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20 炎
第20話です。これを入れてあと4話で終わります。
神宮寺が去ると、ここにはぼくだけしかいなくなった。
まだ数分しか経過していないが一つだけ言えることがある。ここ、何か分からないけどどこか懐かしい感じがする。少なくとも突貫工事感のある、あのめちゃくちゃ軽い|駕籠《かご》よりか、心地がいい。
今夜は満月だった。いい夢を見ることができそうだ。霧と月夜と冷たい空気、そんな雰囲気が好きになれた。
格子戸から白が可視化される。霧の世界が見える。周囲に蔓延る霧は祠を守るように、また、大蛇が寝そべるように始終地面を這って動いている。霧の奥には大自然の色と香りがあるが、どちらもうっすらとであり、圧倒的な量の白い水彩絵の具に塗りつぶされてほとんど見えない。
ここはどこなのだろう、と疑問に思ってしまうくらいだ。神宮寺につれられてきたので山奥なのは確かだが、それにしたって周囲からは何も聞こえない。自然が寝静まっているから無音なんだと思う。唯一動いているのは音を出さない無機質感。絹のように柔らかい白い霧のみ。
雪化粧ならぬ霧化粧が広がっていた。
しとしとと降り積もる、雪のような白さではなく、若干透き通る感じの。それからもふもふと目にやさしく入ってくる印象を抱き、目いっぱい月のひかりを吸収したかのごとく、その霧は薄黄色に染められている。
その霧が……、徐々に、徐々に。地面に降り積もり、かさを増し……祠の台まで至り、目の前の、格子戸の隙間から流れてくる。中に入った微量の霧は、祠の床面を撫で、波紋を生じ、紫の座布団を覆い隠そうとしてくる。霧に隠れて床が見えず、ほんのちょっとだけ紫が見える。筋斗雲の上に乗っているかのよう。
これがこの祠の「様式美」なのかなと感じた。
ぼくはもこもことした薄黄色の流入から、ふと彼のことを思い出す。実体を持たぬ彼のことを。けれど、この霧の演出は彼の力ではない。登場するとき、実体を持たない彼は、このような霧を辺りに撒いてからしゃべり始める。
でも、違う。今は全くの無風で、風切り音は感じない。暴力的な意味合いは感じ取れない。穢れもない、何も、何も感じない。彼は、ここにはいない。
霧は、壁面をつたって天井にまで達した。壁面の金箔でさらに黄色く、金色色を発す。
金色の霧がぼくを覆い、とうとう視界は金色に染められる。その色は、どうしたことか、月が雲によって翳りをみせるように、照度が下がって暗くなっていった。
そうなってくると普段まったく眠らないはずのぼくの意識は霧によって喰われ、視界を奪われる。そこに怖さはなかった。
穢れは感じず、神聖さだけがそこにあった。人間でいうところの眠りにつく。目を閉じるように……
金の霧は生命に隷属性を強制させた。あの言葉が浮揚してきていた。
――二か月以内に、君は燃やされることになる……。
そう、ここがぼくの……|終《つい》の棲家。
祠の中は、あっというまに夜霧で塗りつぶされる。
そして、本物の夜が舞い降りた。
……
からめとられた手足。
……
沼のなか。
安心、快適、安らぎの混在する空間。
…………。
………………。
…………。
………………。
心地の良い水のプール。
冷たくない。熱すぎるわけでもない。心地の良い適温。それから……重たくもない。
まとわりついてくる水は海のなかであり、湖のなかであり。けれど。
けれど、水とは感じない。空気に触れあっているかのような。
というより、触れ合っていないかのような。
この感覚は、そう……霧……
ぼくは今、霧に包まれていて……
…………。
………………。
…………。
………………。
霧の中はとても清い。
声もなく、邪魔するものは一切ない。
ただただ闇がそこに居座っていた。
じっと見ている。気配がする。
……の……よ。
……おわす……かみよ。
わが……れり。
…………たまえ。
……?
気のせいだろうか。
霧がこちらに話しかけている。
しゃべり声? 人間の、しゃべり声かな。
悲壮な声。悲しんでいる声。
これは……?
……はるか彼方……の神よ…………
……を統べる……の神よ…………
我が……に……来たれり…………
……らに、祝福を……まえ……
霧は、神さまを呼ぼうとしているの?
ともだちなのかな、でも、何の神さまなんだろう。
それは粒子をわさわさとこすり、霧を動かしている。真っ暗闇から色が付く。
明瞭に、聞こえるようになってきた。
……豊穣と、……をもたらし……の神よ……
……赦し給え……我らを……赦し給え……
違う、|神様《ともだち》を呼ぼうとしているんじゃない。これは。祈りの言葉なんだ。
災害に揉まれ、自然の暴虐に、理不尽に、家族や身内を失くし……昔の人が最後の拠り所として、祈りを捧げ……
「はるか彼方におわす、焔の神よ……」
「地を統べる、風の神よ……」
「我がもとに来たれり」
「我らに、祝福を与えたまえ……」
なんだか、こわい。
「この地に豊穣と、水害をもたらし雨の神よ」
「赦し給え」
「名前なき邪悪な心を持つ、愚かな人ならざる者を」
「清めたまえ」
「魂を」
「救いたまえ」
「今ここに、焔と風が混ざりし精霊を」
「精霊を……」
「寄こし給え」
「精霊を寄こし給え」
「焔の精よ」
「こちらに来られ給え……」
「闇を払い給え」
……おきて。
「――ん」
……起きて。
誰かの声がする。ぽふぽふと、肩に手を当てられた。なに、何だろう。ぼくを、誰かが呼んでいる……
「……うん?」
目を薄っすら開けた。最初に翠の龍が立ち昇っていくのが見えた。
★
立派な木の|梁《はり》が横に通されている。これは、天井?
「ほら、起きて」
ぼんやりとする視界に、何かが映った。見覚えのある姿。白拍子の衣服に、折り曲げられた膝。赤い袴。
巫女のような服装。その顔には、狐のお面が付けられて……。狐の、お面?
しゃがんでのぞき込まれている?
女性はぼくの目が開けられたことに気付くと、お面に手を付ける。片手はお面を支え、もう一方は頭の後ろに。面が取り払われた。
三日月のように、ゆっくり顔の一部分が見えてくる。切れ長の目に鼻筋の通ったきれいな女性。散りゆく桜の花びらのように儚げで美しい。薄桜色の口元を動かし、やさしげな笑みをつくる。
「大丈夫? ずいぶんと長いお昼寝だったみたいだけど」
ぼくの口は勝手に開いた。
「今、何時?」
「もうすぐ昼になってしまうくらい」
「うーん、それなら今日は休みにしようよ。眠い……」
「もう、そんなこと言わないで。ほら」
ぬくぬくとしたおふとんに潜り込もうとしたぼく。狐面の人はぼくの背中に手を差し入れ、上体を起こそうする。
強制的に、とはいえやさしく身体が折り曲げられたことで視界は横に広がった。
「ほら起き上がれた。さあ、今日も、舞の練習をしましょうね」
「うーん」
だいぶ戻ってきたけれど、それでも頭がぼんやりとしている。周囲の言葉、音、色が素早く通過している。……今の目では情報をキャッチできない。
「ふわあ」
だから自然な流れであくびをし、頭の血の巡りを良くしようとした。天井に腕を伸ばす。全身が凝り固まっていたみたいだ。ぼきりぼきりと、盛大な骨が鳴る。
「――ん?」
ぼくはどうしてか疑問を持った。手を見る、指先を見る。一つずつ動作確認するように、握ったり開いたりした。
あれ、動く。指同士は接着剤で固まってないし、ちゃんと爪もある。
「あれ?」
腕、肘をあげてみた。ちゃんとした関節がある。木のボールで回っているとかじゃなく。皮膚がある、ぎゅっと握れば表面はこわばってしわができる。つまむとやわらかい肉があるし、下には骨のような硬いものもある。
「……? どうしたの?」
心配そうな声を掛けられる。首をねじって――ちゃんと首も回る――、顔を突き合わせるようにして、
「ぼく、人形だったんじゃなかったっけ?」
「あら、まあ」
狐面の女性はちょっと驚いたようなことをいい、扇子で口元を隠した。
「ねぼすけさんね。私たちは人間よ。ほら、ぐにょーん」
「ふわ。い、いひゃい」
「ね?」
ぼくの頬をつまみ、ちょっと引っ張られた。意外と痛かった。そうか、ぼくは人間だったのか。あれは夢。夢だったから、人形だと思ってしまったのか……
「さあ、今宵も〝あめちゃん〟を呼ぶ練習をしましょうね」
ぼくは、うん、と元気よく返事をした。立ち上がって下を見ると、いつの間にか布団はなくなっていた。
社殿にはぼくと目の前の女性、狐面の巫女しかいない。この人が要するにぼくに舞を教えている人、指導者みたいな人だと思い出した。……思い出したというのもなんか変な話だなあ。
偉いというわけではなくて、舞を踊るのが一番うまいってだけなんだけど、よくぼくの世話役を買ってくれている。
「扇子は持ってる?」
「あ、ええと……」
ちょっと言葉を濁すぼく。
舞に扇子は重要な道具だ。でも、今は手元にない。
「あら。もしかして、失くしちゃったの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
舞の練習は毎日三、四時間ほどみっちりと練習する。ただぼくからすると舞より別のことをする方が好きだったりする。だから、ほんの出来心が芽生えちゃっただけなのだ。
「ええと……」
目線が女性側から左に逃げる。ええと、どこにやったっけ、と――
「あ」
「あ」
それはむき出しになっていた。社殿の外、地面に突き刺さった木の棒が見える。
囲炉裏に突き刺したつくね棒をあぶっているように、それは堂々としていた。
「あわわ……」
急いでそれを取ろうと走る。もちろん隠すためだ。
けれど、それを狐みたいな俊敏性を発揮して先回りする。彼女の手に収まった。
「ふふふ、キャッチ」
「あー!」
「これ、どうしたの?」
聞かれてぼくはあわあわした。
閉じた扇子を串に見立て、だんごを三つ突き刺したそれを見て。
彼女は振った。だんごの形が崩れ、数日間で一番の出来だったはずのだんごが地面に落ちる。ああ、ぼくの泥だんごたちが……
「だめでしょ、物を粗末に扱っちゃ」
「うー」
扇子は舞を彩るための必需品。扇子が無くなれば、練習しなくてもよくなる。そんなことを思っていたのに……
「だって……」
「だってではありませんよ」
「うう……ごめんなさい」
「まったくもう。これじゃあもう、使えませんね」
美しく光る扇子は、見るも無残な姿になっている。泥だらけだ。彼女は開こうと躍起になっていたが諦めてしまっている。開こうにも開けない。泥水で固着してしまっているのだ。
泥水に沈めれば開くことはできない。扇子から薄汚れた短い木の棒に大変身。隅々まで泥水を浸からせた甲斐があるもんだ、とその時は自画自賛していたけれども、その12時間後に後悔の念が押し寄せている。
「こら。この扇子は国宝品レベルですからね。ご主人様に叱られちゃいますよ?」
「でも、洗えばまた使えるもん」
ぼくは主張した。世話役の彼女はちょっと顰め面になる。
「……もうすぐ『お世継ぎ様』も元服を迎えるんですから、こういうことはもうしないようにしましょうね」
「うう……、はーい」
怒られてしまった。しょんぼり顔を見せると、彼女の怒り顔が少し回復した。
「じゃあ、わたくしのを使いましょうか」
「え、練習するの?」
「ええ。だって、〝洗えば〟使えますものね?」
「……むー」
笑みを浮かべながら私物である扇子を渡してきて、しぶしぶぼくは受け取った。彼女が重要な舞の時、いつも使っている扇子だ。金の鳥があしらわれ、鳥の羽根が抜け落ち浮遊するように、全体に金箔が散りばめられている。扇子を閉じれば金の延べ棒みたくなる。中骨からは神々しい光沢が垣間見えた。
渡した後、彼女はそっと距離を置き、見守るようなやさしげな目つきをする。
うう、練習を、やるしかないのか……
ぼくは社殿の中心でぎこちない舞を披露した。ステップを踏んで、ぴょんと飛ぶ……が、長めの裾に足が引っかかり、こけそうになったりする。
見せ場がある場面では、扇子を開いたり閉じたりするものの、開くのに手間取ることもある。いつも子供用の扇子を使っているからしょうがないけど、さっきの一件があるせいかバツが悪い。
それでも彼女は怒ることもなく、逆に笑みを浮かべて手拍子をしてリズムをとってくれている。
ぼくは踊っている最中、社殿の装飾に目を走らせていた。社殿は境内のなかで一番大きな建物だ。床面は細い木の板が張られ、五十畳は余裕である。
天井はとても高く、立派な梁といくつもの龍の絵が描かれている。大樹のような松の木が壁面を伝って天井まで延び、その間隙を縫うように翠の龍が空中を飛んでいるかのようだ。口を大きく開け、霧の息吹を吐き出しいくつもの白い雲を作っている。
そして社殿の奥、一段高い場所。普段は神棚や祭事のときに演舞を披露する場所だが。そこにひときわ大きな調度品がどすんと置かれている。やや蛇腹おりして置かれた、金色の屏風だ。
この扇に描かれているものと同じ、金色の鳥……|金鵄《きんし》が一面に出されている。太くてしっかりとした枝にかぎ爪のような趾でぎっちり固定している。右目を手前側に向けた横顔は凛々しさしかない。
黒いくちばしには赤い木の実をくわえている。「くこのみ」というらしい……なんか、色々見ていると疲れてきちゃったな。
「あの、いったん休憩でも――」
「止まったら最初からですよ?」
はい、頑張ります。
強制的に舞を再開された。頭に外した狐の眼がぼくを見ている。狐につままれた感じ。
彼女の手拍子によって舞のリズムをつくり、ぼくはさながら操り人形のようだ。うう……つらい。これ、踊りがうまい人でも全部踊るのに20分以上かかるんだよ……?
踊っている最中、外側からこんな声が聞こえてくる。
「はるか彼方におわす、焔の神よ……地を統べる、風の神よ……。我がもとに来たれり」
低く、威厳のある男の人の声。お父上様の声だ。もうすぐぼくの元服、大人になる日が近づいている。
古くから身代わり人形を賜る儀式がある。その時捧げる口上のセリフを練習しているのだと思う。
古来より続く伝統的な儀式――人形供養は、聖なる炎で焼く必要がある。普通の薪で点ける火ではなく、炎を降ろす……焔の神を降ろしてから点けるため、そこには神様の意思が宿ると言われている。
その際に使われる人形だが、身代わり人形は二種類ある。一つはぼくの部屋に飾ってある男の子の人形、そしてもう一つは倉庫に保管された、もう一つの人形。儀式用に使われるらしい。
人形にも性別があって、男の子と女の子がある。ぼくの場合男なので、男の子の人形はいつも持ちあるき、女の子の人形は儀式用に回される。儀式用、つまり人形供養の炎によって焼べられることになる。
つまり、元服の際に「仮にぼくが女として生まれてきた可能性をつぶすために」女の子の身代わり人形を焼き供養する。
しかも保管用の箱から取り出さないままそうするので、いったいどのようなものなのか解らないまま、人形とお別れすることになる。実は箱の中身はからっぽで、人形なんて入ってない。焔の神を降ろすわけだしそんな無礼なこと御父上様はしないだろうけど、もうそれでいいんじゃないかとひそかに思っている。
踊っていると身体が熱くなってきた。
全行程の三分の一くらいしか進んでいないのに、どうしてこんなに熱いんだろう。
今着ている服は簡素で薄い布袴だ。とはいえ、長時間踊っていると汗が噴き出してくる。
でも、今日はそれが原因ではないような気がした。まるで、ぼく自身が燃えているような……
――二か月以内に、君は燃やされることになる……。
いてて……頭のなかで何かが産まれた。
蠢いて、反芻する……
「あ、小雨が……」
外では雨が降ってきたようだ。お父上は師弟の言葉に静かに返答する。
「儀式に支障はない。火を……」
「は、はい」
そうしてぎこちない舞なので時間がとてもかかり、ようやく一巡した頃には始めてから二時間くらいになっていた。疲れてしまってぺとんと床に座る。「ふー」
「よくできました」
彼女が寄ってきて、ぼくにねぎらいの声をかけてくれる。「いい舞でしたよ」
「……よく言うよ」
「ふふふ、そんなことありませんでしたよ?」
全然だな、というのがぼくの自己評価。やっぱり昨日、泥だんごを作ってる暇なんてなかったのかなぁ。
反省反省。
「篝火を、こちらに……」
外の境内では篝火から子種が手渡されていた。お父上様の目の前には箱が置かれており、その下から差し入れ、あぶるような形だ。
小雨決行。もやもやと、炎の上部が箱の底をなめる……。
「あ、あつい」
もう限界で、手に持っていた扇子を振ってあおぐ。
「たしかに、ちょっと熱いですねぇ。どうしてかしら……あら?」
彼女の目は何かを発見したようで、ぼくたちのいる中央付近から壁の方へ行った。
「なるほど、原因はこれですか」
「何……」
「こっちに来れる?」
ぼくは気力を振り絞って壁に向かう。もう床は鉄板のように熱く感じられて、立っていられない位だ。床材の隙間から灰色っぽい何かが立ち上っている。煙のような細長いもの。
それでも彼女は平然として立っている。「ほら」
彼女のもつ、ぼくが丹精込めて作った木の棒で場所を指した。
「火?」
「ね」
「火を、放たれた、の?」
みたいね、と息を吐いた。「これが巷で話題の焼き討ちというものかしら」
「えんりゃくじの?」
ぼくの言葉に頷かれた。どうやら誰かが社殿の下に火を放ったようだ。社殿は高床式なので、ぼくのいるところの下には空洞がある。そこに火を放ったのだろう。
「誰が、そんなことを」
「うーん。誰でしょうねぇ、信心深くない方なのは確かなのでしょうけれど」
「そんな……」
「まったく、この社殿は貴重なものなのですよ」
彼女はかかんだ。床面を炙る、めらめらと昇る炎に棒状の泥色の棒を近づけた。
「それを、こんなか弱い炎で」
泥で塗り固められた扇子の先はあぶられ、火が乗り移る。ろうそくを持っているような感じになっていた。
「ねぇ……、ぼくたちも、えんりゃくじみたいになっちゃうのかな?」
彼女は数秒の間だけ黙っていて、
「『|大事にしてねって言ったのに《・・・・・・・・・・・・・》』」
彼女はぼそりと言った。炎熱のなかにいるのに、声は凍りつくように冷たい。え、とぼくは聞き返す。
すると続けていった。今度は打って変わってゆるく。薄桜色の口角をあげて、
「――って、ご先祖様はいうのかしらね」
立ち上がってそっぽを向いていた。彼女は遠くの方に目を飛ばしていた。
床材の隙間から発生する、灰色の煙は霧状に変化してしまってもうもうと室内に籠っている。それによって金屏風は高温の煙に焼かれ、金鵄は泣いているようだった。
「〝あめちゃん〟でも呼びましょうか」
「……〝あめちゃん〟?」
「ええ」
唇に人差し指を持ってくる。「困った時の、神頼み」
彼女はこんな状況でも余裕を保っている。どう見ても緊急事態なのに……
「ふふふ、こんな炎、|ちょっと《・・・・》本気の〝あめちゃん〟にかかればこんな炎、お茶の子さいさいなのですよー。
わたくしの舞、見ててくださいね。わたくし以上の舞のお手本はいませんから。ね、『お世継ぎ様』」
かわいげにウィンクをして狐面をぼくに預けた。
背を向ける。ぼくを残して中央に赴いた。悠然とした歩み。炎や煙をものともしない仕草。
中央につくと一旦身体は静止をし、動き出した。舞を紡いでいく。無音の舞が繰り広げられる。本来そこにはポン、ポン、と小鼓の合いの手がつくのだが。
ぼくは見惚れてしまっていた。彼女の周りから、幻聴の小鼓が聞こえてくるようで。
いつの間にか、彼女が持っていた木の棒は燃え尽き、ぱさりと開く音がする。
金屏風は激しく燃えていた。蛇腹の欠片が床に落ち、数秒後には跡形もなく崩れ去る。形あるものいつか崩れる。それは無くなるという意味ではない。
凛とした金鵄が金屏風からそちらに|転生し《うつっ》ていた。舞を踊る彼女の手には、輝きを取り戻した、黄金の扇を振り払っていた。