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【プロローグ】静寂の舞
三月の砂時計が、最後の一粒を落とそうとしていた。
|板間《いたま》の冷たさが足裏を通して、琴音の意識を研ぎ澄ませていく。
琴音は今、舞台の中央にいた。
纏っているのは、六条家の至宝――『|萌黄地流水鳳凰文《もえぎじりゅうすいほうおうもん》』の|小袿《こうちぎ》。最高級の絹が肌を滑るたびに、かすかな熱が生まれ、琴音に「人間」であることを、あるいは「六条の器」であることを、執拗に思い出させる。
琴音は、ゆっくりと扇を広げた。六条家に代々伝わる特別な|檜扇《ひおうぎ》だ。
扇面には、深い群青を背景に、夜にだけ咲く『月下美人』の姿が描き出されている。花びらには、夜光貝を薄く削った|螺鈿《らでん》が|象嵌《ぞうがん》されており、琴音が扇を傾けるたびに、虹色から青白い月光へと煌めきを変える。
親骨には漆黒の漆と金の|蒔絵《まきえ》で、一族の家紋である「下り藤」が控えめに刻み込まれていた。
パッ、と乾燥した音が、静寂の幕を切り裂く唯一の合図。
(……呼吸を。音を、殺して)
琴音は、地を這うように滑り出した。
六条家一子相伝の秘儀、『|静寂の舞《しじまのまい》』。
この舞は、単なる踊りではない。|神事《しんじ》において|穢《けが》れを祓うための、極限の|儀式《ぎしき》だ。
足裏の皮一枚で板の|目《め》を読み、重心を数ミリ単位で移動させる。膝を深く沈め、上体は水面に浮かぶ蓮の花のように静止させる。一歩進むごとに、衣が「さらり」とさえ鳴らぬよう、空気の抵抗さえも計算に入れて、琴音は自分を「無」へと塗りつぶしていく。
(私は、人間ではない。私は、この空間に溶ける沈黙そのもの……)
袖を振り上げれば、銀糸の流水が陽光を撥ねてきらめき、琴音の周囲にだけ透明な川が流れているかのような錯覚が生まれる。
指先は、虚空を撫でるのではなく、目に見えぬ運命の糸を手繰るように繊細に。左から右へ、円を描くように回る|転回《てんかい》の瞬間さえも、衣は一切の風音を立てない。琴音の発光するような「沈黙」が、観客たちの呼吸を奪い、空間の密度を限界まで引き上げていく。
凛として、それでいて消えてしまいそうな儚さ。
自分の声が、道場の梁に美しく反響するのを感じる。
「――ひ、ふ、み」
歌い上げる声は、冬の夜に響く銀の鈴のようだと、誰かが言った。その響きに、琴音自身さえも陶酔していた。
(今、私は世界の中心にいる)
父の誇らしげな視線も、|兵衛《ひょうえ》様の熱い眼差しも、すべてはこの完璧な『無音』を維持する自分に捧げられている。
道場の影に控える姉、|六条佳乃《ろくじょう よしの》の姿は、琴音の瞳には、燃え盛る|篝火《かがりび》のように鮮烈に映っていた。
朱色の振袖を纏ったその姿は、春の陽光を一身に集めた大輪の牡丹のように美しく、同時に、触れれば指を焼くような危うい熱量を孕んでいる。
(お姉様。貴女はそんなに鮮やかなのに、どうしてこの『沈黙』を欲しがるの?)
舞台の影で、朱色の振袖を握りしめていた佳乃が、どんな思いで自分を睨んでいたのか。琴音は、それを知っていた。
(きっとお姉様は、私のことが妬ましくて仕方がないのでしょうね)
家督を継ぐべき姉が、妹にその座を脅かされる。その屈辱は、佳乃の端正な貌をどれほど醜く歪ませていることか。妬まれても仕方がないと、琴音は冷徹なほど客観的に、その美しくも毒々しい嫉妬を眺めていた。
三月の風は、あの日も沈丁花の香りを運んでいた。
その香りが、やがて自分の絶望を塗りつぶす「麻酔」に変わるとも知らずに、琴音はただ、完璧な自分という幻想の中で、美しく舞い続けていた。
ついに新シリーズ開幕です!!
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