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真実の愛だよな
「急になんの話ですか」
私は面食らって部長に尋ねた。
「だから、同性愛だよ。」
黒縁眼鏡の奥にある部長の瞳は、いつも何を考えているかわからない色をしている。
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吹奏楽部のチューニングや、運動部の掛け声なんかが廊下に反響する放課後、私たち文芸部は空き教室の一室にいつも本を持ち寄り、部活動という名の駄弁りを行なっている。部員は、私と先輩、二人のみ。
先輩とは女子同士ということもあり、気楽に恋愛絡みの話もしてきたが、唐突に同性愛について語り出されたことには流石に面食らった。先輩って腐女子だったっけ。先輩はそんな私の困惑をよそに続ける。
「さっきの言い方には語弊があったかな。正確には、『同性に向ける精神的な愛情』についての話だね。」
「それは友情では?」
「うーんと、そうじゃなくて、あれだ。プラトニックラブ。」
なんだそれは、プラスチックみたいな名前をしている、と思ってしまった。どうやら、精神的な恋愛のことを指すらしかった。へえ、と相槌をうってみたものの、いまいち先輩が何を言いたいのか分からない。
「どうして同性に限定するんですか?」
「こんなことを言うと男性不信みたいに聞こえるかもしれないけれど、男女間のプラトニックラブはあくまでも一時的なものじゃないかと思うんだよ。精神的な愛を持ち続けたとしても、その先に身体の関係が生じるのは生物として抗えない気がする。そうすると、精神的つながりはゴールになり得ないと思わない?」
「確かにそうかもしれませんが……」
一方で、と、先輩は続ける。
「同性に向けての精神的な愛情、特に、同性愛者だけれども同性のことを身体的に好きではないという人たちの恋愛のゴールは、精神的なつながりといえるよね。それは生物としての本能ではないけれど、その当人達の中には本能として備わっている他者への愛ということになるよね。」
私は目を瞬かせた。確かに、そう言う考え方もあるのか。もし、そういうカップルがいれば、本当に精神的なつながりをゴールにするかもしれない。
「ところでなぜ急にこんな話を?」
「いやあね、真実の愛について考えてたら、急に降りてきたんだよ。」
「天啓ですか」
「そうだね。神様が愛について迷える子羊に教えてくれたんだよ。」
先輩はクリスチャンではない。完全にふざけている。
さて、先輩はなぜこんな話をしたのか。
先輩は恋をしている。私はそれを知っている。
先輩の想い人は、図書館にいる。いつも、図書館の奥まった書架のところにいる。普段本を読まないような人がなんとなく入った時には立ち寄ることのないであろうそのスペース。読書家にだけ開かれた秘密の場所。
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「──先輩?」
文芸部の活動が終わり、帰ろうとしたところで図書館に本を返し忘れたことを思い出し、慌てて取って返した日のこと。図書館の窓からは西日が差し込み、蛍光灯の白い光を圧倒して室内を橙に染め上げている。
図書委員も、司書の先生の姿も見当たらなかった。こんなことはよくあるので、私は慣れた手つきでバーコードを読み取り返却手続きを終える。そうして私は普通本を読まない人ならなかなか手に取らないようなその本を、図書館の奥まった棚に返しに行った。
そこで、もうとっくに帰ったはずだと思っていた、先輩の背中を見つけたのだ。
先輩は私の小さな呼びかけにも気づかないほどに、何か手元の小さな本に没頭していた。
「──、──、────」
小さく先輩がぶつぶつと呟く声が聞こえる。はっと思い出した。
(私って本当に好きな本を味わうときは、ただひたすら何回も、声に出して読んじゃうんだよ。)
では、先輩はこの本に何か特別な思い入れでもあるのだろうか。なんだか邪魔してはいけない時間のような気がして、私がそっと踵を返した途端、まさか聞くことになるとは思っていなかった先輩の少し掠れた声が私の鼓膜を打った。
「好きだと思うんだ。」
弾かれたように振り返った。先輩は窓を背にしてこちらを見ていた。傾いた太陽の逆光でもわかるほど、先輩の顔は上気していた。
「いや、好きというのは語弊があるかな、愛してる、私は愛してると思う。」
「──誰ですか?」
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先輩は、そっと囁くようにその名前を呟いた。本にかなり詳しい自信のある私ですら、初めて聞く名前。
「一昔前の女流詩人だよ。本当に無名のね。」
これが彼女の唯一の本。そう言って、先輩は手にしていた本の表紙を私に見せる。そこには、先程先輩が口にした女性の名前と、厳選集という文字が並べて印刷されていた。
「でもね、これは全てじゃない。彼女が新聞や雑誌なんかに投稿した作品、さらには選考で落とされて世に出ることのできなかった作品──この一冊じゃ足りない、もっともっと彼女の世界が見たい。」
「本人に聞いてみたことはあるんですか?」
「いや、もう彼女は二十年も前にこの世を去っている。私が産まれた瞬間から喋ったとしても叶わない望みだね。」
「どこが好きなんですか?」
「全てだよ。──彼女は惜しみなく自分の全てを詩に注ぐ人なんだ。ここにあるものから、彼女のいろんなことが、断片的にでもわかるからね。きっと、彼女は生涯で書いた詩の中に、自分の生涯を丸ごと閉じ込めている。そんな予感があるんだよ、なぜか知らないけど──もし、私が盲目的になっているなら、笑ってほしい、でも、もし私に賛成してくれるなら、協力してくれないかな。」
私は、彼女の全てが知りたい。どうしても彼女と話すことができなくても、私は彼女を愛しているし、理解したい。
彼女の全ての作品を集めることに、協力してくれないかな。
「いいですよ。」
まさか二つ返事で私が返すとは思わなかったのだろう、先輩は眼鏡の向こうでぱちりと瞬きした。
「本当に?」
「はい。文芸部員として、先輩に協力しないなんてことはないですよ。私も手伝います。」
先輩が私を揶揄う目的で、そんな大それた愛の告白をしたのではないことくらい分かる。先輩は、本当に彼女を愛している。先輩は、本気で彼女の作品全てを集めようとしている。
「本当に!」
先輩は破顔した。少し薄くなってきた橙の光の中で、その顔はなんだかとても神聖なものに思えた。
どうやっても会うことは叶わないその人のために、こんな表情のできる先輩を見て、ああ、真実の愛だよなと思った。
誰一人として名前がついていない