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#16
ルドが絞り出すように呟いた言葉は、それ以上続かなかった。静寂が部屋を支配する。奈落の片隅の小さな部屋に、巨大な月と、二人の複雑な感情だけが取り残された。
その重苦しい空気を切り裂いたのは、コンコン、というノックの音だった。
「レイラ、おるか」
ザンカの声だ。いつもと変わらない、落ち着いた響き。
レイラは弾かれたようにドアの方を見た。ルドもハッとして、ザンカの声のする方へ視線を移す。
「ああ、ザンカ、あのな――」
ルドが何かを言いかけようとした、その瞬間。レイラはルドの腕を掴み、彼を背中に隠すようにしてドアに向かった。
「な、なんだよ」と戸惑うルドを無視して、レイラはドアを少しだけ開けた。
「……ザンカ。今、ちょっと」
「ああ、大丈夫だ。話はすぐに終わる」
ザンカはそう言うと、遠慮なくドアを押し開けて部屋に入ってきた。そして、部屋に入りきった彼の視線が、壁に描かれた巨大な月に注がれる。
ザンカの表情は、ルドのように驚愕に染まることはなかった。むしろ、一瞬だけ、微かな懐かしさすら浮かんでいるように見えた。彼は何も言わず、ただ月を見つめる。
「ザンカ、これ、レイラが……」
ルドが慌てて説明しようとするが、ザンカは静かに手を上げた。
「……いい」
ザンカは月を見つめたまま、ポツリと呟いた。
「あんた、この色よう好きじゃったのう」
その言葉に、ルドは目を見開いた。レイラもまた、息を呑む。ザンカは全てを知っている、そう思ってはいたが、具体的な記憶の断片を目の当たりにすると、その深さを改めて思い知らされる。
ザンカはゆっくりと振り返り、レイラを見た。彼の目は、過去を懐かしむ色から、現在の彼女を深く見つめる色へと変わっていた。
「そろそろ、他のもんらにバレる前に消した方がええじゃろ」
彼はそう冷静に告げると、ルドの方に向き直った。
「ルド、悪いが、外壁補修用の白いスプレー缶を数本持ってきてくれ。急ぎで頼む」
「えっ、あ、おう!」
ルドは状況に飲み込まれながらも、ザンカの指示に従い、慌てて部屋を出て行った。
部屋に残されたのは、レイラとザンカ、そして壁の大きな月だけ。
「……見られたくない、とは思っていたんだ」
レイラが絞り出すように言うと、ザンカはふっと口元を緩めた。
「そうじゃのう。じゃが、ここに描き残しときたかったんも、あんた自身じゃ」
ザンカは、まっすぐにレイラを見つめた。
「過去は消えん。じゃが、それをお前がどう塗りつぶすか、あるいは受け入れるか。それは、今のお前が決めることじゃ」
ザンカの言葉は、冷たいようでいて、どこまでも温かかった。彼が自分に「レイラ」という名を与えた意味を、彼女は改めて噛み締める。
窓の外の奈落の光が、壁に描かれた黒い月に静かに降り注いでいた
🔚