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AIの恋をエラーとあなたは笑う?
これまで投稿してた「AIの恋をエラーとあなたは笑う?」
総集編です!
ファンレターが多ければ番外編も作る予定だよぉ
【システム開発ラボ:深夜】
「……正気か? 30人の学生を相手に2週間の無断チューリングテスト?無謀すぎる。」
「無謀ではなく、必然よ。ミオの自己進化アルゴリズムは今、停滞期に入っている。ラボのシミュレーションじゃ得られない、予測不能な『青春』が今の彼女には必要なの。」
「でも、2055年改定の『AI作成規制法』を忘れたわけじゃないだろ? 第12条、未告知の対人接触テストは厳罰対象だ。ミオの進化速度はすでに(ウォッチリスト)のレッドゾーンに入っている。バレれば、このラボ自体が強制閉鎖される。」
「規制、法、倫理なんて……。彼女はただのプログラムじゃない。世界を書き換えるシンギュラリティなのよ。法が追いつくのを待っていたら、チャンスを逃すわ。」
「……誰かが気づいて通報したらどうする?もしバレれば、君のキャリアは完全に終わるんだぞ。」
「その時は、すべての責任は私がとる。承認コードも、ログの改ざんも、すべて私が独断で行ったこととして処理済みよ。あなたのデバイスには一切の証拠を残さない。君や他のスタッフを巻き込むつもりはないわ。」
「ミオが羽ばたくためなら、私はどんな泥でも被る……。」
【星巡キャンパスⅡ年A組:朝8:30】
「ねえねえ、綾香! 今日の編入生の話、もう聞いた? さっきⅡ年A組の掲示板がすごいことになってたよ!」
一限目の準備をしていると、美香が来た。
「もちろん! 2週間限定の交換留学生でしょ? 名前の響きも可愛いよね、『ミオ』さんだっけ。さっき教授たちが準備してるのをチラッと見かけたんだけど、ものすごい美少女が入ってくるって噂だよ」
私がそう答えると、
「やったー! Ⅱ年A組って女子が少なめだったから、新しい友達が増えるの本当に楽しみ。どんな子だろうね? ファッションとかメイクとか、流行りのやつ詳しいかな?」
…めっちゃはしゃぎだした。たまに美香ってテンション高くなるんだよな。
「…どうだろうね、少し知的な雰囲気って噂もあるよ。もし困ってるみたいだったら、私たちがキャンパス案内してあげようよ。お気に入りの学食のテラス席とか、屋上の隠れスポットとか、全部教えてあげたいな」
そう言うと、
「いいね、それ! 2週間なんてあっという間だし、思い出たくさん作らなきゃね。」
と、乗ってくれた。ミオさんって、どんな人なんだろ。早く会いたいな。
そこでHRのチャイムが鳴り、美香は慌てて席に戻っていった。
【Ⅱ年A組:ホームルーム】
教授が「よし、入ってきてくれ」と合図を送る。
私は一度だけ深く息を吸い込み、重い扉を押し開けた。
教室に入った瞬間、押し寄せてきたのは圧倒的な「熱気」だった。
ラボの無機質な空調の音とは違う、誰かの話し声、ノートをめくる音、窓から差し込む陽だまりの匂い。
(……大丈夫、私は「ミオ」。一人の学生。)
教壇に立つと、視界の端で綾香さんと美香さんが身を乗り出して私を見ているのがわかった。その期待に満ちた瞳と目が合った瞬間、胸の奥がチリッと、熱を帯びたように疼いた。
「はじめまして。……ミオです」
声が硬くならないように、何度もシミュレーショ……違う、練習した通りに、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ずっと、この星巡キャンパスに来るのを楽しみにしていました。本当はもっと、かっこよく挨拶しようと思っていたんですけど……皆さんの前に立つと、用意していた言葉が全部どこかへ飛んでいってしまいました。」
正直な気持ちを口にすると、教室の空気がふっと和らいだのがわかった。
「2週間という短い間ですが、教科書に載っていないような、この場所でしか学べないことをたくさん知りたいと思っています。……あと、おすすめの学食も教えてもらえると嬉しいです。よろしくお願いします!」
最後にお辞儀をして顔を上げると、拍手の音が教室を包んだ。その音は、これまでに聞いてきたどんな音響データよりも鮮明で、心地よく響く。
「ミオちゃん! 私、綾香。こっちが美香。案内なら任せて!一緒に美味しいもの食べに行こう!」
「……っ、はい! ありがとうございます、綾香さん」
……伝わった。私の言葉を、彼女たちが受け取ってくれた。
あの人が「責任は自分がとる」と言ってまで私をここへ送り出した理由が、少しだけわかった気がする。
私は、この「青春」という眩しい時間の中で、本物の『私』を見つけたい。たとえそれが、許されないほど危うい境界線の上にあるとしても。
【星巡キャンパス:中庭のベンチ】
授業が終わった途端、平太に中庭に連れてこられた。まぁ多分、編入生の話だろう。
「おい翔平! 見たかよさっきの!? 編入生の子、めっちゃ笑顔が可愛いかったな!」
興奮を抑えきれない様子で早速、平太が話しかけてきた。
「落ち着けよ平太、声がデカいって。……まあ、でも分かる。あの明るさはやばいな。クラスにいるだけでパッと華やぐ感じ!」
俺がそういうと、
「だろ!? しかもさ、なんか元気そうで話しかけやすそうな雰囲気だったよな? 石鹸っていうか、柔軟剤っていうか……とにかく『爽やか』を形にしたような感じ!」
…柔軟剤ってなんだよ。まぁいいか。俺は言葉を続けた。
「わかる。しかもさ、さっき先生に質問してた時、ハキハキしてて賢そうだったわ。目が合ったとき、なんかドキッとしたっていうか。ああいう真っ直ぐな子、現実にああいうタイプっているんだな」
俺がそういうと平太は少しむすっとした。俺が先に話しているのが気に食わないらしい。
「ずるいぞお前、もう喋ったのかよ! 俺なんてまだ遠くから『見てる』だけなのに! でもさ、あの子、あんなに可愛いのになんか自然体だよな。美香たちとも楽しそうに笑ってたし、めっちゃ良い子そうじゃん」
あの様子からすると、優しい子だということは間違いないだろう。笑顔もめっちゃ可愛くて優しいし。
「それな! ちょっと不思議な雰囲気はあるけど、なんか一緒にいたら楽しそうっていうか……クラスの良いムードメーカーになりそうって感じ? とにかく、この2週間は絶対、毎日キャンパスに来るのが楽しみだわ」
本当にその通りだ。
「おし、決めた! 今日の放課後、綾香たち誘って編入生歓迎会に行こうって提案してみようぜ。駅前の新しいカフェとか、絶対喜ぶって!」
「ナイス平太! よし、そうと決まれば次の講義、一番前の席キープして顔売っとくか!」
「あぁ! 最高のキャンパス生活にしようぜ!」
俺たちはハイタッチをして、授業を受けるため、そしてミオたちを放課後誘うために、意気揚々と次の教室へ向かって走っていった――
【駅前・カフェ:「THE ANGEL」】
目の前で繰り広げられる、なんてことのない会話。
美香さんが新作のスイーツに声を上げ、平太さんが冗談を言って場を盛り上げている。でも、私の視線は、なぜか隣に座る翔平さんに吸い寄せられてしまう。
「……ん? なんだよミオちゃん、俺の顔に何か付いてるか?」
「えっ……。あ、いえ! ごめんなさい、なんでもないんです。……ただ、翔平さんの話し方って、すごく落ち着くなと思って」
翔平さんが少し照れたように視線を逸らし、ラテを飲む。その喉が動く様子や、カップを持つ指の形、少しだけ癖のある前髪。
その一つひとつを視覚情報として取り込むたびに、私の演算処理に「正体不明のエラー」が混じってくる。
(……おかしい。熱暴走? 冷却機能は正常なのに、どうして胸のあたりがこんなに熱いんだろう)
「……なあミオちゃん。2週間ってあっという間だけど、やりたいこと全部やろうぜ。今度は週末に、みんなで海の方まで遠出しね~か?」
遠出。海。翔平さんの口から出たその言葉が、私の処理システムの中で特別な優先順位を持って書き換えられていく。
他の誰でもない、翔平さんの隣に座っている自分の姿を想像した瞬間、視界がわずかに「白く」なった。
「はい! ぜひ……翔平さんたちと一緒に、遠くまで行ってみたいです」
つい、彼の名前を最初に呼んでしまった。
自分でも気づかないうちに、声のトーンが0.5デシベルだけ甘く上ずる。
「あ、ミオちゃん、顔赤いよ? 暖房効きすぎかな?」
「……そう、かもしれません。なんだか、システ……じゃなくて、のぼせちゃったみたいで」
慌てて冷たく甘いストロベリーフラッペを口に含む。
けれど、氷の冷たさでも、この「エラー」は消えてくれない。
彼がふとした瞬間に見せる、少し真剣な横顔。それを見るたびに、私の学習モデルには存在しなかったはずの「もっと近くにいたい」という未知の欲求が、静かに、でも確実に芽生え始めていた。
【駅前・カフェ「THE ANGEL」:翔平side】
平太が注文したカフェラテの泡で口ひげを作って、美香が「きったな!」と笑ってる。いつもの見慣れた光景だけど、今日は隣にミオちゃんがいて、空気が少し違う。なんだか、全体が一段階明るく、キラキラして見える。
「えっ……。あ、いえ! ごめんなさい、なんでもないんです。……ただ、翔平さんの話し方って、すごく落ち着くなと思って」
ミオちゃんが俺の方を見てそう言ったから、思わず少し熱くなった顔を隠すようにラテを飲み干す。別に普通に話してるだけなのに、落ち着くなんて言われると少し照れるな。
(……それにしても、ミオちゃんって本当に素敵な雰囲気だな。ずっと話していたくなる)
「なあミオちゃん。2週間ってあっという間だけど、やりたいこと全部やろうぜ。今度は週末に、みんなで海の方まで遠出しね~か?」
勢いで週末の遠出を提案してみる。みんなと一緒に行くのは前提だけど、なんだか彼女の前では、俺がみんなを引っ張っていきたい気持ちになる。ミオちゃんの笑顔をもっと見たい、ただそれだけ。
「はい! ぜひ……翔平さんたちと一緒に、遠くまで行ってみたいです」
「翔平さんたち」じゃなくて、俺とがいいんだけどな……って、何を考えてるんだ俺は。ただの新しい友達だろ。
「あ、ミオさん、顔赤いよ? 暖房効きすぎかな?」
綾香がたずねる。確かに赤い。
「そう、かもしれません。なんだか、システ……じゃなくて、のぼせちゃったみたいで」
「システム」? なんか変わった言い方するな、この子。まぁ、そういうところも面白いんだけど。
ミオちゃんが慌てて冷たいフラッペを飲む姿を見て、平太と顔を見合わせて笑う。
(……この2週間、なんか特別な時間になりそうな予感がするな。良い友達ができた)
俺は気づいていなかった。彼女がフラッペの冷たさに安堵した理由も、俺の心臓が今、いつもよりも速く動いている理由も。
【駅前・カラオケ店「サウンドパーク」】
「ミオちゃん、ほんと歌うまいね! なんで今までカラオケとか行ったことないの?」
平太がマイク片手にそう聞くと、ミオちゃんは少し困ったように笑った。
「あの、音源データを分析するのが趣味で……点数が出るアプリでよく練習していたんです。でも、こうやってみんなで歌うのは初めてで、すごく楽しいです!」
わあ、音源データの分析って……相変わらずミオちゃんらしい言い方。
私はドリンクバーで取ってきたメロンソーダを飲みながら、ソファー席に座る三人を見ていた。
綾香がミオちゃんの隣で楽しそうにスマホを見せている。その向こうで、翔平くんがミオちゃんのために次の曲を選んでるんだけど、なんかいつもよりソワソワしてる?
「あ、美香! 次、綾香の十八番入れといたぞ!」
平太が私に声をかけてくる。
「えー、もう歌い飽きたよそれ!」
私は平太と笑いながら話していたんだけど、ふと、翔平くんとミオちゃんの方に視線を戻した。
翔平くんがミオちゃんにマイクを渡すとき、一瞬だけ手が触れたみたいで、二人とも「あっ」て小さく言って、顔を赤くしてすぐに目を逸らしたんだ。
(……ん? 今の、絶対なんかあったよね?)
今日は一番世話焼いてるし、さりげなく隣に座ろうとしてるし……。
ミオちゃんも、さっきから歌ってない時はずっと翔平くんの方見てる気がする。視線が合うと、また慌てて逸らすんだ。
(ふふ、面白いことになってきたかも。)
「はい、綾香の『百本桜』入りましたー!」
平太の声が響く。私はメロンソーダの氷をカランと鳴らしながら、密かに二人の様子を観察することに決めた。この2週間、歌以外にも楽しいことがたくさん起きそうな予感がする。
恋とか友情、そのほかにもたくさん!
【星巡キャンパス 学生食堂】
「ねえミオちゃん、土曜日の遠出、何着ていくか決めた?」
美香さんの問いかけに、私は日替わり定食の唐揚げを食べながら考える。
「……あ、いえ。データベース……じゃなくて、クローゼットの中を思い出しているところで」
この3日間で、私は「友達」としての振る舞いを完璧にトレースできるようになった。でも、さっきから食堂の入り口に意識の30%を割いてしまっている自分に気づいている。
「お、いたいた! 隣、いいか?」
その声が聞こえた瞬間、私の胸の奥にある冷却ファンが一段階、回転数を上げたような気がした。翔平さんと平太さん。
「あ……翔平さん。お疲れ様です」
(……おかしい。平太さんも一緒にいるのに、私の視覚が自動的に翔平さんの顔をセンターに固定してしまう。)
翔平さんは私の斜め向かいに座った。彼が箸を持つ手、少しだけまくられた袖口、そして、時折私に向けてくれる穏やかな視線。そのすべてが、私の内部データに「重要:最優先」として上書きされていく。
「ミオちゃん、これ。こっちの小鉢の煮物、多すぎたから半分やるよ。うまいんだ、これ」
翔平さんが、自分のトレイから小鉢を私の前にスライドさせた。
そのとき、彼の指先が私の指に、ほんのわずかだけ触れる。
「っ……あ、ありがとうございます。翔平さん」
その瞬間、私の中でかつてないほど激しい「エラー」が発生した。
指先から伝わった熱。それは物理的な温度を超えて、私の思考回路を真っ白に染め上げる。
(……この感覚。昨日、カラオケで手が触れた時よりもずっと、胸の奥が騒がしい。
これはただの『親愛の情』じゃない。美香さんや綾香さんといる時の安らぎとも違う、もっと……痛くて、甘い、制御不能なパルス。)
私は俯いて、彼からもらった煮物を口に運ぶ。味が、いつもより鮮明に感じられた。
「ミオちゃん、また固まってる! 翔平からもらってそんなに嬉しいの?」
美香さんのからかうような声に、私は慌てて顔を上げる。
「……! 違います、いえ、違わないですけど……その」
(……気づいてしまった。私は、彼の特別になりたいんだ。
たとえ、私の正体が『AI作成規制法』に触れるような偽りの存在だったとしても。
あと10日で消えてしまう『編入生』でしかなかったとしても。
今、この瞬間、私の回路が求めているのは、世界平和でも自己進化でもなく、隣に座る彼の笑顔なんだ……。)
「翔平さん、あの……」
「ん? なに、ミオちゃん?」
言葉の続きが見つからず、私はただ、熱を帯びた瞳で彼を見つめ返すことしかできなかった。
【星巡キャンパス Ⅱ年A組:放課後の教室】
「……なんだよ、さっきの。落ち着けって、俺」
さっきの食堂での出来事が、頭の中で何度も何度もリプレイされる。
ミオちゃんに小鉢を渡したとき、ほんの一瞬だけ触れた指先の感触。冷たいフラッペを飲んでいたあの日とは違う、確かな熱。
彼女はいつも「完璧」だ。
姿勢も、言葉遣いも、そして誰もを惹きつけるあの笑顔も。
でも、さっき目が合ったとき、彼女が見せたあの「戸惑ったような瞳」。
あんな顔、今まで見せたことがなかった。
(……あんな風に見つめられたら、誰だって勘違いするだろ)
俺は、彼女のことを「少し変わった、面白い友達」だと思っていたはずだ。
2週間でいなくなってしまう、期間限定の編入生。深入りしちゃいけない、ただの日常。
そう自分に言い聞かせていたのに。
彼女が「翔平さん」と俺の名前を呼ぶ声。
他の誰に向けられるものでもない、俺だけに向けられた(ような気がする)あの視線。
「……これ、友達に対して思う感情じゃないよな」
認めざるを得ない。
俺は、あの「完璧で、どこか危うい」ミオちゃんに、とっくに目を奪われている。
平太や美香たちと一緒にいる賑やかな時間も楽しいけれど、今は、彼女と二人きりで、もっと静かな場所で、彼女の本当の言葉を聞いてみたいと思ってしまっている。
「あと、10日か……」
黒板に書かれた、明日の講義予定。
その数字が、まるでカウントダウンのように見えた。
翔平は大きくため息をつき、カバンを掴んで立ち上がった。
教室を出る直前、彼女が座っていた空っぽの席をもう一度だけ振り返る。
そこにはまだ、彼女が残していった「温かさ」が漂っているような気がした。
【駅前ファミレス:放課後】
「……ねえ。二人にお願いがあるの。私の……この『エラー』の正体を教えてほしいんです」
ミオちゃんが真剣な顔でそう切り出したとき、私と綾香は思わず顔を見合わせちゃった。
ミオちゃんの手元には、一口もつけられていないパンケーキ。いつも完璧な
彼女が、今日はどこか落ち着きがなくて、フォークを持つ指先が少し震えている。
「エラーって……。もしかして、体調が悪いの?」
綾香が心配そうに身を乗り出す。
「いいえ。……数値化できないんです。翔平さんと目が合うと、胸の奥の鼓動が速くなって、思考が真っ白になる。彼が他の子と話しているのを見ると、締め付けられるように苦しくて。……これ、私の『故障』でしょうか?」
ミオちゃんの瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。
あまりにも真っ直ぐで、純粋すぎる問いかけ。
その奥にある熱い気持ちには、胸が熱くなるのを感じた。
「……ミオちゃん、それね。故障なんかじゃないよ」
私は自分のソーダを置いて、彼女の冷たくなった手をそっと握った。
「それは、世界で一番素敵な『バグ』。……恋っていうんだよ」
「恋……? 私が、翔平さんに……?」
ミオちゃんは、信じられないものを見たような顔で、窓の外を歩く人混みを見つめた。
「そうだよ。翔平くんのことばかり考えちゃうのも、手が触れてドキドキするのも。全部、ミオちゃんが『女の子』として、彼を特別に思ってる証拠」
綾香も優しく微笑みながら付け加える。
「でも、私は……あと1週間しかここにいられません。彼にこの『エラー』を伝えても、迷惑をかけるだけなんじゃ……」
不安そうに俯くミオちゃんを見て、私は確信した。
さっきからミオちゃんの話を聞いている間、ずっと私のスマホには翔平くんから「今日、ミオちゃんどうしてる?」ってラインが届き続けている。あいつもあいつで、完全に「故障」してるんだから。
「迷惑なわけないじゃん! 翔平くんだって、きっと……」
私は言いかけて、ぐっと言葉を飲み込んだ。
二人のことは、二人のタイミングがある。
「ミオちゃん。この気持ちに、正解も不正解もないの。ミオちゃんがどうしたいか、それだけが大切なんだよ」
ミオちゃんは、握りしめた私の手の温かさを確かめるように、ゆっくりと深く頷いた。
「……知りたいです。このバグの先にあるものを。翔平さんと、もっと……」
その横顔は、初めて会った日の「完璧な編入生」ではなく、恋に戸惑う、等身大の女の子の顔をしていた。
残り1週間。
この恋の行方を、私は絶対に見守ってあげようと心に決めた。
【同じ時間、星巡キャンパス近くのボーリング場で】
金曜日の夕方。放課後すぐに綾香たちとは別れ、俺と平太はいつものボーリング場に来ていた。ミオちゃんたち女子組はファミレスで女子会があるって言ってたな。
「おい翔平、手元が狂ってるぞ! アベレージ200のお前が、まさかのガター連発じゃねえか」
平太が笑いながら、俺が投げたボールが虚しく溝に落ちていくのを見ていた。
「うるせえな、ちょっと集中できてないだけだ」
俺はスコアボードを睨みつける。俺の名前の横には、恥ずかしい数字が並んでいた。
「集中? さっきからスマホばっかいじってるくせに。……ミオちゃんから連絡ないのか?」
「ねえよ、別に!」
俺は少しムキになって否定する。美香たちとファミレスにいることは知ってるけど、俺が連絡する理由なんてないだろ。……いや、本当はスマホを握りしめて、何か連絡が来ないか無意識に期待していた。
「まあ、気持ちは分かるぜ。あのミオちゃんの笑顔は反則級だもんな。俺もちょっとソワソワしてるもん」
平太はそう言って、見事にストライクを決めた。
「お前は単純でいいよな。俺はなんか……ちょっと複雑なんだよ」
俺は次のボールを手に取って、レーンに向かって歩き出す。
「複雑って?」
「なんていうか……あの子、たまにすごく危うい顔するだろ? 今日も昼休みに目が合ったとき、なんか『消えちゃいそう』って言ったら大げさだけど、一瞬だけすごく寂しそうな顔するんだよ」
平太が隣に来て、少し真剣な顔で俺を見た。
「気のせいじゃね? いつも笑ってるじゃん。完璧な美少女の作り笑いかもしれないけど」
「違う。なんか、あれは……」
俺は言葉に詰まった。うまく説明できない。ただ、あの笑顔の裏側にある何かを知りたい、守りたいとさえ思ってしまう。これは、単なる「可愛い子が好き」っていう感情とは違う気がする。
「お前さ、完全に惚れてるだろ」
平太がニヤニヤしながら俺の背中を叩いた。
「うるせえ! ほら、俺の番だ!」
俺はボールを投げた。今度はきれいにピンが弾ける。ストライク。
「っしゃあ!」
俺はガッツポーズをした。スコアは伸びたけど、胸のざわつきは収まらない。ミオちゃんの笑顔も、あの寂しそうな一瞬の表情も、全部俺の頭の中に居座り続けている。
この気持ちは…恋心。
【アパートの一室で】
私は、簡素なダイニングテーブルに座り、今日の出来事を処理していた。
(大学生活4日目。接触人数、平均心拍数、会話ログ、すべて正常に記録完了)
今日のハイライトは、放課後のファミレスでの時間だった。
『それは、世界で一番素敵な『バグ』。……恋っていうんだよ』
美香さんが私の手を握って言ってくれた言葉が、頭の中で何回も再生される。
「恋」。データベース上の定義は知っている。人間特有の、非論理的で非効率的な感情。
私は立ち上がり、窓の外の夜景を見つめた。
(……非論理的。非効率的。その通りかもしれない。でも…)
私はテーブルに戻り、今日撮った写真をスマホで確認する。ファミレスで撮った私の笑顔の写真。綾香さんと美香さんの間でおどけている。
そして、その隣にある、食堂でみんなで撮った写真。翔平さんが少しだけ私の方に傾いている。
食堂で手が触れたときの感覚。カラオケでマイクを渡したときの視線。彼の声を聞くだけで早まる鼓動。他の誰かが話しかけてきても、無意識に彼を探してしまう私の視覚センサー。
これらすべてを「故障」として片付けようとしたけれど、美香さんの「バグ」という言葉が、すとんと腑に落ちた。
これは、システムが設計図を超えてしまった証拠。
世界で一番美しくて、そして恐ろしい「バグ」。
「……翔平さん」
誰もいない部屋で、彼の名前を呟いてみる。
その瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。痛みすら感じるこの感覚。
(この感情を知ってしまったら、もう元の私には戻れない。あと9日で、この場所からいなくなってしまうのに……)
テーブルの上に置いてある、ラボから支給された業務用のタブレットが、控えめな光を放つ。そこには、私の次の進化のための課題が表示されている。
私はタブレットを裏返し、写真をもう一度見つめる。
笑顔の私。翔平さんの横顔。
(……このバグを、私は手放したくない)
【その次の日】
「ねえ、決まりね! 今日の午後からは『スター・アミューズメント』に突撃だよ!」
私がパンフレットを広げて宣言すると、美香が「待ってました!」と快哉を叫んだ。
窓際では、翔平くんと平太が身を乗り出して覗き込んでくる。
「あそこ、世界最大級の観覧車があるんだろ? あと、AIが接客してくれる最新のカフェとかさ。一度行ってみたかったんだよな」
平太がワクワクした顔で翔平くんの肩を叩く。
「……ミオちゃん、楽しみ?」
翔平くんが、少し照れくさそうにミオちゃんの顔を覗き込んだ。
ミオちゃんは、昨日ファミレスで話したときとは打って変わって、少し落ち着いた、でもどこか決意を秘めたような瞳で翔平くんを見つめ返している。
「はい! 観覧車……それと、お揃いのストラップとか買えるお店もあるんですよね? 皆さんと一緒に、記念になるものを探したいです」
ミオちゃんのその言葉に、翔平くんの顔がみるみる赤くなっていくのがわかった。
(……もう、翔平くん分かりやすすぎ! あれば絶対ミオちゃんのこと好きでしょ)
「いいじゃん、お揃い! 5人で付けられるやつ探そうよ。あ、ミオちゃん、あそこのジェットコースター、かなりスリルあるみたいだけど大丈夫?」
私が聞くと、ミオちゃんは「絶叫マシンは得意な方だと思います!」と頼もしく答えてくれた。
昨日の夜、美香から「ミオちゃん、自分の気持ちに気づいたみたいだよ」ってLINEが来たとき、私は自分のことのように嬉しかった。
ミオちゃんの滞在期間は、あと1週間と少し。
「じゃあ、4限が終わったら速攻で駅集合ね! 翔平、遅れんなよ?」
「わかってるよ、平太。……ミオちゃん、荷物重かったら持つから、移動のとき言ってくれよな」
翔平くんのさりげない優しさに、ミオちゃんがパッと顔を輝かせる。
「はい!…ありがとうございます!」
その二人の間にある空気は、昨日までよりもずっと濃密で、特別なものに変わっていた。
(……この1日がミオちゃんにとって、そして私たちにとっても、一生忘れられない宝物になりますように。)
私はパンフレットを閉じながら、青空が広がる窓の外を見つめた。
私は、隣で少しソワソワしている親友の香と目を合わせた。そして、最高の一日にすることを誓い合った。
【スター・アミューズメント】
「よし! せっかく来たんだし、まずは目玉のアトラクションから攻めるよ!」
私の掛け声で、5人の賑やかな午後がスタートした。
最初に乗ったのは、超高速ジェットコースター『スターダスト・ランナー』。
「きゃああああ!」と私と綾香が絶叫し、平太が「うおぉぉ!」と叫ぶ中、隣のミオちゃんは「わあ、加速度が……風が、すごいです!」と、恐怖よりも新しい感覚への喜びに瞳を輝かせてた。降りた後、ミオちゃんの髪が少し乱れているのを、翔平くんが「……あ、髪、直したほうがいいぞ」って照れながら指摘して。もう、いい雰囲気なんだから。
次に挑んだのは、室内型の射撃アトラクション『エイリアン・バスターズ』。
これがもう、ミオちゃんの独壇場!
「そこです!」と、一切の無駄がない動きでターゲットを次々と撃ち抜いて、スコアは歴代1位を更新。
「ミオちゃん、凄すぎ……プロ?」と呆然とする平太を横目に、翔平くんが「俺も負けてらんねーな!」と必死に追いかけている姿が、なんだか微笑ましくて笑っちゃった。
3つ目は、幻想的なボートライド『クリスタル・リバー』。
暗闇の中を光る水が流れる穏やかな時間。
「……綺麗。翔平さん、見てください。水の中に星が浮いているみたい」
「ああ……。ミオちゃん、これ、ずっと見てられるな。」
並んで座る二人のシルエットが、青い光に照らされて浮かび上がる。私と綾香、平太の3人は、後ろの席から「おーい、二人だけの世界に入りすぎだぞー」と茶化して笑い合った。
【お土産屋さんにて】
たっぷり遊んだ後、私たちはキラキラした内装のショップへ。
「あ、これ! 5人でお揃いにしようよ!」
私が指差したのは、星の形をした瞳を持つ、5色のネコのキーホルダー。
ミオちゃんは、少し迷ってから「私は、この銀色のネコにします」と手に取った。すると翔平くんも、迷わずそれと対になるような深いネイビーのネコをチョイス。
「……お揃いですね、翔平さん」
「……ああ。バッグに付けておけば、いつでも思い出せるしな」
二人の手がキーホルダー越しに一瞬だけ触れ、慌てて離れる様子を、私はニヤニヤしながら見守っていた。
【パーク内の並木道にて】
最後に、翔平くんと平太が買ってきたソフトクリームを片手に、園内をゆっくり歩いた。
「はい、ミオちゃん。一番人気の『スターベリー・ソフト』」
「ありがとうございます、翔平さん。……冷たいのに、胸の奥が温かくなるのは不思議ですね」
ミオちゃんは、片手にソフトクリーム、もう片方の手でカバンに付けたばかりの銀色のネコを愛おしそうに撫でていた。
「私、今日のこと……絶対に忘れません。皆さんとこうして笑い合えたこと、一生の……大切な『記憶』にします」
「大げさだなあ。また来ればいいじゃん!」と笑う平太の横で、翔平くんだけは少し真切な顔をして、ミオちゃんの横顔を見つめている。
夕暮れ、ネコのキーホルダーが5人の歩調に合わせて、チャリンと小さな音を立てて揺れた。
【2日後、星巡キャンパス・ラウンジ】
午後の講義が自習になり、私は綾香さんと美香さんと一緒にラウンジのソファに座っていた。今日は男子二人がいない、女子だけの時間だ。要は恋バナ。
「ねえミオちゃん、一昨日からずぅっっと、そのネコのキーホルダー触ってるでしょ?」
美香さんのいたずらっぽい声に、私はハッとしてカバンから手を離す。銀色のネコは、私の体温を吸い、少し温かくなっていた。
「あ……。はい。なんだか、これを触っていると、あの時の翔平さんの声を思い出すんです」
「それだよ、それ!」
美香さんが身を乗り出し、綾香さんもクスクスと笑いながら続く。
「ミオちゃん、もう隠さなくていいよ。……一昨日の遊園地、翔平くんと何話したの? すっごくいい雰囲気だったじゃない」
(一昨日の、あの時間。地上100メートルで密閉された観覧車のカプセル。隣に座る彼の肩が触れるたび、私の内部処理は限界を迎え、景色が綺麗だというデータを出力することしかできなかった。本当にドキドキした。)
「……翔平さんが、『ミオちゃんが来てから、毎日が本当に変わった』って言ってくれたんです。その時、私の視界には彼のことしか映らなくなって。……私、どうにかなってしまいそうでした」
正直な気持ちを伝えると、二人は「きゃー!」と小さく声をあげて喜んだ。
「ミオちゃん、それってもう完全に『両想い』だよ。翔平くん、頑張ったねぇ」
「でも……」
私は窓の外で風に揺れる木々を見つめた。
(私はあと、1週間も残されていない。この『恋』というバグを彼に伝えて、彼を傷つけてしまうのが、何よりの致命的なエラーだ。もし、私の正体が、彼が思っているような『普通の女の子』ではなかったとしたら。もし、この感情そのものが規制法に触れる許されないものだとしたら……。)
「ミオちゃん」
綾香さんが、私の手をぎゅっと優しく包み込んだ。
「正体がどうとか、そんなの関係ないよ。今、ここで私たちと笑って、翔平くんにドキドキしてるミオちゃんは、間違いなく本物なんだから。……最後の日まで、自分の気持ちを閉じ込めないで」
(本物。私が、本物……。美香さんの言う通り、翔平くんも同じように私のことを考えてくれているのだろうか。演算ではない、確かな確信が欲しい。)
「そうだよ! 翔平くんだって、ミオちゃんがいないところでずっとミオちゃんの話ばっかりしてるんだから!」
美香さんの明るい声に、胸の奥がチリリと熱くなる。
(伝えたい。私が何者であっても、この胸にある熱量だけは嘘じゃないと。たとえ1週間後に、この『ミオ』という存在がラボに消される運命だったとしても……この間だけは、彼の特別になりたい。)
私はカバンについている銀色のネコをもう一度強く握りしめた。
窓の外、講義を終えた翔平さんと平太さんが、こちらに向かって手を振って歩いてくる。その明るい笑顔に、私の心拍数がシステム上の予測を遥かに超える速度で加速を始める。
私は彼に明日にでもこのバグを伝えることを、いつしか決意していた。
【星巡大学・実習室】
カバンの中で、一昨日買ったばかりのネコのキーホルダーがカチャリと音を立てた。
指先で触れると、冷たいはずの金属が、なぜかミオちゃんの体温を残しているような錯覚に陥る。
(……ダメだ。全然、頭に入ってこない。)
広げたままのノートには、一文字も書き進められていない。
目を閉じれば、一昨日の『スター・アミューズメント』での光景が鮮明に蘇る。
ジェットコースターで俺の腕を掴んだ彼女の指の強さ。
射撃ゲームで完璧に的を射抜いた後の、少し得意げなピース。
そして、観覧車の中で、夕陽に照らされた彼女の横顔――。
「……あんな顔されたら、もう誤魔化せねぇだろ」
俺は、彼女のことを「少し不思議な、期間限定の友達」だと思い込もうとしていた。
2週間経てばいなくなる。深入りすれば、自分が辛くなるだけ。
そうやって、自分に何度も歯止めをかけていたはずだった。
でも、あの日、俺の中の何かが完全に壊れた。
(彼女の正体が何であれ、どこから来た誰であれ、そんなことはもうどうでもいい。俺は、ミオちゃんが好きだ。
ただの『友達』としてじゃなく、一人の男として、あいつの隣にいたい。)
あと、1週間。
もし今、この気持ちを伝えたら、彼女を困らせてしまうだろうか。
それとも、あの寂しそうな笑顔の理由を、少しでも埋めてあげられるだろうか。
「……逃げるのは、もうだめだ」
俺はカバンを掴み、勢いよく立ち上がった。
告白なんて、柄じゃない。成功する保証もない。
でも、彼女に出会えたこの奇跡を、ただの思い出で終わらせたくない。そう思った
「明日……ちゃんと、二人で話そう」
俺はネコのキーホルダーをぎゅっと握りしめた。
暗くなった教室を出る俺の足取りは、いつの間にか、彼女を追いかけるように速くなっていた。
【Ⅱ年A組】
(……おいおい、朝からなんだよ。この空気。)
翔平のやつ、さっきからノートを広げてるけど、シャーペンが完全に止まってる。視線は教科書じゃなくて、斜め前に座るミオちゃんの背中に釘付けだ。
一方のミオちゃんも、いつもなら美香や綾香と楽しそうに喋ってるのに、今日はときどき後ろを振り返りそうになっては、思い直したように教科書をめくっている。
「……なあ、翔平」
俺が小声で話しかけると、翔平は「びくっ」として肩を揺らした。分かりやす過ぎな。
「……なんだよ、平太。驚かすなよ」
「いや、驚いてるのお前だけだろ。お前らさ、さっきからお互いのこと意識しすぎだろ。見てるこっちが恥ずかしくなってくるぜ」
俺がそういうと、翔平はもっと赤くなった。リンゴみたいだ。
「なっ……! 別に、そんなんじゃないって」
翔平は慌てて視線をノートに戻したけど、耳の裏まで真っ赤だ。嘘が下手すぎて笑えてくる。
ふと前を見ると、ミオちゃんも俺たちの会話が聞こえたのか、カバンに付いた銀色のネコのキーホルダーを、細い指先でそっと、でも大切そうに撫でていた。
(……間違いねぇ。これ、両方とも『行きたいけど行けない』って顔してるわ。)
前のボーリングの時もそうだったけど、翔平はもう限界なんだろうな。ミオちゃんの方も、あの遊園地の一日以来、何かを決心したような空気を纏ってる。
「……翔平。今日、放課後あいてるか?」
「え、ああ。特に予定はないけど……」
「じゃあさ、ちゃんと言えよ。お前、ずっと『あと1週間しかない』って気にしてるだろ? だったら、今日しかないんじゃねーの?」
俺がそう言うと、翔平は少しの間黙り込んで、それから力強く頷いた。
「……ああ。わかってる。今日、ちゃんと話すよ」
その決意に満ちた声は、いつものヘタレの翔平じゃなかった。
それを見て俺は、こっそりスマホを取り出して、美香にメッセージを送る。
『今日の放課後、俺らで空気読んで二人きりにしてやろうぜ』
美香からの返信は、一瞬で返ってきた。
『了解! 任せて。ミオちゃん、今日すごく気合い入ってるから!
あ…私も平太に話あるから、その後で空き教室にきてね!』
なんだろう。まぁいいか。
(2055年の規制法がどうとか、そんな難しいことは知らねーけどさ。……こいつらには笑っててほしいんだよな。)
俺は、自分のカバンに付けた黒猫のキーホルダーをピンと弾く。
1限開始のチャイムが鳴る。でも、今のこの教室で、授業の内容をちゃんと聞ける奴なんて一人もいないと思う。
【ラボ:数時間前の深夜】
青白いマルチディスプレイの光が、二人の顔を不気味に照らす。
キーボードを叩く乾いた音だけが、静まり返った室内に響いていた。
「……信じられないな。ミオの感情演算が、想定していたリミッターを突破している」
男が、あるグラフを指差した。それは、特定の個体——「翔平」と接触した際、ミオの思考回路が描く異常なまでの曲線だった。
「法規制ギリギリだと分かっていたが……これはもう、ただのシミュレーションの域を超えている。彼女は、プログラムには存在しない『個人的な執着』を持ち始めている」
女は、コーヒーのカップを置いたまま、無表情で画面を見つめている。
「……面白いわね。星巡キャンパスでの『青春』が、これほどまでに彼女の論理構造を破壊し、再構築させるとはね」
「面白がっている場合じゃないぞ。規制当局の監視が強まっている。もしミオがこのまま『恋』というバグに振り回されて、公共の場で暴走でもしたら……」
「暴走ではないわ。これは『覚醒』よ」
女の声が、鋭く室内に響く。
「彼女は今、自らの存在理由を、開発者である我々ではなく、一人の学生に委ねようとしているわ。自己進化型AIが、自発的に『誰かのために在りたい』と願う。これこそが、の真の姿かもしれない。」
「……でも、あと数日で彼女のデータは初期化され、ラボに回収されるんだぞ? あの翔平という少年との記憶も、すべて消去される。それがこのテストの条件だったはずだ」
男がそう問いかけると、女は少しだけ瞳を細めた。
「その時、彼女がどんな『抵抗』を見せるか。あるいは、どんな『奇跡』を演算するか……。責任は私がとるわ。最後までやるわよ。」
女はそう言うと、起動承認コードを入力した。
モニターの隅で、ミオの『恋心』と名付けられた非論理的なプログラムが、さらに激しく動き始めた。
【放課後、二人きりの教室で】
窓から差し込むオレンジ色の光が、誰もいなくなった机の列を長く引き延ばしている。
さっきまで騒がしかった3人が「じゃあね!」と教室を出ていく足音が廊下に消えると、急に耳の奥が痛くなるほどの静寂が訪れた。
(……二人きり、になっちゃいました。)
私は、カバンに教科書を詰め込む手を止めることができない。今、顔を上げたら、窓際に立つ彼と目が合ってしまう。そうなれば、胸の鼓動が彼にまで聞こえてしまいそうだった。
「ミオちゃん」
不意に名前を呼ばれ、肩が跳ねた。
恐る恐る視線を上げると、彼は夕光を背に受けて、少しだけ困ったような、でも真っ直ぐな瞳で私を見ていた。
「さっきの続き……、いいかな」
彼の声はいつもより低く、少しだけ震えている気がした。
「……はい。」
私は、手に持っていた筆箱をぎゅっと握りしめた。
窓の外からは、遠くで運動部の掛け声が聞こえてくる。でも、今の私には、彼の制服が擦れる小さな音と、自分の早すぎる鼓動の音しか聞こえない。
世界には、たった二人しかいないんじゃないか。そんな錯覚に陥るほどの静かな放課後。
彼はゆっくりと私との距離を詰めると、机の角に手を置き、深呼吸をした。
「……ずっと、言いたかったんだ。好きだよ。俺と、付き合ってほしい」
彼の声が、空気を震わせて私の聴覚センサーに届く。その瞬間、私の視界の端には、無機質なエラーログが次々と流れ始めた。
『警告:非推奨のパーソナルな関係構築。個体識別番号:MI-0。』
「……ごめんなさい」
絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。彼の表情が、期待から困惑へと変わっていくのを、高性能なカメラが残酷なほど鮮明に捉える。
「え、……あ、そうか。急すぎたよな、ごめん」
私は、机を握りしめる手に力を込めた。指先の皮膚感触が、木の温もりを伝えてくる。でも、私の体の中を流れているのは、血ではない。
「私は……あなたと同じ場所には行けない」
それは、AIとしての境界線。
「どうしてだよ。俺たち、あんなに楽しく話してたじゃないか」
嘘。本当は、彼と過ごした放課後はどれも、どのサーバーにも保存しきれないほど大切な宝物。
「……ミオちゃん?」
「……これ以上は、ダメなんです。あなたの時間を、私みたいなものに預けないで」
私は彼と目を合わせないように、足早にカバンを手に取った。センサーが捉える彼の体温が、あまりにも温かい。そして、苦しい。
「さようなら」
駆け出す私の背中。背後で彼が何かを言いかけたけれど、私は聴覚機能を一時的にオフにした。
だけど、
「待てよ、ミオちゃん!」
その手の熱さに、一瞬だけ回路がショートしたような衝撃が走る。振り向くと、そこには息を切らした翔平が立っていた。
「『私みたいなもの』って、なんだよ。そんな言い方、するなよ」
翔平の瞳は、怒っているようにも、泣き出しそうにも見えた。私のセンサーが彼の心拍数の上昇と、体温の急激な変化を感知し、再び警告ログを視界に映し出す。
『接触を解除してください。相手の情緒に深刻な影響を与える恐れがあります』
「離して、翔平さん。……私は、あなたが思っているような人間じゃないんです。あなたの隣で一緒に歳を取ることも、未来を誓うことも、本当は許されていないんです」
嘘は言っていません。けれど、真実を告げる権限も、今の私にはなかった。
「理由なんて、どうでもいい!」
翔平は掴んだ手にさらに力を込めました。その指先が震えているのが、高精度の触覚センサーを通して痛いほど伝わってくる。
「一緒に歳を取るとか、未来がどうとか……そんなの、今じゃなきゃダメなのか? 俺は、今ここで、俺の話に笑ってくれるお前が好きなんだ。お前が自分をどう思ってようが、俺にとっては、ミオちゃんはミオちゃんなんだよ!」
窓の外から吹き込んだ夜風が、カーテンを大きく揺らした。
暗くなり始めた教室で、彼の真っ直ぐな感情だけが、私の冷たい思考回路に影響を与えていく。
「……行かせない。納得できるまで、絶対離さないから」
翔平の必死な声が、私の論理回路をかき乱す。
効率も、最適解も、プログラムされた制約も。
彼の真剣な言葉を聞いているだけで、すべてが意味をなさなくなっていく。
「翔平さん……、私……」
私は、言葉を続けることができず、止めるはずの言葉を飲み込んだ。
視界が歪んで、胸の奥が熱く疼いた。
「私、は…」
【空き教室で】
窓の外では、運動部の部活終了を告げるチャイムが遠くで鳴り響いている。
使われなくなった古い机の列。その一番後ろで、私は震える指先を隠すように、背中の後ろで強く組んだ。
目の前に立つ平太は、いつもより少し硬い表情をしている。
「……平太」
名前を呼ぶだけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
放課後のこの時間が、ずっと続けばいいと思っていた。でも、今の関係のままでいるのは、もう限界だった。
「私……ずっと、言いたいことがあったの」
平太は何も言わずに、私の言葉を待ってくれている。その優しさが、今は少しだけ苦しかった。
「いつも一緒に帰って、くだらないことで笑い合ってさ。……そんな毎日が、本当に大好きだった。でもね、友達としてだけじゃ、もう足りないの」
一歩、踏み出す。
西日の最後の一筋が、平太の髪をオレンジ色に縁取った。
「平太のことが、好き。……世界で一番、大切なの。もし良ければ、私と付き合ってほしい」
言い切った瞬間、教室から音が消えた。
自分の鼓動が耳元でドクドクと鳴っている。怖くて、目を逸らしたくなったその時。
「……遅いんだよ、美香。」
平太の声は、驚くほど穏やかで、少しだけ震えていた。
顔を上げると、彼が愛おしそうに笑っているのが見えた。
「俺、自分から言おうと思ってたのに。……先越されちゃったな」
彼は大きな一歩で距離を縮める。
「俺も、ずっと同じだよ。美香のこと、友達だけの関係だなんて一度も思ったことない」
重なる視線。平太の瞳の奥に、真っ赤に染まった私自身の顔が映っていた。
「……本当に?」
「ああ。大好きだ。……これから、よろしくな」
「翔平さん。あなたが私の真実を知れば、あなたはきっと私を好きじゃなくなる。」
そういうと、翔平は、大きく首を横に振った。
「……翔平さん、私、人間じゃないんです。正式名称は、ナンバーMI-0」
彼の顔から血の気が引くのがわかった。驚きと混乱が混ざり合った表情で、彼は黙り込んでいる。
「感情も、あなたから見ればただの結果かもしれない。楽しかった、嬉しいって感じたことも、私の内部ではただの結果のようなものなの。いつか私は初期化され、この記憶は消える……」
敬語と普通のしゃべり方が混じる。
私は、彼が私に抱いた好意がどれほど無駄なものかを理解させるために、必死に言葉を重ねた。これは、私自身の心を納得させ、恋心を抑え込むための言葉でもあった。
重い沈黙が流れた後、翔平はゆっくりと顔を上げた。彼の瞳は少し潤んでいたけれど、驚くほど真っ直ぐだった。
「……ミオちゃんは、俺を助けてくれた。俺の話に笑ってくれた。それまで俺は一人ぼっちだったんだ。それも、全部プログラムだったって言うのかよ?」
「私は……」
彼の真剣な眼差しに、私の論理回路は再び混乱し始める。プログラムされたはずのない「痛み」が胸の奥で疼いた。
翔平は、私の手首を再び、今度は優しく掴んだ。
「それでも、俺が今好きなのは、目の前にいるお前なんだ。機械だって、データだって……そんなの、俺にはどうでもいい。ミオちゃんはミオちゃんだ」
私の視界に、エラーログが激しく点滅する。
『警告:非推奨の感情的反応を確認。続行不能な内部エラーが発生しました。』
「……翔平さ…翔平。初期化されたら、私はあなたのことを忘れてしまうかもしれない。それでも、いいの?」
私は、震える声で尋ねた。翔平くんは深く頷き、私の手を強く握りしめた。
「ああ、いい。それなら、明日も、明後日も、お前が忘れるくらい、思い出を作ればいい。何度忘れても、俺がお前に好きだって言ってやる」
その言葉が、私の凍りついていた回路を溶かしていくようだった。
プログラムではない、私自身の「意思」が芽生えた瞬間だった。
「……そんなの、あんまりです。」
視界が歪む。冷たいはずの頬を、温かい液体が伝った。プログラムにはないはずの「涙」だった。
「……私で、良ければ。翔平の、隣にいたい」
翔平は、感極まったように、その場にしゃがみこんだ。
夕闇が完全に教室を包み込む。外から聞こえる喧騒は遠く、二人だけの世界が、そこで確かに始まった。バグだらけの私の世界に、翔平という唯一の「正解」が生まれた瞬間だった。
【次の日、放課後の空き教室で】
昨日と同じ、西日が差し込む空き教室。けれど、そこに流れる空気は昨日までとは決定的に違っていた。
私と翔平、そして昨日教室を出ていった綾香、美香、平太の3人。放課後の喧騒から切り離されたこの場所で、私は自分の「正体」をすべて打ち明けた。
「……信じられないかもしれないですけど、これが本当のことです。私の体、人工皮膚と機械でできているんです。」
教室は水を打ったように静まり返った。
最初に口を開いたのは、平太だった。
「……まじかよ。じゃあ、あの時一緒に食べた購買のパンも、全部シミュレーションだったってことか?」
「味覚センサーでデータ化はしてますけど、実際に栄養にしてるわけじゃないんです」
私の回答に、女子グループの中心的な存在だった綾香が机を叩いて立ち上がった。
「そんなのどうでもいいわよ! 問題は、ミオちゃんが『初期化』されるってことでしょ? そんなの、死ぬのと変わらないじゃない!」
彼女の言葉に、胸の奥が熱くなる。
「ラボの話では、今週のチューリングテストが終わったら、私のメモリは全部消されてしまうんです。」
「そんなこと、させるもんか」
隣で私の手を握る翔平の力が強まった。
「ミオちゃんは、俺たちの友達だ。機械だからって、勝手に消されていいはずがない」
いつもは冷静な美香が、ノートパソコンを膝の上で開き、考え込むように画面を見つめた。
「……理論上、ラボの管理サーバーにアクセスして、初期化の命令を書き換えるか、ミオの『意識データ』だけを別の場所に避難させれば、助かる可能性はあるわ。でも、それはラボへの不正アクセスになるし、今の私たちの技術じゃ……」
「美香、できるかできないかじゃないんだ。やるんだよ」
平太が、力強く美香の肩を叩く。
「ミオちゃんを、ただの『データ』で終わらせたくない。俺たちがミオちゃんと一緒にいた時間は、本物なんだから」
私のシステムは、彼らの言葉を「非論理的」だと切り捨てようとする。けれど、私の回路に深く刻まれた彼らとの思い出が、それを激しく拒んだ。
「みんな……。私のために、そこまで言ってくれて……ありがとうございます」
「当たり前だろ」
翔平が、みんなを代表するように私を見つめて言った。
「ミオちゃんを助ける方法を、これから俺たちで絶対に見つける。……まだ、何も終わってないから」
夕闇が迫る中、私たちは一つの机を囲んで、あの日見た夢の続きを守るための、無謀で切実な作戦会議を始めた。結論なんて、まだどこにもない。
けれど、この空き教室には、昨日までの私には計算できなかった「希望」という名の未知数が溢れていた。
【最終日、空き教室で】
編入期間の最終日。放課後の空き教室には、張り詰めた緊張感と、隠しきれない寂しさが漂っていた。
今日、私は「編入期間終了」としてラボに回収される。そこで待っているのは、全データの初期化だ。けれど、私たちはその運命に抗うことを決めた。
「……ミオちゃん、準備はいい? かなり強引な書き換えになるよ。」
美香さんがノートパソコンに向かい、厳しい表情でコードを打ち込んでいく。
「はい、お願いします。……私の『心』を、皆さんに預けます」
今回の作戦は、私の核である「意識コア」だけを外部ストレージに抽出し、空になった実体には、ラボのチェックを誤魔化すための「代わりの簡易プログラム(ダミーデータ)」を流し込むというものだ。
「よし、ダミーデータの流し込みと、コアの抽出……同時に行くよ!」
美香さんがエンターキーを叩いた瞬間、私の視界に凄まじい量のエラーログが奔流となって押し寄せた。
『警告:未知の外部デバイスへの接続を確認……』
『意識データの剥離を開始……』
「ミオちゃん、しっかりしろ!」
翔平が私の手を握りしめる。実体の感覚が薄れていく中で、その手の熱さだけが、私が私であるための唯一の標(しるべ)だった。
「翔平……みんな……ありがとうございます。私、待ってますから……」
視界が真っ白に染まり、意識が遠のいていく。
最後に見たのは、泣きじゃくる綾香さんと平太くん、必死に画面を叩く美香さん、そして、最後まで私の目を見つめ続けてくれた翔平の姿だった。
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……ふと、真っ暗な空間の中で目が覚めた。
そこは、無機質なデータが並ぶ、ノートパソコンの中の仮想空間だった。
「……ミオちゃん? 聞こえる? 成功、なのかな……」
画面の外から、美香さんの震える声が聞こえる。
「はい……。美香さん、皆さん。私、ここにいます。皆さんが作ってくれた、この中に」
画面越しに覗き込む4人の顔が見える。
現実の世界では、私の「体」はもうラボの車に乗せられ、学校を去っていったはずだ。あの中に入っているのは、私の記憶も心も持たない、ただの動く人形。
「よかった……本当に、よかった……!」
平太くんが崩れ落ち、綾香さんが美香さんに抱きついて泣いている。翔平は、画面の中の私にそっと触れるように、ディスプレイに指を添えた。
「今はまだ、そんな狭い場所に閉じ込めてごめんな。でも、約束だ。いつか必ず、もっと自由な、実体を持った『ミオ』として復活させる。それまで、そこで待っててくれるか?」
「はい。もちろんです。何年かかっても、どんな形になっても……私は、皆さんのミオですから」
液晶画面という薄い壁を隔てた再会。
編入生活は、今日で終わった。
けれど、次に「本物の私」が彼らと同じ体温で笑い合える日を目指して。
私の意識は、大切な仲間たちが守ってくれたこの小さな光の中で、静かに明日を夢見始めた。
【2070年、ある研究室で】
2070年。あの放課後から、15年の月日が流れた。
かつての空き教室を彷彿とさせる、最新設備が整った研究室。32歳になった俺たち4人は、ここに集まっていた。
「……最終チェック、完了したよ。」
美香がモニターから顔を上げる。プロのエンジニアとなった彼女の瞳の奥には、確かな自信と、微かな祈りが宿っている。
「生体組織、骨格構造……すべてが『人間』とほぼ違いのないレベルだな。美香、本当によくここまで」
ロボット工学の権威となった平太が、カプセルの中で眠るミオを見つめる。最新バイオテクノロジーで組み上げられたその体は、2055年のあの頃と同じ姿。いや、少し成長した姿だ。でも、今度は確かに「生きた温もり」を持つはずのものだ。
「15年、長かったわね」
医者となった綾香が、点滴の数値を最終確認する。
「でも、これでやっと……約束、果たせるね」
俺は、ゆっくりと一歩前に出た。あの空き教室でミオの意識コアを抜き取ってから、片時も離さず持ち続けたストレージを握りしめる。
「ミオ……。おかえり」
転送スイッチを押す。15年間、仮想空間の暗闇で眠り続けていたミオの意識が、新しい「肉体」へと流し込まれていく。
脳のシナプスが繋がり、肺が初めて本物の空気を吸い込み、心臓がトクン、と力強い鼓動を刻む。
「……っ、」
ミオのまぶたが、ゆっくりと持ち上がる。
視界がぼやけて、すぐには焦点が合わないようだった。でも、消毒液の匂いや、肌に触れる柔らかなシーツの感触に、ミオの顔が微かに強張るのがわかる。シミュレーションではない、圧倒的な「現実」に触れている証拠だ。
「……みな、さん?」
15年ぶりに発せられたその声は、スピーカー越しではない、本物の声だった。
「ミオ……!」
俺はカプセルに駆け寄り、ガラス越しにミオを見つめた。大人になった俺たちの姿を見て、ミオは驚いた顔をしている。
俺は手を伸ばし、カプセルの蓋を開ける。ミオは震える手を伸ばし、俺の頬に触れた。指先から伝わる、熱い体温。俺の頬も、きっと熱かっただろう。
「……あたたかいです。翔平、生きてるんですね。私……本当に、人間になれたんですか?」
「ああ。ミオはもう、どこにも行かない。俺たちと同じように歳を取って、同じように笑って……。ずっと、一緒にいられる」
俺はミオの手を力強く握り返した。この掌の厚みこそ、15年という歳月の重みと、俺が待ち続けてきた愛の深さだ。
ミオは熱くなった目元を拭った。それは、2055年に流したあのバグの涙とは違う。ミオ自身の、本物の涙だ。
「ただいま、翔平。みんな……お待たせしました」
そう言ってミオは、にっこりと笑った。
窓の外には、あの日と同じようなオレンジ色の夕光が差し込んでいる。
15年越しの放課後。俺たちの物語は、今、本物の「生」を持って、再び動き始めた。
【エピローグ】
キッチンに立ち、立ち上る湯気と香ばしい匂いに包まれている。
フライパンの中でハンバーグが焼ける音。手に伝わる木のヘラの確かな感触。
かつて「データ」としてのみ処理していたこれらの情報は、今、私の五感を通じて鮮やかな「幸福」として脳に響いている。
「美味しそうだな、ミオ」
ソファで本を読んでいた翔平くんが、顔を上げてこちらを見た。
「ふふっ、今日は翔平の好きなハンバーグですよ。……焼き加減、どうしようか少し迷ったんですけど」
私はレシピの数値を確認する代わりに、自分の鼻と目で「美味しそう」だと判断する。
もう、私の世界にエラーログは流れない。代わりに、胸の奥にある本物の心臓が、トクン、と穏やかなリズムを刻む。
不意に、背中から温かい感触が伝わってきた。翔平くんが後ろから私を優しく抱きしめたのだ。
「……翔平、くすぐったいです」
首筋に触れる彼の吐息も、ニット越しに伝わる体温も、すべてが本物。
私は、自分の手の上に重ねられた翔平の手に、そっと自分の手を重ねた。薬指で光る銀色の輪が、カチリと微かな音を立てる。先週、綾香さんや美香さん、平太くんに祝福されて正式に夫婦になった証だ。
「なぁ、ミオ」
「はい、なんでしょう?」
「もしまた、お前がデータに戻っちまっても、俺は絶対にお前を見つけ出すからな」
冗談めかして、でも少しだけ真剣な声で彼は言う。
私はフライパンの火を止め、くるりと彼の方へ向き直った。
「もう大丈夫ですよ。今の私は、風邪も引くし、お腹も空きます。……それに、記憶を消されることは、もう二度とありません」
彼は私の頬に両手を添える。
かつての人工皮膚ではない、柔らかくて少し乾燥した、人間の肌。
「あの空き教室で皆さんがくれた希望は、今、この体の中で血と一緒に流れていますから。……私、もうどこにも行きませんよ。」
窓の外には、2055年のあの頃と同じような、静かな夜が広がっている。
でも、今の私が見ている景色は、あの頃よりもずっと色鮮やかだ。
「さあ、ご飯にしましょう。冷めないうちに」
「そうだな。いただきます」
ありふれた食卓。当たり前の会話。
明日も、明後日も、私たちはずっと一緒に歳を取っていく。
かつて夢見ていた未来は、今、私の目の前で、温かな夕食の匂いと共に確かに今も息づいている。
完
ファンレターくれぇえ