだよ」
確かにその通りだった。何も言い返せない。
でも、小鳥に負けたなんて認めたくなかった。
素直に認められる浪江はすごいと思った。
「……わたし、」
浪江は、小鳥のいた場所を見つめながら、独り言を言うように呟いた。
「なんか、居場所がない気がする。友達もいっぱいいるし、笑えることもたくさんあるのに、|ここにいたい《**・・・・・・**》ってところがない。みんなには親友がいるのに、わたしだけフラフラしてて、迷ってるみたい。しゃべってるのにひとりぼっちみたいな、変な気持ち」
誰に向かって言ってるんだろう。
自分か、ここにはもういない小鳥か、それとも俺か。
俺はまじまじと浪江を見つめてしまう。
浪江がそんなことを考えてるなんて、思いもしなかった。
だから、浪江はいろんな人のところを渡り歩くように過ごしているのか。
俺には、居場所があった。
陸上部という居場所が。
けれどその居場所は、あの一瞬であっけなく奪われてしまった。
居場所がないのは、俺も同じなんだ。
ひとりで帰る放課後は、あまりにも寂しかった。
そして奪われて何もなくなった俺は、どうすればいいのかわからなくて、フラフラフラフラ、……迷ってる。
「……みんな、そうじゃねぇの?」
俺は喉から声を絞り出す。
さっきはあんなにイラついていたのに、今はどうしようもなく、何か声をかけてやりたい気分だった。
「何で悩んでるかはそれぞれ違うかもしれないけど、みんな何かしらフラついてるんだと思うぜ。俺も、陸上部に居られなくなって、どうすればいいか、マジでわかんないんだ。みんな心配してくれてんのに、それもそれで嫌で、自分も嫌で、ほんと訳わかんなくて」
俺は何が言いたいんだろう。
言葉が溢れて暴れ出し、脳内を支配する中で、俺は必死に伝えたい言葉を見つけ出す。
そうだ。
俺はさっき、浪江の弱音を聞いて、……嬉しかったんだ。
人が苦しんでるのに嬉しいなんて不謹慎かもしれないけど、同じ、迷ってる仲間を見つけたみたいで、安心した。
陸上は、基本的に個人競技だ。
でも、仲間と競い合うことで、さらなる高みを目指すことができる。
これは、競い合いとは違うけど、ちょっとでも仲間だと思える人がいたら、
……俺らは、強くなれるんじゃないか?
だったら。
こう言おう。
「俺も、浪江と同じだよ」
浪江は弾かれたように俺を見た。
「だから、浪江は、……ひとりじゃないと思う。迷ってる人、他にもたくさん、いると思うから」
浪江は、そんなこと初めて言われたみたいに、何度も瞬きをする。
そして俺も、なんだか恥ずかしくなってきた。
弱音は吐きたくなかった。カッコ悪りぃから。
なのに、特に親しくもない女子にいきなり本音を語り、下手くそな慰めを口にしている。
でも、浪江の表情を見て、思う。
後悔はしない。
浪江は眼鏡の奥の大きな瞳をゆっくりと細め、口の端を上げた。
「そっか。……そうなんだ」
立ち上がった彼女は、空を仰ぐ。
「わたしたちって、飛べない小鳥みたいなもんかもしれないね。なすすべがなくて、地面で這いつくばってるだけの子供。わたしたち中学生になってすっかり大人になった気分だったけど、まだ全然子供みたい。だってこんなどうしようもないことで傷ついてるんだもん」
わたしたちは、まだ、子供。
その言葉が、意外なリズムで、俺の心に染み込んでくる。
ガキのままは、嫌だ。でも結局は、小学生の頃からまだ一年も経ってないのだ。子供であることは、変わらない。なのに、大人になろうとして、無理をしすぎてしまった気がする。小学生の頃は自分の思いをバンバン人にぶつけて、弱音だって吐きまくりだったのに、中学生になって、それができなくなっていた。
「わたしは、やっぱりあの小鳥ちゃんみたいにはなれない。ひとりじゃ無理だもん。……でもね」
浪江は、花が咲いたような、ふんわりとした柔らかい笑みを浮かべる。
俺は鼓動が高鳴るのを感じた。
──浪江のこんな笑顔、初めて見た。
「仲間がいれば、強くなれるかもしれない。無理はしないで、転んだり滑ったりしてどうしようもなくても、いつか」
俺たちのいる場所が、スポットライトに照らされたように明るくなる。
空を見上げると、いつの間にか雨は止んでいて、分厚い雲の切れ間から、一筋の光が差し込んでいた。
覗く、どこまでも青い空のピース。
「教えてくれてありがとう、亮介くん」
俺はどうしてか、胸がいっぱいになる。
なあ、一緒に強くなろうよ。浪江。俺と。
あの小鳥だって、フラフラしながらも飛んでいた。
二人なら、どんなにふらついてたって、一緒に翔べるんじゃないか?
俺は、浪江の居場所になりたい。
溢れる想いは、まだ、心の中にしまっておくことにする。
浪江は歩き出す。追いかけてもいいのだろうかと思いながら、俺はその背中を見つめる。
彼女が振り返る。
「亮介くん。一緒に帰ろう」
俺は頷いた。
「浪江。走ろうぜ」
断るかと思いきや、彼女はニヤリと笑って応戦する。
「いいよ」
二人で、水たまりをバシャバシャ蹴散らしながら、明るくなった道を駆ける。
動かしづらい右足も、気にならない。
遥か遠くの空に手を伸ばす。
仲間がいれば、きっと、この空にだって手が届く。
澄み渡った青を目に焼き付ける。
跳ねた水飛沫が、光に照らされて、きらりと輝いた。