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夢の中なら
私は私、彼は彼です。
江川:今作の主人公。
戌井さん:彼。
私は初めて記憶というものに感謝しました。彼が私を受け入れて、喜ぶはずもないのですから。
夢から目覚めた朝、とてもとても明瞭な気持ちです。カーテンを開き窓を開け放ち、私は息を深くまで肺に満たしました。
朝日はまばゆくも柔らかく、そして涼やかに我々と建物を満たしています。昼間の陽気は嫌ですが、明け方の陽はかくも美しいのか。
ああ、早起きだからか頭が痛い。でも幸せな頭痛です。
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そこに居た時から気づいていましたが、昨晩に見た夢でした。
薄暗い部屋、照明もまともにないのに何故か薄暗いだけで視界が分かる部屋。居たのは立っている私と、椅子に縛られた彼。
彼は怯えたようなほっとしたような、複雑な目で私を見上げています。私が記憶に留めているだけの彼でも、夢でも幻でも、ずっとずっとリアリティがありました。
ぬぼっと立っていた瞬間から、ああ夢だと気づきます。現実であれば彼が目の前で縛られているはずもないですから。
「エガワ……?」
彼は私の苗字を訊ねます。低く通りがよい声。たくさんの語りに耳を傾け、楽しそうに朗らかに笑うあの声で。彼の表情は口元と眉間から緊張が見られます。なんと愛おしいのでしょう。
私は彼より背が低いので、見上げられているのがとてつもなく貴重なのです。緊張している顔を見るのも。
私は縛られている彼に目線でそっと触れます。縛られているのは上半身、それから手首と足首のようです。後ろ手に、それから四つ足の椅子の前足に……開脚した状態で。
苦しそうではない辺り、彼もここに来てあまり時間は経っていないみたいです。長いことそうしていると、痺れや痛みが出てくるものですから。
そのことに安堵しながらも心の中でざわつくような漣が揺らぎます。縛られている彼など見たことが無かったから、その美しさに……曲線のようで直線的な姿勢だとか、警戒混じりに注がれる軽蔑にも似た視線だとか。
こくり。喉が鳴ります。私の熱い欲望が喉を伝って奥まで流れていくのです。
「大丈夫です。きっとすぐに終わりますよ」
私は上手く笑えていたでしょうか。彼の縄を外そうと、背後から結び目を探ります。
しかしどうしたことでしょう。あるはずのものが見当たりません。それとも、巧妙に隠されているのでしょうか。
「解けそうか?」
「……駄目そうです。戌井さん」
「そっか……あ、じゃ、じゃあハサミ。何か切れそうなものがないか見てみてよ」
「それもそうですね」
確かに、それがあれば断ち切れそうです。私は部屋を見渡して何かがないかを確かめました。
ああ、ちょうどよいところに引き出しがあります。四段ほどある引き出しです。取っ手を手前に引くと——私は喉の奥がぐっと熱くなるのを感じました。自分の口元が悟られないよう筋肉を緊張させ、中身をしまいます。
「どう、何かあったか?」
「何もないです」
ええ、何もありませんでした。彼にとっては不都合な事実だけがなくなっていましたとも。
劣情を誘う彼の写真が、私の妄想した風景がそこに敷き詰められていたのですから。
涙でうるませ許しを乞うような姿。頬を染め身体には何も身にまとっておらず、必死に下肢の可愛らしい本能を膨張させ、私に向かって赦しを乞う姿。抵抗などしていませんでした。なぜならば、彼は縛られていたからです。
ちょうど、今のように。
「戌井さん」取り繕ったため息をつきます。呼吸が荒くなりかけていましたから。先ほどから、ありえないことばかり起こる。
私の中で欲望が膨れ上がるばかり。飲み込んだはずの唾液がぐつぐつ胃の中で沸騰しているように熱い。
「なんとかしてみますから、少しだけ……また縄の状態を見ても構いませんか?」
目の前の彼が当然のように頷きます。もう不安は消えているようで、彼は私を見上げながらもすっかり任せた力の抜き方をしていました。
彼の目をいつもより長く見つめます。私の顔なんかよりも彼の目が見たかったのに、どうして彼は私を映し出しているのでしょうか。本当に、夢らしくありえないことばかり。
「戌井さん」
私は再び彼を呼びます。目線を合わせるようしゃがみます。
ありえないことばかり起こるのは、ここが夢だからかと思い直します。空想の中にしか存在しえない写真。縛られている彼。私の目を見る彼。私の名を呼ぶ彼。
私を知っている彼。
彼は私をほとんど知らない状態でなければならない。彼の瞳に私など映ってはいけない。
何も現実でない。
ふと、私の中に閃きが舞い降りてきました。
現実でないのなら、夢であるのなら。
「……かわいらしいですね」
なぜ、現実と同じように振る舞うべきだろうか? と。
私は彼と唇を重ね、彼を貪りました。少し乾燥した皮がおいしいです。軽く歯で食みながら押し付けます。彼の全身が大きくおののきました。とても愛らしいです。小さな隙間から舌を丁寧に差し入れ何度も汚れを洗い流しました。ああいや、私の唾液ではもっと汚れてしまったかもしれません。けれど歯は毎日何度も磨いておりますから、汚れは最低限で済みますね。
彼が怯えたようで愛らしい。
彼の舌が逃げ惑います。私はそれを追いかけ捕まえ、凌辱の限りを尽くしました。凌辱です。けれど褒美です。歓びです。重ねて絡めて、吸い付いて……彼がくぐもった否定をあげます。その度に私は夢心地でした。
彼の唇の夢は私にとってあんまりにも褒美に溺れたものでした。
彼の目がぎゅっと瞑ります。必死に口を閉じようと、また顔を逸らそうとあがきました。私は両手で彼の頭を受け止め何度も何度も戻してやりました。
ああ、思い出。私の記憶よ。
私は初めて記憶というものに感謝しました。彼が私を受け入れて、喜ぶはずもないのですから。
御業じみた際限の数々が、たとえば苦し紛れの喘ぎの数々が私を静かに祝いました。
息が苦しいのでしょうか。彼の抵抗が段々と強まってきます。私はもうすっかり昂ぶりを抑えられず、熱くなった下肢を膝上に乗せて圧迫し始めました。硬いものが食い込む感触が何とも心地よく、また私の体温だとか肌だとかで彼を汚すことがとても心地よく、執拗に刺激を求めました。
彼が抵抗する度、わずかに残された可動域がぶる、ぶると私の性器を刺激して……いけない気分に、ああ、だからこそ陥りました。
「戌井さん……戌井さん」
私は小さく喘ぎながら戌井さんで自らを慰めます。同時に彼の身体へ指を這わせ、太腿を擽るように愛撫すると股間が少しずつ膨れ上がっていきました。まるでパンが発酵するようです。
私のお腹の奥がきゅうと響きます。お腹の。奥。です。
「エガワ……っ」拒絶に満ちた声。拒絶しかない声。ああ、そうでしょう。そうでしょうね。
気付けば笑いが込み上げていました。息を吐き出して笑っていました。彼の嫌がる顔がどうにも、私の奥底に熾のような火を灯しました。
「可愛い」
彼のジーンズに手をかけて、そうっと指を下ろします。カリカリと膨らみを爪先で引っ掻いて、熱を昂らせます。ああ、ああと意味のない喘ぎが彼から零れました。
「気持ちいいですね、戌井さん」
耳元で囁けば彼の腰が微かに揺れ動きました。私の声に弱いのではなく、ただ単に耳が弱いのだと思います。
チャックに手をかけて下ろしていく。下着ごとずるりと下ろせば、窮屈そうな彼の半身に手を添わせて撫でていく。
「いっぱい……良くしてあげますから」
今は、今だけは。彼は私だけのもの。