公開中
🗝️🌙番外編 冬のお鍋とふたりぶんの席
十二月、冬本番の冷たい風が吹き込む季節。
夜になると、商店街を歩く人々は肩をすぼめ、息を白くして足早に家路を急ぐ。
こはるの店「しろつめ草」も、年末に向けて少しずつ忙しくなっていた。
けれどその日、夜の営業は静かだった。
午後八時。客は誰もおらず、テレビの音だけがぽつりぽつりと店内に響いている。
「今日は鍋にしようかな…まかないで。」
独り言を呟きながら、こはるは冷蔵庫を開けた。
白菜、大根、にんじん、ねぎ、豆腐、そして鶏団子。冷蔵庫には少しだけ余っていた鱈もある。
鍋は、余った野菜を一気に使いきれる、冬の救世主。
祖母ツヤが生きていた頃、二人でよく囲んだ食卓を思い出す。
「"鍋はね、誰かと囲むもんなのよ"。…そう言ってたっけ。」
こはるは、静かに鍋の用意を始めた。土鍋に出汁を張り、野菜を丁寧に切り揃えて並べていく。
味付けは、醤油と酒に、少しの柚子胡椒。祖母が好んでいた配合だ。
そして火にかけたその時だった。
――カララッ。
引き戸の音がした。
見ると、扉の向こうに立っていたのは、見慣れた男性の姿。
「こんばんは、まだやってた?」
「岸本さん…いらっしゃい。今日は、閉めようかと思ってたところで。」
フリーカメラマンの岸本蒼一は、肩に雪を被っていた。
どうやら、天気予報どおりに雪が降りだしたらしい。
「そっか。…でも、その鍋、いい匂いがしてる。」
「まかないですよ。一人鍋ですけど。」
「二人鍋にしない?」
あっけらかんとした言い方に、こはるは一瞬、目を丸くした。
「…構いませんけど。ごはん、炊きますね。」
火にかけた土鍋の中で、白菜がふつふつと音を立て、湯気が二人の間をふわりと繋ぐ。
鍋というのは、不思議な料理だ。
作り手がいても、食べる瞬間には"皆で煮る"。その場で味が育ち、共有されていく。
箸を伸ばしながら、岸本がぽつりと言った。
「昔さ、仲間と冬山に撮影に行ったとき、夜は毎晩鍋だったんだよ。気温マイナス十度。外は氷の世界。だけど、鍋だけはあったかくてさ。」
「なんの鍋でした?」
「ありったけの缶詰を入れた闇鍋みたいなやつ。でも、どんなレストランの料理より、ずっと美味しかった。…誰かと一緒に食べるからなんだろうな。」
こはるは微笑んで、鶏団子をよそった。
「祖母も、似たようなこと言ってました。"鍋はひとりで食べると寒くなる。ふたりで食べると、心まであったかくなる"って。」
「ツヤさんらしい言葉だ。」
ふたりで笑い合うその空気もまた、冬の冷たさをどこか遠ざけてくれる。
箸が進み、やがて鍋は空になった。
「ごちそうさまでした。…なんどか、肩の力が抜けたよ。」
「それはよかったです。」
こはるは、空になった土鍋を見つめながら言った。
「鍋って、"大丈夫"って言ってるみたいですよね。野菜も、お肉も、お豆腐も…みんな同じ鍋の中で、ちゃんと煮えて、おいしくなってくれる。」
「そうだな。"お前もちゃんと大丈夫になるよ"って、言ってくれてるみたいだ。」
しばらく沈黙が流れた。けれど、それは決して気まずいものではない。
ふたりぶんの席。ひとつの鍋。
窓の外では、雪が音もなく降り続けている。
---
その夜、こはるは祖母のメモ帳の端に、新しいレシピを記した。
『冬のお鍋――
余った野菜で、心も一緒に煮込むこと。
できれば、ひとり分ではなく、ふたり分以上で。
あったかい言葉と、湯気の中で。』
レシピの最後に、小さなハートのマークを添えて。
きっとまた、あの人が寒い夜にやってきたとき、ふたりぶんの鍋を作ろう。
そしてその鍋は、言葉にできない"ぬくもり"を伝えてくれるに違いない。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
リクエストを頂いていた『冬のお鍋』をテーマに執筆しました。書きながらすごくお鍋が食べたくなってきてしまいました…(笑)
次回は本編に戻り『クリームシチューの約束』をお届けします。こはるの店に現れた、幼い男の子と若い母親。寒い雨の日、熱々のクリームシチューが紡ぐ家族の物語です。
その後、リクエストを頂いています、『オムライス』を書きたいと思います。少しお待たせしてしまいますが、お楽しみに。