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溶けゆく君に、花束を
穹斐うろ
「……ね。海、行かない?」
――そんな突拍子もないことを言われたのは、一つだけ解放されていた窓から秋の色を纏った肌寒い風が入ってきていた、肌寒くなってきた秋の日の放課後だった。
「相変わらず急だね、どうしたの」
「うーん、気分?」
そう言いながら眉を下げて微笑むあの子は、どこか憂いを纏っていて。ほんの少しでも触れたら割れてしまいそうなシャボン玉のようだった。
「まあいいけど。いつ行く?ちょっと入りたいなら十一月までには――」
「……えっ、待って」
「ん、なぁに?」
「一緒に、行ってくれるの?」
驚いたのか、申し訳ないのか。どちらかは分からないけれど、微かに震えた声で私に尋ねてくる。
「なんだ、そんなことか」
「いや、そんなことって……!」
「私が一緒に行きたいから行く、それだけじゃ駄目?」
目線を合わせて、今にも泣いてしまいそうなあの子に優しく微笑みながら答える。私の答えを聞いたあの子が、ゆっくりと首を横に振って弱々しく微笑んだ。その表情は、少し目を話したら消えてしまいそうな笑顔だった。
「あ、彼岸花咲いてる。もうそんな時期か」
「そっか、お彼岸ってこの時期?」
「そ。それにしても白い彼岸花とか初めてみたなあ……」
「好きなの?彼岸花」
「それなりには。なんか地上に咲く花火って感じで綺麗じゃない?」
道路の脇に咲き乱れる彼岸花に視線を移す。その彼岸花の中には、一般的によく見る赤色の彼岸花の中に一つだけ
「……確かに、やっぱり君は発想力の天才だなあ」
「別に、思ったことを言っただけ」
「自己評価が低いんだから〜」
なんだか嬉しそうににこにこしながらこっちを見つめるあの子。何が嬉しいのかは分からないけれど、笑顔になったならそれでいい。やっぱりあの子には笑顔がお似合いだ。
「……あ、ねえ。海さ」
「うん?」
「平日に……行かない?どうせなら」
「学校休むの!?」
私の提案に目を見開くあの子。ぱっちりと開かれた瞳には光が沢山灯ってキラキラと輝いていて。驚いている、というより嬉しそうだった。
「まあ、ちょっとくらい許されるでしょ。私達ユウトウセイなんだからさ」
「それもそっか!じゃあさ――」
私とあの子の背中を満月が淡く優しく照らしてくれる。ユウトウセイならやらないかもしれない計画を、微かな声で練っていく。夕方と夜の境界線のような顔をしていたはずの空は、すっかり夜に塗り変わっていた。
十月中旬。あの子と海に行く約束をして、少し経った頃のこと。「行くならテスト前がいいね」なんて言っていたら、ものすごく時間が経ってしまった。
「結局いつにするって言ったっけ、海」
「うーん、いつだったっけ」
空が夕暮れに染まりかけそうな放課後、この前と同じように向かい合わせに座りながらまた計画を練り始める。
「十月中には行きたいね、十一月だと寒そう」
「じゃあ……再来週、とか。テスト後の授業なんか大体緩いし一人いないくらい許されるでしょ」
「じゃあいっそのことすっごい遠くに行って旅行とかしちゃいたい!」
手帳を取り出して十月末の週を指し示す。あの子が手帳を覗き込んで頷く。覗き込んでいる瞳は、あの帰り道と同じようにキラキラと輝いていて。
「……いーね、行こうか。見つからないようなところね」
「そうそう!どうせならめっちゃ綺麗な所とか行きたいねぇ」
「どこだろう……こことか」
少し昔、家族で旅行に行った場所で撮った写真を見せる。そこは、真っ白な砂浜とそれによく映える真っ青な海が広がっているのが印象的な浜辺。
「それ……ってどこだっけ」
「今日の帰りに図書館でも寄って調べようか」
「あり、じゃあ行き方も調べたいし早く行こ〜!」
そう言うと椅子から勢いよく立ち上がって帰り支度を始めるあの子。相変わらずの突拍子具合に笑みが零れてしまう。
「ちょっと、何笑ってんのー!?早く来て!」
既に帰り支度を終えたあの子がドアの側から声を掛けられる。
「はいはい、分かったからちょっと待って」
家で使う勉強道具と手帳を鞄に仕舞ってあの子の方に向かっていく。
「この辺って図書館あったっけ?」
「ちょっと遠くに。歩ける?」
「歩ける!一緒に話したいし」
「なら良かった、じゃあ行こっか」
校門を出て、肩を並べて歩き始める。今日はいつもよりも暖かくて、夏の色がほんのりと戻ってきたような生ぬるい風が吹いている。
「なんか今日じめじめしてる?残暑かなー」
「残暑にしては遅くない?明日雨なのかも、頭痛いし」
「えっ、頭痛いの!?じゃあ今日帰る?」
「ううん、気圧痛だから大丈夫。……あ、クレープ。食べてもいい?あそこの」
私の目線の先にはクレープ屋がある。普段なら並んでいるはずなのに今は空いている。また帰りに寄ったら並んでいるのだろう。
「いいけど、お金ある?」
「流石にあるよ」
鞄から財布を取り出しながら呟いてメニュー表を眺める。その横で私
「何食べるの?」
「んー……チョコバナナ、かな」
「じゃあ私ミルクティー!」
店頭に向かって、クレープとミルクティーを頼む。幸い空いていたので、クレープはすぐ出てきた。
「美味しい?」
「うん、美味しい」
出来たてのクレープを一口頬張る。クリームとチョコの甘さがちょうど良くて、すいすい食べ進めてしまう。
「あ、私にも一口ちょうだい!」
チョコバナナが大好きなあの子が、一口ねだってくる。幸い、私の手元にはあと一口だけのクレープが残っていた。
「いいよ、はい」
私の手元からクレープを一口頬張るあの子を見ながらミルクティーを口に運ぶ。優しい甘さが口いっぱいに広がっていく。
「やばっ、もうこんな時間かあ……どうしよ、図書館行く?」
クレープを食べて満足してしまったのか、当初の予定だったはずの図書館に行く話を辞めるか、と問いかけられる。
「え〜……帰ってもいいけど、明日とか空いてるの?」
「空いてる空いてる!じゃあ公園でも寄って帰らない?」
「公園?珍しいね、いいよ」
「決まり、そうと決まれば早く行こ〜!確か定期の範囲内でいい感じの公園があったんだよね!」
上機嫌な様子で呟いているあの子に手を引かれるまま電車に乗る。規則的で緩やかな電車の揺れは、睡魔を呼んでくる。
「んふふ、眠い?眠かったら寝てて〜、起こすから!」
「ありがと、じゃあお言葉に甘え…て……」
今寝れば夜に眠れなくなってしまうような気もしたけれど、睡魔には抗えずそのまま眠ってしまった。
「――おーい、起きて。そろそろ着くから〜」
トントン、と優しく肩を叩かれて起こされる。ゆっくりと開いた目線の先にいたのは、何やら嬉しそうなあの子の姿。
「……おはよ、なんか嬉しそうだね?」
電車を降りて、話しかける。案内をしようとしてくれていたのか前を歩いていたあの子が振り返って答える。
「んー?いやあ……気に入ってもらえるだろうなーって!」
ひまわりのような明るい笑みを浮かべながら答える少女はとても無邪気で。彼女の進める所は大体好きなところだけど、尚更楽しみになっていた。
「……あ、そこ段差から気をつけてね」
「ん、ありがと」
目元が暗くなっているのを感じながら、少しずつ歩いていく。「後もうちょっとで着くから!」そう言って急に手で作られた簡易的な目隠しをされたまま公園へと向かっていく。ぎこちない歩き方をしている私の姿は、傍から見たら変な人かもしれないけれど、私にとっては中々ないことで。ものすごく楽しかった。
「――じゃじゃーん、ここが私おすすめの公園です!」
するりと目隠しになっていた手が離される。さっきまで暗かった視界が一瞬で明るくなる。その眩しさで視界がボヤける。瞬きを幾つかすると、段々と視界がはっきりとしてきて。視界に映りこんできたのは、ぎっしりと咲き乱れる彼岸花だった。
「彼岸花……の花畑?」
「そう、好きそうだな〜って思ってさ!あ、こっち来てこっち!」
ぱたぱたと走っていったかと思えば、手を挙げて私を呼んでいる。呼ばれた方に行ってみるとそこは高台なっていて、どこを見ても彼岸花が咲いていた。
「おー、よくこんなところ見つけたね」
「……なんか私の思ってた反応じゃなーい!嫌だった?」
「ごめんごめん、感情とか声に乗せるの苦手でさ」
「なーんだ!そういうことね」
「うん、そういうこと」
側にあったベンチに座って、花畑を眺める。秋風に揺れる彼岸花はロウソクの灯りのように静かに揺れている。でも花びらを散らすことはなくて、ただ静かに揺れるだけ。
「ね、彼岸花の花言葉。知ってる?まあ君なら知ってるか〜!」
「……色々あるけど『悲しい思い出』とか『再会』とか。この前見た白だと……『また会う日を楽しみに』とか」
幾つかの花言葉を答えていく。他にもあるけれど、今の私にはこれが一番しっくりきた。
「さっすが〜!やっぱり知ってたね」
「勿論。彼岸花が一番好きだからね」
花畑の方を向きながら答える。下弦の三日月に照らされた彼岸花はどこか幻想的で、触れてしまえばその毒でどこかに行けそうな気がしてしまった。
「海、来週にしよ!月曜日から……水曜日くらいまで?」
「急だね、いいよ。行き方調べなきゃか」
「新幹線とか乗るよね!楽しみ〜!!」
「ごめん遅れた!おはよ〜っ」
翌週の月曜日。慌てて走ってきたあの子は、白いシャツとチェックのロングスカート。そしてシャツの上からはカーディガンを羽織っていて。彼女の姿はいつもよりも増して優しさを纏っていた。
「おはよ、私も今来た」
「何それ!彼氏じゃないんだから〜」
「……ほら、新幹線来るから行くよ」
「照れた〜!?」
「別に」
案の定こんな平日に新幹線乗る人は少なくて、新幹線の中はがらりとしていて、隣の席には誰もいなかった。
「人少ないね……って何してるの」
「あー、気にしないで」
「……はーい?」
スマホを耳に当てながら会話を交わす。多分何をしているのかあの子には伝わっていないだろうけど、今はまだ伝わらなくてもいい。
「あ、富士山!富士山見える?」
「うん、見えるよ。富士山、ほら」
スマホの画面を新幹線の窓側に向けながら答える。その様子をまた不思議そうにあの子が見つめる。
「……それされたら見えないんだけど!?」
「ごめんごめん、ほら、これで見える?」
スマホを耳に当て直してから答える。あの子が私の座っている窓側の方まで乗り出してきて見ようとする。
「あっ、見え……ないよ通り過ぎちゃった!」
「うそ、ごめん」
「まあいいや、多分帰りも見れるでしょ?」
「……多分ね」
「えっ、何その間!?」
「あー、ほら。座る方違ったら見えない、じゃん?」
「確かに……」
納得したのか、大人しく私の隣に座る。見れなかったことが相当悔しかったのか、どこか拗ねているような気もした。
「ごめんって、ね?もう着くから」
「……じゃあお詫びにアイス買ってよね。バニラ味!」
「わかったわかった、買うから降りるよ」
「はーい!」
私の言葉を聞いては上機嫌で降車するあの子はやっぱり分かりやすくて、そこがなんだか面白くてまた笑みが零れてしまう。
「え、なんか風強くない!?」
「まあ海近いからね」
海沿いに伸びる堤防を歩きながら溶け始めのバニラアイスを頬張る。
「ごめんね〜、食べきれなくって。最近あんましお腹空かなくてさ」
「別にいいよ、私も食べたかった」
「なら良かった!早く行こ〜?」
「……あ、一箇所だけ寄りたい所ある」
「いーよ、どこ?」
「――花屋」
海の香りが微かに届く花屋で、花束の完成を待つ。
「花、何にしたの?」
「……来てからのお楽しみ」
またスマホを耳に当てながら答える。言っても意味ないことに気づいたのか、呆れたのか。どちらか分からないけれどもう何も言わなくなった。
「お待たせしました〜!こちら、ご注文の花束です」
「ありがとうございます」
花束を受け取り、大事に抱える。
「ありがとうございましたー!」
彼岸花の甘くて上品な香りを纏いながら、軽やかな店員の声を後に花屋を出る。
「へ〜、彼岸花って売ってるんだ?」
「場所によるみたい。調べたらここでは売ってるって出たから買いたくて」
「でもそれなら帰りの方が良かったんじゃないの?」
「ううん、今が良かったの」
「……そっか」
花束を見つめながら答える。頬を撫でる風が纏う海の匂いは段々と強くなっていく。
「……着いた!なんかすっごく長かった〜!!」
「あ、ちょっと」
私が止めるよりも先に、あの子が海へと駆けていく。その後ろを慌てて追いかけると幸いそこには誰もいなくて、貸切状態になっていた。
「誰もいないじゃん、ラッキー!」
るんるん、と嬉しそうな様子で振り返るあの子のスカートがふわりと舞う。
「良かったね、最期に来れて」
「……ほんとに!来れて良かったぁ、連れてきてくれてありがとうね?」
そう言い出したのと同時に、あの子の体がふわりと浮く。さっきまで確かにあったはずの足はほんのりと透けているように見える。
「それにしても、なんで海?」
「言ったじゃん、気分って」
「……ふーん」
真っ白な砂浜に座って海を眺める。どこまでも広がる水平線が、嫌でも世界の広さを実感させる。
「海、綺麗だね」
話しかけられた声に気づいて声の方を向くと、今にも消えそうな表情のあの子がいた。
「ほんとにね、綺麗すぎてずっと見ていたいくらい」
「……そーだね」
ぼそり、と小さく何かを呟いたあの子から視線を逸らして、また海の方を向く。
「――ね、最期にさ」
「うん?」
「海、一緒に入ろうよ。ちょっとだけ!」
私の手を勢いよく引いて波際へと走っていく。いきなり手を引かれた私はされるがままになることしかできなくて。気づけば靴を脱ぐ暇もなく足首辺りまでが海に浸かっていた。
「ひゃーっ、水冷たすぎない!?」
「確かに冷たいかも。もうちょい前の方が良かったね」
「次来る時はもうちょい前にしなよ〜?」
ぱしゃぱしゃ、と楽しそうに足踏みをしながら私に提案する。
「うん、そうする。……ていうか五感とかあるんだ」
「まあ魂だから、なんとなくは?」
曖昧にそう答えたあの子は、なんだかすごく楽しそうで、「一緒に来れて良かった」なんて気づけば思っていて。
「海水浴、楽しいね」
「泳いでないけどね」
「ほんとだ!まあ楽しいからいいじゃん」
何気ない日常を私達はずっと探していたんだろうな、なんて今更思う。もう無意味になりそうな思いが広がっていく。
あの子の死は、二学期になってすぐに担任から知らされた。夏休み最後の日、自殺者が多いあの日に彼女は命を絶ったらしい。親にも、学校にも何にも言い残さず、勝手に命を絶った、と聞かされた。勿論、私の所にも何の連絡も届いていなかった。だから先生からの訃報を告げられた時、私の視界は一瞬で真っ黒に染まった。高校生最後の夏、指定校で入学を決めれた『ユウトウセイ』だった私達は、最後の夏を存分に楽しめていた……はずだったのに。その夏を最後に、あの子はいなくなってしまった。
「おはよ!……どした?顔暗いじゃん」
「――え、なんで……」
訃報から一週間と少し経った水曜日のこと。私の前に、あの子は現れた。でも、私の知ってるあの子とは少し違っていて。全体的に微かに透けていて、私よりもほんの少しだけ背が高くなっていた。背が高くなっていたのはちょっぴり浮いていたからだと後で気づいたけど。
「明日小テストとかだるくなーい?」
――私がどれだけ混乱していても、それでもあの子はいつも通りで変わらなくて。ずっと私の都合のいい長い夢だと思っていた。頬を抓っても痛くないのはきっと、よく作られた夢だからだと思っていて。
「あ、じゃあまた明日!」
「うん、ばいばい」
「最近よく誰かと話しているみたいだけど……誰と話しているの?」
ある日の放課後、いつもみたいに誰もいない教室であの子と話しているのことだった。たまたま教室を通りかかった先生に、そう言われた。
「え、そこにあの子が……」
「あの子……ああ、貴方のお友達だった。彼女はもういないでしょう、一人で何を言っているの?」
先生の言葉に、私はようやく気付かされた。ここは現実で、あの子はもう居なくて。そして今私が話しているのはあの子の魂……幽霊で、都合のいい夢じゃない。
「……そうでしたね、最近疲れてるのかひとりごと多くって」
「そう。休める時に休みなさいね、二日…三日くらいいなくてもきっと問題ないだろうから」
「はい、ありがとう……ございます」
休もうにも休めなかった私にとって、その言葉は難題でしかなくて。とりあえず頷くしかできなかった。
「何あの先生、私のこといない扱いして〜!」
先生が去ってから、あの子が話し出す。どうやら、彼女には幽体になっている自覚がないらしい。
「……ね、どうしたんだろう」
存在しないことを知ってしまった私は、グラウンドの方を見つめながらさっきよりも声を潜めて答えることしか出来なかった。
「おーい、どしたの?」
砂浜に戻ってきて、のんびりと海を眺めながらあの日々を思い出していると、あの子に声をかけられた。
「あー、ごめん。その姿になった君に出会った時とか思い出してた。」
「何それ。まあ驚かせたよね〜、ごめん!」
勢いよく、そして申し訳なさそうに私に謝るあの子の瞳は静かに揺らいでいて、終わりが近いことを感じさせられた。
「……私は、別に。こうやってまた話せたのが嬉しかったから。むしろ謝んないで?」
「やっぱり君は優しいなあ」
「まあ、私だから」
「……私ね」
弱々しい笑みをこちらに向けながら、あの子が話す。
「謝りたかったんだぁ……急に、いなくなっちゃったからさ」
「うん」
「でもさ。やっぱり君と過ごすのすっごく楽しくて、中々言い出せなかった……ほんとは、言ってすぐ居なくなるつもりだったんだけどね」
「……うん」
段々と、お互いの声が震えてくる。一人の声は後悔に、一人の声は寂しさに震えている。
「だから、だから……ね。こうやって話せて、過ごせて。ここまで来れたの、嬉しかった」
「……私も、嬉しいよ」
届かないと分かっていながら、手をそっとあの子に伸ばす。案の定手は通り抜けて、空を切った。
「もう、行かなきゃか」
「……そっか」
あの子が立ち上がって歩き方始める。私も立ち上がり、バレないように目を擦りながらあの子の後ろを着いて行く。
「じゃあ」
再会してから見てきたあの子の笑顔の中で、一番元気で明るい笑顔を浮かべてから背を向けて海へと歩き始める。高く登った陽射しが、あの子の道を優しく照らしている。今の私にはあの子を止めることも、追いかけることも出来ない。けれど、その事実に後悔も、苦しさも感じない。
「――じゃあ、また」
段々と、あの子の姿が海へと溶けていく。陽射しは段々と強くなる。波際ぎりぎりに立っていたからか、波が足にかかる。でも、そんなことはもう微塵も気にならなかった。
あの子の姿が完全に溶けきった海を、浜辺に座って静かに眺める。波はとても穏やかで、まるであの子が静めてくれているかのようで。誰もいない、貸切状態の浜辺には、鼻をすする音と波音だけが広がっていく。週の始まりである月曜日の浜辺には、私以外は誰もいない。さっきまでは賑やかだった隣にも、人影はない。それでも、隣にはまだ確かにあの子がいるような気がしていて。
「――花束、渡しそびれちゃったな」
私の横に置いている行きの花屋で買っておいた白い彼岸花の花束に触れながら呟く。その声に気づく人はもう、誰もいない。
「元気に生きるんだぞー!私の分まで、ね」
――突然、背後から声がしたような気がして振り返る。勿論そこには誰もいなくて、空耳だと分かっていても、どこか期待してしまう私がいた。
「……そろそろ行かなきゃなあ、後を追いかける訳にも行かないし」
ゆっくりと立ち上がって、花束を手に取る。海水を含んで重くなった靴を履いている足を、また海へと進めていく。波際で立ち止まり、そこに打ち寄せてきた波に花束をそっと放り投げる。花束はぱしゃんと小さな音を立てて、波に揺られながら海へと流れていく。
「――また会う日を楽しみに」
花束が見えなくなってから、小さく呟く。海に背を向けて、平日の静かな浜辺を後にした。手元にはもう何も残っていない。残っているのは、あの子に手を伸ばしたのに触れられなかった、ちょっぴり妙な感覚だけだった。
あの子の後を追わなかったことに、なんの後悔はない。それでもあの時期になると、海に出かける度に、未だにあの子と過ごした夢のようで夢じゃ無かった不思議な日々を少し思い出してしまう。