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別れの唄
あなたがこの文章を読んでいるということは、きっともう私はこの世にいないのでしょう。
……なんて、月並みなことを申し上げてしまいましたね。
私がいなくなって、どれくらい経ったのでしょう。あなたは今、どうしていらっしゃいますか?
あなたのことが好きでした。
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初めて出会ったとき、私たちはほんの子どもでしたね。
一緒に拾い集めた桜の花びら。雨上がり、日の光に反射して輝く葉の上の雫。美しく凛々しく照らした満月の光。手のひらが真っ赤になるほどやった、雪遊び。
それら一つ一つに瞳を輝かせて、私はあなたの手を引いて、あなたも私の手を引いて。そうやって過ごした、あの頃の私たちは本当に子どもでしたね。
きらきらと輝くあなたの瞳が好きでした。
少し紅のさした頬で、まだまだ小さな手で私の袖を引いて、あなたが私の名前を呼ぶ時、私はいつだって幸せでした。
あなたはまだ幼くて、私にとって弟のようで、でもあなたは弟以上の存在でした。
あのときの事を、あなたは覚えていらっしゃいますか?
ええ、きっと覚えていらっしゃるでしょうね。私も、ついさっきの出来事のように記憶しております。
私が何も言わずにあなたの側から離れてしまった、あのときの事。
会うことすらせず、あなたの前から去ってしまった、あのときの事。
あなたを|厭《いと》うつもりはなかったのです。
ただただどうすればよいのか分からなくて、何を信じることもできなくて、心の臓が引き裂かれて血が吹き出しているようで恐ろしかった。
あなたと一度話そう、そんなことを考える余裕すらありませんでした。
気がつけば、私はあなたに触れることもできない身分となってしまいました。そうでしょう、それは私のしたことなのですから。
みずぼらしく薄汚れた格好の私を、あなたはきっと嫌いになっておしまいだろう。私はそう思いました。
でも、違った。
あなたは私を求めてくださった。
いつかのときのように私の名前を呼んで、でもその瞳はぎゅっと閉じられていて奥で涙が|溢《あふ》れ出しているようで。
会いたかった。その一言を聞いたとき、私はどれだけ救われたような思いになったでしょうか。
あなたの声、少し息苦しいほどに抱きしめてくださったときの温もり、そっと撫でてくださる手。
その全てが、痛いほど伝わってくる気持ちが、何もかも失った私をどれほど照らしてくれたでしょうか。
あのときから、時間が許す限り あなたは私の側にいてくださいましたね。
どうして、このような私を好いてくださったのか。
私とて、どうしてあなたを、弟のようだと思っていた方をこれほど好きになってしまったのか。分かりませんでした。
どこまでも冷たい闇の中を温かくふわりと包み込んでくださるような、そんなあなたが好きでした。
あなたと過ごす時間が何よりの幸せでした。
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あなたがこの文章を読んでいるということは、きっともう私はこの世にいないのでしょう。
あなたは今、どうしていらっしゃいますか?
あなたの側には、別の方がいる。何もない私と違って、たくさんのものをお持ちの方があなたの側にいらっしゃる。
だから、きっと大丈夫だろう。私などいなくても、あなたはやっていけるでしょう。
あなたの隣にいらっしゃる方は、誰よりも心優しく温かい方なのですから。
そう言い聞かせて、でも私があなたの側にいられないことがつらく悲しく思われて、毎晩そっと|衾《ふすま》の中で泣き暮らしておりました。
……このようなことを申し上げたら、あなたはきっとまた私を気遣いなさって立ち止まってしまうのでしょうね。
私がこの世を去ったとき、あなたはどんな顔をなさるのでしょうか。
いなくなった私を想って、涙を流してくださるでしょうか。
それとも、すぐに切り替えて私のことなど忘れておしまいになるのでしょうか。
忘れてくださるのなら、それでもいいかもしれない。あなたが元気でやっていってくださるのなら、それが何よりの喜びですから。
でも。
やはり私は、あなたに涙を流してほしい。
あなたにとって、私がどれくらいの存在だったのか。それを確かめたいから。
魂だけの身となっても、あなたの温もりを感じたいから。
あなたが流した涙、その雫の中でこそ私は生きられるのです。
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あなたのことが好きでした。
『好き』を通り越して、自我の一部だと思うほど、あなたのことが好きでした。
何の未練もないこの世だけれど、あなたを置いていくことだけが気がかりです。
どうかあなたに幸がありますように。
愛しております。
〈参考和歌〉
夜もすがら契りしことを忘れずは 恋ひむ涙の色ぞゆかしき(藤原定子)