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幕間 ハワイの切符と美しき猛獣
朱里が淹れたほうじ茶は、九十度の適温。完璧な「黄金の一滴」が落ちた湯呑みからは、香ばしい湯気が立ち昇っている。
鈴音は「ありがとう」と微笑み、その湯呑みを大切そうに両手で包み込んだ。
「ふふ、やっぱり朱里のお茶は美味しいわね。ところで朱里、さっきから鼻歌が漏れているわよ。何かいいことでもあったのかしら?」
「別に! お店がピカピカになって、お茶が美味しく淹れられた。ただの自己満足よ、自己満足!」
朱里はぷいと顔を背け、自分の湯呑みを一気に煽った。熱い液体が喉を通ると、心の中のトゲが丸く溶けていくような気がする。……いや、単に掃除の達成感かもしれないけれど。
「それより朱里。来週の『町内親睦大運動会』のことだけど」
「ああ、今年もその季節ね。小学校の校庭で、大の大人が血眼になってパンを追いかける、あの一大行事のこと?」
鈴音がおっとりと小首をかしげた。この町において、春の運動会は新年度の勢力図を決める死活問題だ。
「そうよ! 今年も私、町内対抗リレーの選手に選ばれちゃったんだから。姉さんだって、去年みたいに『パン食い競争』でパンの揺れを観察してちゃダメよ。あれは狩りなの! 猛獣になるのよ!」
「うふふ、そうだったわね。でも私、走るとブラウスがシワになっちゃうし、応援に回る方が向いていると思うのだけれど」
「ダメに決まってるでしょ! 鈴音お姉ちゃんがトラックに立つだけで、街の男たちの平均血圧が十は上がるんだから。明光堂の広告塔として、しっかり『美しき猛獣』を演じなさいよ!」
朱里は、自分より頭一つ分高い姉の、優雅なボウタイブラウスを指差して力説した。鈴音は「猛獣だなんて、大袈裟ねぇ」と笑いながら、窓の外の桜並木に目を向けた。
「でも、今年は町を挙げてのお祭り騒ぎになりそうね。商店街の方々も、例年以上に気合が入っているみたいだし」
鈴音が窓の外、アーケードの入り口に掲げられた『第28回 町内親睦大運動会』の横断幕を見やりながら言った。朱里(あかり)は鼻を鳴らし、湯呑みをカウンターに置いた。
「そりゃそうよ! 去年の『町内対抗バケツリレー』、最後の一杯で魚屋の源さんに抜かれたのが、商店街一同、血の涙が出るほど悔しかったんだから! あの日以来、魚屋の前を通るたびに源さんが『おーい、薬屋の娘。足腰が足りねぇから、もっと煮干し食えよ!』って、頼んでもいないのにニヤニヤしながら小魚を勧めてくるのよ。もう、屈辱以外の何物でもないわ!」
朱里は小柄な拳をぎゅっと握りしめ、まるで宿敵の名を呼ぶように「煮干しの恨み……」と呟いた。
「お父さんが薬箱の補充で旅に出ている間に、優勝トロフィーをこの明光堂に奪還しなきゃ、店のメンツが丸潰れよ。お父さんが帰ってきたとき、『留守中の明光堂、運動会で魚屋に完敗したらしいな』なんて噂されてたらどうするの? それこそ死活問題よ!」
朱里の鼻息は荒い。彼女にとって、この運動会は単なる親睦会ではなく、街の序列を正すための聖戦なのだ。
「いい、姉さん。今年の商店街連合チームは、打倒・お屋敷街チームに燃えてるのよ。八百屋のサブちゃんなんて、納品のたびにキャベツの箱を持ってスクワットしてるし、クリーニング屋の奥さんは、バケツを回す手首を鍛えるために特大のアイロンで素振りをしてるんだから。もう、街中が殺気立ってるわ」
「あらあら……いつの間にそんなに熱心に。でも朱里、そんなに気合を入れて、空回りして転ばないように気をつけてね?」
「空回りじゃないわよ、情熱よ! 私は明日から、店が開く前に坂道ダッシュをするつもりなんだから」
「それに、今回の優勝の景品。今年は『ハワイ旅行』っていう噂よ?」
「はぁ!? ハワイ!? ちょっと、それマジなの? 去年の『洗剤詰め合わせ』から格上げしすぎじゃない!?」
朱里の目が、一瞬で獲物を狙う鷹のように鋭くなった。
「いい、姉さん。去年のバケツリレーで負けた屈辱を晴らすのは今よ。お父さんがいない間に優勝トロフィーを奪還して、ハワイへの切符も掴み取るわ。あー、忙しくなってきたわね!」
「あらあら、やる気満々ね。でも朱里、ハワイの前にまずは明日のラジオ体操よ?」
「わかってるわよ! 姉さんこそ、寝坊したら容赦なくハッカ油を鼻の下に塗ってあげるから。覚悟しなさいよ!」
朱里の宣言に、鈴音は「頼もしいわね」と穏やかに笑った。
外では春の風が桜の残骸を巻き上げ、土埃舞う決戦の日を予感させている。明光堂の午後は、お茶の香りと、ほんの少しの野望に包まれて過ぎていった。